永遠の平和へ
カント
カント
カント 著、荘司泰 訳
永遠の平和へ
この皮肉ったタイトルは、オランダの宿屋の看板に書いてあったもので、
看板には墓場の絵が描かれてあった。
人類に対する皮肉なのか、それとも、
戦争をし尽くすことのない国家元首らに対するものか、
甘い夢ばかり見ている哲学者に対するものかは、脇において置こう。
ただ、予め言っておきたいことは、
どうせ政治の実務を担っているものは政治の理論家に対して、
学校でしか通用しない賢人として見下した態度をとっては
大いに自己満足しているわけだし、
経験をもとに動くのを原則としている国家にとって、
理論家の空虚な考えが危険をもたらすなどということはあり得ないのだし、
その気になればいつでも、ボーリングのピンでも倒すように、彼の空論を放棄させられるのだから、かりに意見が食い違っていたとしても、真面目になるようなことがないことを、へんに勘ぐって、国家に危険な思想ではなどと曲解しないようお願いしたい。
これだけ釘を差しておけば、悪いほうにとられないことを期待できよう。
そうでないと、たんなる停戦になってしまう。
敵対するのを、ちょっと止めているだけで、
いっさいの敵対意識の終結を意味する平和にはあたらず、
まして「永遠」などという言葉を添えるのは、なおさらいかがわしい。
平和条約を締結することで、将来の争いの種をいっさい摘み取ったのである。
条文でそのことに具体的にふれているかの問題ではないのである。
もし、近い将来争いの種となるようなことがわかっていながら、
互いに疲弊しているが故、そのことにふれずにおいて、
互いに、たんに次の機会をうかがっているだけだとしたら、
国を預かる者の為すべきことではないと見なすのが素直な意見であろう。
そんなことはわかっているが、常に領土を拡大することこそが
国に栄誉をもたらすのだということだと、
お決まりの、小うるさい話となってしまう。
国家は財産ではない。国家とは、人間が築く社会であり、
国家自身以外の何人も国家を支配したり、処分したりはできない。
国家自体自分の根をもっているのに、接ぎ木でもするように、
切り取って他の国家につなぎあわせるなど、国家を人にたとえるなら、
人格の否定だし、人を物扱いするようなものであり、
大衆の権利に不可欠な原契約の理念に反する。こういった類の取引は、
ヨーロッパ特有で、つまり国家同士の結婚など世界中他では知られていない。
これがどれ程危険か皆わかっている。
家族の結合は、労せずして影響力を超大化する新たな方法だったり、
このような方法で領土を拡張したりする。
特に戦う必要もない相手に兵をかり出されたりもする。
その時に、好きなように使われ消費されるのは下々のものたちというわけだ。
常備軍などというものは、結局いつかはこれを使って戦争するぞと
脅しているようなものだし、互いに脅威に感じあって、
なんとか他者より優れようと際限ない軍拡のため、
小さな戦争よりよっぽどお金がかかり、その負担から逃れるために、
侵略戦争をするようなことになるわけで、平和を脅かすもとである。
それに、殺すか殺されるために兵隊にとられるなど、
他人(国家)の道具や機械となることでしかなく、人権など無視されてしまう。
外からの攻撃に備えるため、定期的に自発的に市民が軍事訓練するのは別である。
富がひとつの国に集中することで、それを他国が脅威とみなし、
先制攻撃を招くこともあるかもしれない。
つまり、軍事力、同盟勢力、経済力と三つの戦争をするための道具があるけれど、
経済力が一番有力な道具だからだ。
経済力をはっきり特定するのに、苦労はするとしても。
道路補修、居住地新規開発、心配される凶作を考えての食料備蓄など、
国の経済のためなら、国内外から援助を求めても、資金源に怪しいところはない。
ところが、対立する勢力が抗争の資金源として借款制度を用いた場合、
負債の度合いは際限なくなりつつも、
同時に債権者全員に返済を要求されることはないため、
常に現状の資金調達を確保できるが、危うい資金源である。
借款制度は商業の民による今世紀の巧みな発明だが、
戦費累積金額は他のあらゆる国の資産合計を超え、
税収が尽きるまで膨れ上がるが、流通が活性化されたり、
産業や商業へのフィードバックがあったりで、税収が尽きるまでかなり時間がかかる。戦争を行うことの、かくなる安易さ、
またどこか人間の本性に近いところがあるのかも知れないが、
権力者の戦争好きこそ、永遠の平和の大きな障害であり、
だからこそ、この障害を禁じることが本予備条項なのだ。
一つの国家が破産すれば、その時被害に巻き込まれる罪のない国々もあるだろうし、それらの国々では公共の機能が麻痺するかも知れない。
だから、他の国々には、かかる国とその横暴に対して連合する権利がある。
つまり、「どんな事柄がこれを正当化できるだろうか?」ということだ。
例えば他国の国民にとってスキャンダラスな事柄が起きていたら、
内政干渉を正当化できるだろうか?
