空襲の写真

1945年8月10日  熊本市島崎地区

7月3日熊本日日新聞に下記の見出しの記事が掲載された.注)リンク切れになっています(2023.1.5).

「熊本大空襲」米軍の空撮写真18枚見つかる 市街地包む炎と煙、鮮明に 当時知る証言も募集

18枚の写真の中に熊本市立商工学校(長姉に聞き判明)が炎上している写真があった.

(F)燃え上がる工場など(現・熊本市中央区島崎1丁目)。左奥は一新小学校(現・熊本市中央区新町3丁目)とみられる 

JR鹿児島本線を挟んで左側が一新小学校,右側が西山中学校.マウスポインターを地図上に持っていくと表示される<,>を押すと角度を変えて見ることができます.

この写真を見た時,その位置は,現在西山中学校の場所であり,北西方向に約1.5キロ離れた防空壕内で経験した機銃掃射のことを思い出した.本ブログでは私の戦争記憶として紹介した.その時の挿絵を再掲したので,機関銃の弾丸が竹にあたり,跳ね返った弾丸が次々と隣の竹にあたる連続音を聞かされる恐怖を想像してみてほしい.頭上を花岡山→石神山→本妙寺山に沿って通過していく敵機の数は6歳の私には数え切れない程おびただしいものであった.記録によると210機であったという.

戦後75年が経過した.戦争のことを覚えている人が次第に少なくなってきている.私は戦後初の小学校入学生であるが,戦争の恐ろしさを体験し記憶しているぎりぎりの世代である.終戦後長い惨めな耐乏生活が待っていた戦争の影響は戦時中より後に長く尾を引くことを知ってほしい.

追記

記録によると,熊本市は7月1ー2日,8月10日の2回空襲を受けている.前日には長崎に原子爆弾が投下されている.

追加資料

熊本日日新聞の記事(クリックすると引用元のウエブページが開きます)

 建物が密集する街中に立ち上る焼夷[しょうい]弾や機銃掃射の炎と煙-。1945年8月10日、熊本市の中心市街地が焼失した2回目の「熊本大空襲」を米爆撃機から撮影した写真18枚が米公文書館で発見された。関係者によると、この日の空襲の模様を撮った航空写真はこれまで見つかっておらず、米軍が2度の原爆投下後も九州の「軍都」を戦略的に攻撃していた様子を知る貴重な資料という。

 写真は、当時米軍の占領下にあった沖縄から飛び立った部隊が撮影したとみられる。鹿児島県加治木町(当時)で空襲に遭った経験をきっかけに、南九州の空襲について研究を続けてきた今吉孝夫さん(88)=さいたま市=が米国の調査協力者から入手した。今吉さんは2019年3月、元米空軍射撃手を父に持つ協力者のウィリアム・スウェインさんから、千枚を超す写真を受け取り、この中に含まれていた。

 「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」が19年夏、写真のタイトルに「KUMAMOTO」などと記された熊本関係とみられる写真25枚を今吉さんから譲り受け、当時の建物や河川、線路の位置などを基に精査。このうち18枚について、現在の熊本市中央区本山や新町、中央区と西区にまたがる島崎などを空襲しながら、断続的に撮影したものと確認した。

 一帯にあった工場や熊本駅周辺などに焼夷[しょうい]弾が投下され、市街地が炎と煙に包まれる様子が写っている。

 「熊本大空襲」と呼ばれる空襲は、7月1~2日と8月10日の2回あり、計617人が犠牲になった。写真と米軍の飛行記録などを照らし合わせると、1回目の夜間空襲で焼け残った軍事施設や工場を重点的に狙ったと推測される。

 くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワークの高谷和生代表(65)=玉名市=は「連合国軍が、計画していた九州への上陸作戦『オリンピック作戦』に備え、熊本の軍都としての機能を攻略する意図が見受けられる」と指摘している。

 空襲から5日後の8月15日に終戦し、結果的に上陸戦はなかった。今吉さんは「写真を見て、人間が人間の頭上に焼夷弾を落とす戦争のおぞましさを戦後世代の人に実感してもらいたい」と話している。(堀江利雅)

