支部の歩み

日本アメリカ文学会中部支部の歩み


I はじめに

日本アメリカ文学会中部支部の発足は1954年と言われているが,現在まで半世紀の歴史を持つことになる。この間の支部活動・運営の変遷を見てくると,おおよそ3つの時期に区分することが出来そうで,以下その区分に従って若干の考察をする。なお氏名の後の所属は,記事関連当時のものであることを予めお断りしておく。


II 発足当初より1978年まで

設立当初の事情を,設立メンバーの一員でもあった横田忠輔氏(岐阜大)は「中部支部は昭和29年(1954年)5月創立されました。(中略)初代支部長は中川竜一氏(南山大),会員は29名でした」と書いている。これは「アメリカ学会文学部会」が発展・独立するような形で出発したようである。全国各地でこのようなアメリカ文学研究の組織作りが進められていたようだが,中部支部の設立が54年というのは,比較的に早いほうではなかったろうか。なおこの時期には日本アメリカ文学会が現在のような全国組織を形作ってはおらず,その意味では「中部支部」という呼称は変であるが,ここではその胎動期を含めて便宜上その呼称を用いることにする。

さて胎動期の中部支部は,他の地方支部同様に「アメリカ文化センター」(ACC)と密接な関係にあり,事務局も同センター内に置いていた。この二人三脚的体制はかなり長期にわたり67年まで続くことになるが,その間の事情を吉田三雄氏(名古屋大)は「新支部長に選ばれた岡本秀男氏(南山大)の好意で,事務局は南山大学文学部に移され,月例会も同大学内で開かれることが通例となり,漸く中部支部の完全独立が達成された」と記述している。

以後71年からは太田英雄氏(愛知県立大)が,73年には吉田三雄氏が支部長を引き受けられ,それと連動して事務局も支部長所属校に移転する。この時期は会員数50名前後で,全体として支部活動も低迷気味であったが,そのてこ入れを兼ねて吉田氏は「月例会運営委員会」(後の「支部運営委員会」に発展)の設置を提案,改組を図られた。このことが直ちに支部活動の活性化につながったとは言い難いが,この委員会のメンバーが次期執行部の中核になったことを考えれば,重要な橋渡しであったと言えるだろう。


III 1979年から1990年まで

この時期の特色は,執行部の若返り,一種の世代交代がなされたことであろう。78年暮れの月例会終了後,出席していた支部運営委員は吉田氏から居残るように言われ,さらに次期支部長を出すように指示された。幹事会ではなく支部運営委員会に提案したところに,吉田氏独自の戦略があったのだろうが,それにうまく支部運営委員が乗せられた形で次期執行部が誕生した。合議の結果,加藤道夫氏(南山大)が支部長に,事務局を愛知県立大学に置くことにし,中村英一が担当することになった。この新執行部の出発には一つの方向性を模索してのことであった。一局集中型から分業型への方向転換である。

しかしこの折角の模索も長くは続かなかった。加藤氏から突如辞任の申し出があり,充分に討議時間の取れないまま,事務局はそのままで82年より中村が支部長を引き受ける羽目になったからであり,その体制は次の支部長・唐沢恪氏(名古屋大)まで引き継がれる。つまり一局集中型に再び戻ったわけであるが,幸いにも支部運営に積極的に参加していた仲間たちにサポートされて,その幣は免れたようである。

この時期の支部運営の変化としては,月例会中心の運営から月例会と支部大会の二本立てにしたことである。支部大会の導入については,当時60名程度の会員しか擁しておらず,果たして何名の参加者を集めることが出来るか,恐る恐るの出発であったが,予想以上の盛会で,その後の支部長・事務局の努力で支部運営の中核にまで成長したのは,ご同慶の至りである。その他では支部運営委員会の改組,役割分担の明確化とそれに伴い再度の若返りを図ったことであろう。


IV 1991年から現在(2004年)まで

この時期の特色は,80年代に模索し始めたものの中断した分業化が急速に進み,完全に機能し始めたことである。「どの大学に事務局を置くかが,事務的煩瑣を伴うことで,又一問題でした。(中略)事務局のある大学では教官の協力が一層必要となりますし」と横田氏は書いているが,これは一種の集中型・手作業型を想定したものであった。結果的にこの体制は,暗黙の了解のような形で80年代まで続くが,90年代になって徐々に変化が見られ,パソコンの普及と共に情報化社会に相応しい支部運営に変わってきたと言えるだろう。それは歴代支部長(小鹿原昭夫氏<椙山大>,市川紀男氏<岐阜大>,田野勲氏<名古屋大>,横田和憲氏<金城大>)のリーダーシップの下に,支部長・事務局・例会運営の分散,効率化が図られたことである。

支部運営の充実・規程等の整備が進むと共に,90年代になって会員も急速に増加し,長年の懸案であった機関誌の発行に漕ぎ着けたのは大きな成果であった。機関誌を持ちたいという声は70年代から折にふれて出ており,議論はしても時期尚早という形で先送りになっていた。と言うのも,当時通信費程度(年500円)の支部会費しか徴集しておらず,機関誌発行となると相当の会費値上げを伴うし,会員数も70年代で50~60名程度,80年代で70~80名程度では財政的に充分な体力とは言えず,結局見送りということになってきた。しかし,90年代も半ばになると会員の増加は著しく(2004年現在125名),それと同時にフロッピーによる原稿提出という形態も定着し,廉価で印刷発行が可能となった。この機に支部運営委員を中心にした若い会員たちの熱意に押される形で会費値上げも実現し,1997年度以来,『中部アメリカ文学』を毎年発行している。他支部から見れば大きく出遅れた感はあるが,今後の充実・発展を期待している。

1993年6月に創刊された NEWSLETTER を拡大発展させる形でも創刊された機関誌『中部アメリカ文学』の発刊に関しては,2003年度より,日本アメリカ文学会本部事務局から,支部機関誌発行補助費として貴重なる15万円を頂けることになり,内容の充実を含めさらに円滑な発行が期待できる。本部資料室に関しては,1970年代半ば頃から,つまり本部事務局・本部編集室・本部資料室の三本立てになった時期から中部支部がその任を負うことになった。1996年度までの20年ほどを愛知淑徳短期大学が,その後を金城学院大学が,本部資料室の業務を執り行っている。ご寄贈書を受ける事情や,ご寄贈書の保管場所の絡みもあるが,支部役員や支部事務局の2年一期を目処にしたローテーション化が軌道に乗りつつある状況に鑑み,本部資料室のローテーション化も望まれる。

2004年度からは名古屋地区外での例会が実施されることになっており,1997年度から開始された読書会(と,その後の,和気あいあいの忘年会),数年前から開設されている支部ホームページのさらなる開花,4月の支部大会に始まり,6月,9月,11月の例会と12月の読書会,そして2月(年を越し,名古屋地区外で開催)の例会と役員会などなど,日本アメリカ文学会中部支部の未来は光り輝いている。


(文責 中村英一)

参考資料

1 横田忠輔 「学会と私」 『日本アメリカ文学会 会報 ALSJ (XV) 』 1977年

2 吉田三雄 「支部の歩み」(中部) 『日本アメリカ文学会 会報 ALSJ (XIX) 』 1981年

(2005.2.6)