無法状態であると、たいへんな不正が起こるという例は、
むしろ戒めとして役立てることができる。
誰かが悪い見本を示したからといって、示された者に障害が起きる、
ということはない。
仮に、一つの国が内部分裂して、二つに分かれてしまい、
それぞれが独自の国家を想定し全領土を手に入れようとし、
その一方に加担した場合は、その時は無政府状態なわけだから、
内政干渉にはあたらないだろうが、
まだ内乱となっていない限り、外圧による内政干渉は、
スキャンダラスな事が起きていようと、自らの病と格闘している、
独立した民に対する権利侵害であり、
あらゆる国家の自治権を危ういものとする行為であろう。
こうゆうことは破廉恥な軍略である。
やはり戦争中であっても、敵の考え方に対して
何らかの信頼が残っていなくてはならない。
そうでなくては、平和を締結することができなくなってしまうだろう。
憎しみにより敵を根絶するための戦争に突入してしまうだろう。
だが戦争とは、法的効力を持つ判決を下すことのできる法廷が存在しないがため、
権利主張を力ずくで行う、悲しい非常手段である。
この場合、裁判官がいないので、どちらが間違っているかなど
宣言することはできない。神の審判が下ったのだというがごとく、
勝った方が正しいことになってしまう。
しかし二つの国家間において、どちらが上で、どちらが下ということはないのだから、罰としての戦争などありえない。
だから敵を根絶するための戦争だと、両方とも根絶やしにしてしまうかもしれないし、何でもありということになってしまい、
永遠の平和とは、人類の巨大な墓の上にしか存在しえないだろう。
故に、かかる戦争、そうなってしまうような手段は、絶対に禁止しなくてはならない。卑劣な悪魔的手段は、使ってしまうと、戦争の枠内にとどまらず、
例えば人の破廉恥さを利用するスパイ活動は、平和時にも行われ、
平和の意図を完全に破壊してしまうだろう。
ここに記述した予備条項は、権力者が目論んでいることについては、
一様に禁止する法ばかりであるが、状況に関係なく厳格に適用され、
即座に廃止をせまるのは若干の条項(1、5、6)であって、
他の条項(2、3、4)については、法の原則に例外を設けるというわけではないが、
事情に応じて、個別には権限の問題もあるので、実施の猶予が許される。
ただし、目標を見失ってはならず、例えば条項2のケースで、
特定の国家から剥奪された自由の回復を無期限延長したり、
実施しないというわけではなく、性急すぎて平和的意図に反することがないよう、
段階的な実施を許すのである。
つまり、ここにおける禁止は、これから行おうとする場合に当てはまり、
取得したと想定される当時においては、あらゆる国家から合法と見なされた資産には、仮に必要な法的根拠がない場合でも、適用しない。
人間同士いっしょに生活していると、なかなか平和にはいかず、結構戦争である。
いつも敵意むきだし、ということがなくても、常に他人の敵意におびえている。
だから平和は創設しなくてはいけない。敵意むきだしでないからといって、
平和が確約されているわけではない。法的しばりがなければ、
敵意むきだしの隣人がでてくることもあり、これを敵とみなす場合もある。
永遠の平和に進んでいくための第1確定条項
どの国の市民統治の体制も、国民を代表する政府を基本にする
原契約の理念から発する、一民族のあらゆる法の基となる市民統治体制は、
社会を構成する一人の人間としての自由、
社会全員が服従する者として唯一共通の法に依存すること、
国民としての平等、これら三つを基盤にしたものであり、
それは国民を代表する政府を基本とする。
国民を代表する政府は、法律の点で見た場合、本来あらゆる類の市民統治体制の
基本である。
さて、これが永遠の平和へと導いてくれる唯一の制度かどうかだ。
ところが、この国民を代表する政府こそ、
まさしく法理念の真の泉から湧き出でただけでなく、
望ましい結果、すなわち、永遠の平和へ導いてくれる見込みがある。
その理由とは何だろうか。
この国民を代表する政府の体制では、当然のことながら、
戦争か否か、国民の同意を必要とする。
当然国民は、身に降りかかる戦争の悲惨さすべてを背負い込むかどうか