 【18枚の写真はこちらの専用ページで公開しています】

 ※具体的な場所が特定できていない写真も一部あり、同ネットワークと熊日は、当時を知る方からの情報を募っています。専用ページでは、写真を見て、情報を書き込むことができます。また、電話でのご連絡は、熊日社会部TEL096(361)3151、高谷さんTEL090(1513)5528にお願いします。後日、記者が取材させていただくことがあります。写真は全てスウェインさん、今吉さん所蔵、高谷さん提供です。

追加資料

熊本市における戦災の状況(クリックすると引用元のウエブページが開きます)

「7・1空襲」  

昭和20年(1945年)7月1日、アメリカ第 73爆撃航空団所属のB29爆撃機154機 が、16時5分から17時17分にかけてサイパ ン基地を飛び立った。牛深付近に攻撃 侵入点をおき、宇土半島の海岸線に沿っ て熊本市に侵入。熊本軍用地帯、熊本 駅および操車場、製紙工場、郡是製糸 工場、鐘淵紡績工場、三菱航空機株式 会社熊本工場、西部ガス株式会社を目 標に23時50分より、2日1時30分ころまで熊 本市に焼夷攻撃がかけられ、投下量は 1107.2トンに達した。(『第21爆撃飛行集 団戦闘要報』)  新市街、下通町、水道町、大江町、新屋 敷町、安巳橋通町、水前寺町、草葉町、黒 髪町など市街の大部分が焼失し、熊本 市の損害は市街地の約20%に及んだ。 被害状況は、被害戸数9077戸、罹災人 員36314人、死者388人、重軽傷者475 人、行方不明13人、家屋破壊・焼失9077 戸であった。(「熊本市空襲被害状況」)  被災した主な機関は、熊本幼稚園、白 川・黒髪・本荘・壺川・熊本高等小学校、 熊本中学校、済々黌、大江高等女学校、 熊本医大などの教育施設が全焼又は一 部焼失、熊本県庁(2日熊本市公会堂へ 移転)、県会議事堂、県立図書館、市電 気局、専売局工場、熊本郵便局など焼 失、熊本市電は全線不通(12日一部開 通)、電話線全面不通(11日620本開通)、 電気も配電を中止した。市の大半は廃墟 と化し、出水町の肥後製ろう株式会社は 5日間燃えるにまかされた。死傷者の収容 は警察、警防団総動員で数日を要してい る。(『熊本の昭和史』)

 「8・10空襲」 

8月10日午前、沖縄基地を発進し、東方 から侵入したB29と小型機の編隊約210 機が県下一円を襲撃した。熊本市に対し ても白川以東から以南にかけて焼夷攻撃 と機銃掃射を加え、7月1日の空襲で焼け 残っていた、本山町、春竹町、本荘町、大 江町などを焼くとともに、熊本市立高等女 学校などが焼失した。熊本市の被害戸 数は1551戸、内家屋全焼1491戸、半焼58 戸、半壊2戸、罹災人員6308人、死者45 人、負傷者43人にのぼった。  熊本のほか、宇土、水俣、隈庄などでも 被害が大きかった。鹿児島本線緑川鉄 橋橋脚が爆破され不通となり、宇土町で は中心部を大半焼失したほか、宇土保健 所・宇土駅・宇土国民学校・宇土高等女 学校なども焼失し、日本合成は操業不能 に陥った。隈庄町周辺では隈庄・豊田・杉 上・東部国民学校が焼失。水俣町は中 心部が焼失、日窒水俣工場は操業不能 に陥った。(『熊本の昭和史』)被災状況 (『熊本市戦災復興誌』) 2.空襲の状況 【平和教育】 ・罹災面積363万975平方メートル(市街地面積の30%) ・被災戸数1万1906戸  全焼家屋9873戸、同非住家543戸、半焼家屋189戸、同非住家18戸、全壊家屋1240戸、同非住家9戸、半壊家屋20戸、同非住家14戸