決死の覚悟で物事に臨むこと。項羽が自軍の兵士たちに退路を断ち、生死をかけて戦うことを強いるため、釜を壊し船を沈めた故事に由来します。この決死の戦術により、項羽は不利とみられた戦場での大勝利を手にし、英雄的武勇と不動の名声を手に入れました。
「破釜沈舟(はふちんしゅう)」の故事は、楚漢戦争の際に、項羽が戦いで退路を断つために自軍の釜を壊し、船を沈めたことに由来します。この行動により、項羽の兵士たちは全力で戦い、勝利を収めました。この故事は、絶対に退却しない決意を示し、全力で戦うための戦術として語り継がれています。
「破釜沈舟」は、何かを達成するために、退路を断って決死の覚悟で物事に臨むことを意味します。
大きなリスクを背負ってでも成功を目指す姿勢を表す際に用いられます。
舞台は中国の秦の末期、楚漢戦争(紀元前3世紀)の時代です。
『史記』の「項羽本紀」に由来します。
『史記』の原文には、次のように記されています。
項羽乃剜船、破釜甑、焚廬舍、示士卒必死、無一還心、乃引兵而進。
「項羽は船を自ら沈め、釜を壊し、兵舎を焼き払った。兵士たちに死を覚悟させ、決して退却しない決意を示し、そのまま進軍した。」
紀元前3世紀、秦の末期、中国は乱世の時代に突入していました。各地の諸侯が秦の支配に反旗を翻し、劉邦や項羽などの英雄たちが天下を目指して戦っていました。
項羽は楚の名将で、非常に勇敢であり、数々の戦いで活躍していました。彼は若くして戦いに参加し、その強大な力と戦略により、多くの戦で勝利を収めていました。
「破釜沈舟」の故事は、項羽が紀元前206年に秦の将軍・章邯(しょうかん)と戦った「鉅鹿(きょろく)の戦い」において起こった出来事です。
この戦いの際、項羽は鉅鹿(現在の河北省)で秦軍と対峙していました。秦軍は当時非常に強力で、多くの諸侯たちが秦の圧力に屈し、項羽の援軍に来ようとはしませんでした。この状況で、項羽は決死の覚悟を決め、次のような戦術を取ることにしました。
破釜沈舟の決断: 項羽は軍を川を越えて進軍させた後、全ての船を沈め、調理用の釜を破壊させました。これにより、兵士たちは退路を断たれ、生きて帰る道がなくなったため、全力で戦うしかなくなりました。
士気の高揚: 兵士たちは、退却できない状況に追い込まれたため、士気が高まりました。 項羽は、破釜沈舟で強制的に士気を高揚をさせ、兵士たちは、「生きて帰るにはここで勝つしかない」との決意のもと、彼らは命を懸けて戦いに挑みました。
秦軍の敗北: 結果として、この破釜沈舟の戦術により、項羽の軍は驚異的な勢いで秦軍に攻撃を仕掛け、大勝利を収めました。秦軍は混乱し、撤退を余儀なくされたのです。
この戦いの勝利により、項羽はさらに名を上げ、多くの諸侯たちも彼に味方するようになりました。このエピソードは、彼の名将としての名声を不動のものにしました。
項羽(こうう)(本名:項籍、紀元前232年頃生まれ)
中国秦末期から西漢初期にかけての伝説的な武将で、楚の名門である項氏の出身です。彼は幼少期から武芸と兵法に秀で、その才能は早くから注目されていました。叔父の項梁の指導のもと、若くして反秦の挙兵に参加し、楚軍を率いて数々の戦いに勝利を収めました。
特にこの「破釜沈舟」の故事の元となった、前207年に行われた「鉅鹿の戦い」で、秦の主力軍を打ち破り、一躍名を馳せることとなりました。この勝利により、項羽は「西楚の覇王」として諸侯の盟主となり、その勢力は一時期、天下に及びました。
秦を滅ぼした後、劉邦との間で楚漢戦争が勃発し、両者は覇権を巡って激しく争いました。項羽は幾度かの戦いで劉邦を追い詰めるものの、戦略的な柔軟性に欠け、次第に劉邦の巧妙な策に翻弄されることとなり劣勢になっていきます。ついに紀元前202年、垓下の戦いで包囲され、四面楚歌に追い詰められた項羽は、愛馬「騅」とともに脱出を図るが失敗し、最後は烏江のほとりで自刎しました。
彼の死により、劉邦が初代漢皇帝となりました。 項羽はその豪胆な性格と悲劇的な最期から、後世において英雄視され、『史記』や『楚辞』などの古典文学でその姿が描かれています。また、「破釜沈舟」のほか、「四面楚歌」といった故事成語も彼に由来しており、彼の人生は中国史に深い影響を与え続けています。