判断をするだろう。
戦場に自ら出向く気があるか、戦費を負担する気があるか、
戦争による廃墟を復興させる気があるか。
悪循環により、もはや平和が苦痛とさえなってしまい、
次々と繰り返される戦争による返済不可能なまでの債務を引き受ける気があるか。
かかる悪行に手を染めるつもりか、国民はじっくり考えるだろう。
他方、国民を代表する政府の体制でないところでは、
戦争か否かは、この世で最もどうでも良い問いだ。
国のトップにいる者が国民の一人ではなく、国の所有者であり、
食卓、狩り、御殿、宮廷パーティが戦争により少しも損なわれることがなければ、
まるで余興でも行うように、つまらない理由で戦争の決定をし、
体裁をととのえるため、お抱え外交団に戦争の正当化をなげやりな調子で
任せるかも知れない。
民主主義体制イコール国民を代表する政府の体制と良く勘違いされるので、
以下の注意をしておく。
国の形態は、好むと好まざるにかかわらず、最高権力の担い手で区分けされるか、
民を統治する方法で区分けされる。
最高権力の担い手は、一人か少数か、全員(市民社会)である。
それらは、独裁政治であり、貴族政治であり、民主政治である。
民を統治する方法とは、国家権力を行使する方法であり、
その方法は国家体制の上に成り立ち、国家体制とは、大衆を民と為さんとする、
一般的意思の表れだ。
その意味で民を統治する方法には、国民を代表するものと、独裁的なものがある。
国民を代表する統治の場合、行政と立法が原理的に切り離される。
独裁的統治だと、立法者が独裁的に行政を行い、
摂政者の個人的意思にそうものが、そのまま公の意思となる。
三つの国家形態の中でも、民主主義は、全員が決定に関与するため、
行政能力のある権力を形成するので、独裁的にならざるをえない。
決定に賛成でない者もいるため、一般的意思にも、自由にも矛盾がある。
一般的原則を考え出すことと、個別のケースで実務的判断をするのは、
別次元のことなので、立法者と行政者が同一なのは、不完全な体制だ。
そうなる可能性のある独裁政治や貴族政治は、その意味で常に間違った体制である。ただ、フリードリッヒ二世のように、「余は、国に仕える者の最上位者でしかない。」という考え方なら、独裁政治や貴族政治でも国民を代表するシステムが可能かもしれない。
民主政治の場合、全員が主であるため、国民の代表を選出することが不可能となる。
その意味では、権力の担い手が少ない方が、
国民を代表するシステムにしやすいかも知れないし、
徐々に改革していくことも可能かもしれない。
この理由で、貴族政治の方が君主政治より国民を代表するシステムにしにくいし、
民主政治の場合全員が主であるため、国民を代表するシステムにするためには、
力による改革が必要となる。
ただ、民衆にとって気になるのは、国の形態より、統治の方法であり、
これが永遠の平和にとっても大切である。
統治の方法は、国民を代表するものでないと、独裁的で暴力的だ。
永遠の平和に進んでいくための第2確定条項
国際法は自由国家の連邦制を基本にして創設すること
国家としての民族は、法のしばりがなければ、
一緒にいるだけで傷つけあってしまう個々の人間たち同様に見なすことができ、
人間なら誰でも、自己の安全のため、個々の権利の保障が可能な、
市民統治に似たような体制を一緒にとろうと、隣の人から要求するかもしれないし、要求するだろう。
国家同士だと、これは国家連合となっても、
なかなか複数の国家が一つの国家にはならない。
だが、ここに矛盾があるのだろう。
一つの国家であるなら、
どの国家も立法者とこれに従う者(民)との上下関係を前提としているが、
ここでは国家同士の対等な権利について考えるわけだから、
複数の国家を一つに見立てても、それぞれの国家が異なり、
一つの国家に融合しないだろうから、この場合の民は従う者としての前提と矛盾する。
野蛮人が無法な自由にこだわり、法にしばられるより、絶え間なく喧嘩し、
理性的な自由より無茶な自由を優先するのを見れば、
これを深く軽蔑し、人間の原始的なところ、未成熟さ、動物的下劣さに出会えば、
一つの国家を形成する節度ある国々は、かかる見下げ果てた状態からは、
一刻も早く抜け出なくてはと、思うだろうに、
どの国も外的な法のしばりに身を任せようとはしない。
自らは安全なところに置き、多くの国々が自分たちの利益にならないことのために
犠牲を払ってくれることを、国の威厳とみる。
アメリカの野蛮人とヨーロッパの野蛮人の主な違いは、
アメリカの野蛮人の中には敵を丸ごとたいらげてしまうものがあったが、
ヨーロッパの野蛮人は、征服した者たちを食べるより、上手い活用法を知っている。戦争することで兵や武器を勝ち取り、さらなる戦争をすることを知っている。
人間の悪質なところは、法のしばりがあると隠れて見えないが、
国家同士の自由な関係になると剥き出しになるのに、
戦時下の政治用語から権利という言葉が取るに足らないこととして
完全に追放されていないのは、未だそれを公言する勇気ある国がないのは、
非常にびっくりする。
侵略戦争を正当化するための理論武装に利用される法典はあるが、
その逆に戦争を踏みとどまらせる法典はない。
正当化のために権利の概念を使いたがるということは、
人間には、もっと道徳的資質がたくさんあり、
内なる悪を克服したい思っているけれど、目下のところ眠っている、
ということで、どの人間からもこれを期待できる。
そうでなければ、
敵対している国々の口から権利という言葉は絶対に出てこないだろう。
ガリア王のように、「弱者が強者に従うのは、自然が強者に与えた特権である。」と、ふざけた権利解釈をするために権利という言葉を口にしていないかぎり。
国家同士が権利を追求するやり方は、法廷における場合のように裁判ではなく、
戦争でしかありえないが、勝利することで権利が確定するわけではなく、
平和条約でその時の戦争を終結しても、戦争状態に終止符をうつわけではない。
新たな戦争への口実はいくらでもつくれるし、
戦争状態なら自らを裁判官としているため、
口実が正当でないという解釈もありえない。
人間同士の場合、法のしばりがない時自然法を適用するということがあるが、
国家同士の場合、すでに国内法があるので、その上に法体制を築こうとしても、
納得されないため、国際法では戦争状態終結を強制できない。
ただ戦争を訴訟の方法とするのは、道徳的立法権力の最高位に君臨する理性により
却下され、反対に理性は直ぐに平和状態にすることを義務づける。
だが、国家間に条約がなければ、平和な状態になることも、それが確保されることも、可能ではない。
そのため、平和連合とでも称することが可能な、特殊な連合が必要となる。
これは平和条約とは違う。平和条約は一つの戦争を終結するものだが、
平和連合はあらゆる戦争の恒久的終結を追求するものだ。
この連合は、何らかの勢力を手に入れようとするものではなく、
自国および加入国の自由を保ち、保障するものである。
これにより、人間同士の場合のように、法的拘束力の発生を許すわけではない。
この連邦制の考え方が次第にあらゆる国家に広まれば、
永遠の平和へと進んでいくわけで、可能な考えである。
たとえば運良く、力のある、進歩的民族が、
永遠の平和へ進んでいくのに適している国民を代表する統治形態の国家を形成
するなら、他の国々がこの国を中心に連邦制国家連合となり、
国際法の考えにそって各国の自由を保障し、
次第に連合する国が増えていくかもしれない。
国が集まって一つの国家を形成し、上位の立法、行政権力を設置し、
国家間のトラブルを平和的に調停するから、連合加入国同士の戦争はない、
と主張するなら、理解できる。
だが、各国の権利を保障する上位立法権力がないのに、連合加入国同士の戦争はない、と主張しても、市民社会の契約にかわるものがなければ、
自ずと国際法と結びつけて考えられる自由連邦制となっていなければ、
権利が保障されることを信頼する根拠がなく、不安が残る。
国際法の概念は、戦争をする権利としては、本来まったく考えられない。
それだと、個々の自由を制限する外的、一般的効力を持つ法に従って、
何が正しいか決定するのではなく、
一方的処世訓に従って力で何が正しいか決定する権利となってしまう。
いざこざがあった場合、そのような心構えの人間にとって都合の良いことが起こり、その場合の永遠の平和とは、きっかけとなった者諸共、あらゆる残虐行為を葬る
広大な墓の中にある、ということになろう。
国家同士仲良く存在していくためには、戦争ばかりする無法状態から抜け出て、
野蛮な、無法な自由を断念し、個々の人間同様に、公の強制力のある法に適応し、
徐々に大きくなり、いつの日か地球上のあらゆる国家を包み込む世界連邦国を
形成するしかない。
ところが、戦争をする権利として国際法を考える連中は、こんなことは望まず、
思考の過程で正しいとすることも、結論で否定してしまい、
世界連邦国というポジティブな考えのかわりに、
すべてを失わないための、
戦争から身を守るための、
既存の膨張し続ける連合というネガティブな代用品で、
無法に敵意を剥き出そういう流れを阻止するのかも知れない。
だが、阻止できなくなる危険は常にある。
永遠の平和に進んでいくための第3確定条項
世界市民としての権利は一般的もてなしの条件に限定する
ここでも博愛がテーマではなく、権利についてである。もてなしの条件とは、
他人の土地によそ者がやってきても、敵意に満ちた扱いを受けない権利を意味する。拒むことも、よそ者の身が破滅しないなら、可能だ。
ただ、よそ者が平和に振舞っている限りは、敵意に満ちた態度をとってはならない。よそ者が要求可能なのは客人として扱われる権利ではない。
よそ者を一定期間同居人とするには、特別な慈善的契約が必要となろう。
そうではなく、訪問する権利だ。
交流する権利は誰にでもある。地球の表面はみんなで共有する権利があり、
移動可能な範囲は無限ではなく有限なのだから、
隣り合う我慢はしなくてはいけないし、本来地球の土地に対する権利は皆平等だ。
居住可能な土地と土地の間には、海や砂漠があったりして往来の妨げとなっているが、これを船や駱駝で乗り越えれば、
別な地域に住む人たちが御近づきになることが可能なのだから、
誰もが持っている地球の土地に対する権利を交流のため行使すれば良い。
だから、近づく船を強奪したり、難破船の船員を奴隷にしたり、
近寄る者を略奪するのは、自然法に反する。
だが自然法はもてなされる権利を、
よそ者がその土地の先住民と交流を求めること以上の権利とはしない。
世界中の人たちが交流を深めれば、いつしか平和共存が一般的法となり、
最終的、人類は世界市民的体制へと次第に近づくことができる。
ここで我が方の商業を主に営む文明国家が行った、
もてなしの心を踏みにじる行為をみてみよう。
彼らがよその国やよその民を訪問した時、征服同然の態度で行った不当行為は、
驚愕に値する。
アメリカ、アフリカ、インドネシア、喜望峰などは、発見した時彼らにとっては
誰にも属さない土地だったのだ。彼らにとって住民など意味のない存在だったから。
東インドでは支店設立の目的のためだけに、よそから戦闘的民族を連れてきて、
住民を弾圧し、彼らに扇動されて起こった戦争は
同様の異なる国々にあまりに多く広がった。
飢餓、暴動、背信行為と、人類を抑圧する悪を延々と数え上げることになろう。
中国や日本には、かかる客人と交流を試みた経験があり慎重だったので、
中国はコンタクトすることだけ許可し、開国はせず、
日本に至ってはコンタクト可能なのをオランダ人に限定し、しかも捕虜同然の待遇で、住民との交流を許さなかった。
暴力行為を至る所で行った連中にとって最も腹立たしいことは、
道徳的裁判官の視点からは当然のことながら、
暴力行為が一度も報われないことだ。
これらの商社すべてが崩壊寸前で、
砂糖生産のために現地人を巧妙かつ極めて残酷に奴隷として使ったものの、
実際の利益はない。
間接的に、あまり感心しない目的、軍艦乗組員結成に、
つまりはヨーロッパで再度戦争を行うためには役立つ。
信心深さを大いに利用し、自分たちは不正を水のように飲みながら、
正教においては我らこそが選ばれし者と自称する勢力の役には立つ。
地球は広くもあり狭くもあり、地球のどこかで権利侵害があれば、
皆が知ってしまうところまできてしまっているのだから、
世界市民としての権利の考えは、幻想的な誇張された権利のとらえかたではなく、
一般的人間の権利に関する国内法および国際法の文書化されていない部分を
補うものである。
また、この考え方でないと、永遠の平和へ進んでいくと期待してはいけない。
青空文庫より