「原朗氏を支援する会」ウェブサイト

堀和生「小林英夫氏盗作行為の起源」2019年5月17日

はじめに

本件の訴訟の冒頭において、小林英夫氏(以下、「小林」と呼ぶ)は、自分は「学会上の常識や倫理上批判を受けうる、いかなる行為も行っていない」(原告「第2準備書面」2014年1月21日 4頁)、と述べている。はたしてそうであろうか。本稿の目的は、小林の主張とは異なり、彼が研究活動の当初から、甚だしく研究倫理を欠いた行為を行っていたことを、わかりやすく示すことである。

取りあげる論文は、小林英夫「元山ゼネスト-1929年朝鮮人民のたたかい」(労働運動史研究会『労働運動史研究』44号 1966年7月。小林英夫・ 福井紳一著『論戦「満洲国」・満鉄調査部事件 ―― 学問的論争の深まりを期して』彩流社 2011年 再録)である。これは小林が、裁判所に提出した自己の「発表論文目録」(甲第5号証)でその第一番目に掲げたもので、上記の「第二準備書面」(2頁)では次のように述べている。「原告は、その著作の主要部分を既に学会誌等への12本の論文を通じて発表し(甲5)、本件学会発表の前に、原告著書の主要な章節は既に完成していた。原告著書の内容・編別構成は、被告の学会発表前に、上記12本の論文の中でほとんど発表しているものであり、当然の帰結として、被告の学会発表に依拠したものではない」。このように、小林の本論文(以後、「小林論文」と呼ぶ)は、本件訴訟の資料の一部を構成するものであり、当然にこの論文中における剽窃問題は、自らこれを組み込んだと主張する本件小林著書に対する学術的な信頼性に直結するものである。

小林論文との関係を検討するのは、北朝鮮の学術雑誌に発表された論文、尹亨彬「1929年元山労働者の総罷業とその教訓」(『歴史科学』1964年2号。以後、「尹亨彬論文」と呼ぶ)である。小林論文の2年半前に発表されており、同じく1929年朝鮮の元山府で勃発した著名な総罷業(ゼネラル・ストライキ)を対象としている。この論文を取りあげるのは、表題に掲げた問題を第三者が簡単明瞭に理解することができる素材であるからである。

本論に入る前に、2つの論文の対象となった事件の概略を紹介したうえで、当時までの研究史について説明しておこう。1928年英蘭系石油会社ロイヤル・ダッチシェルの子会社ライジングサンの朝鮮元山の油槽所でおこった労働争議が、警察署長や商工会議所の調停では解決できず、やがて運送労働者・埠頭労働者までを巻き込み、最終的に1929年1月から商店の同情ストまでよびおこす全市的な総罷業にまで拡大した。この3ヶ月に及ぶ総罷業は、朝鮮の労働・民族運動としても、近代日本帝国における社会運動としても規模が大きく、当時から注目を集めた大事件であった。ただし、その事件は日本の植民地統治に関わるものであったために、注目度の高さに比して公開された報道・情報資料は多くはなかった。最もまとまったものは、同時代資料である×(ふ)×(せ)×(字)「元山に於ける総同盟罷業」(『新興科学の旗のもとに』1929年7月号)であり、その他は断片的な報道、伝聞資料のみであった。戦後の研究においてもそれら戦前の報道、伝聞資料を再引用する状態に留まっていたなかで、事実発掘の密度を格段に引き上げた時代を画する研究として登場したのが、ここで紹介する尹亨彬論文である。そして、日本における新しい水準の研究が、それから若干遅れて公刊された小林論文であった。

尹亨彬論文の全文を掲げたのが資料Aで、朝鮮語文で17頁である。尹亨彬論文を筆者の責任で日本語翻訳したものが資料Bで、A4で17枚である。小林論文の全文が資料Cで、4段組10頁のものである(以下,単に「A」「B」「C」という。)。この3つの文献を比較することによって論を進める。小林論文の文章を基準として重複する箇所に赤線引いて明示した。接続詞の違いやわずかな表現の変更相違、AからCに至る過程で少しの省略や加筆があっても、それらがおおむね文章の10%以内のものであれば、重複と判断した。表現の変更とは、日帝➨日本あるいは日本資本主義のような言い換えや、文章の圧縮のことである。当該箇所の重複の実相については、読者が直接に照合して読み合わせていただきたい。

筆者がA・BとCを比較検討した結論は、次の3点に要約される。

(1)引用注

第1は、両者の重複部分は非常に多く、明らかに小林論文は尹亨彬論文を大々的に参照している。にもかかわらず小林論文にはそれを示す引用注が全くない。

学界のルールとして学術論文を執筆する際は、先行研究の到達点を明らかにし、自己の見解との相違を明らかにするために、先行研究の引用については必ず引用注を付けることが要求される。近年は研究不正を防ぐために、各大学や学会はこのことについて厳格な規定を設けている。例えば、早稲田大学「剽窃定義確認書」では、「他人の文章を書き移す場合(つまり引用する場合)には、かならずその文章を「」(一重カギカッコ)でくくる。」(乙第14号証 裏面)とある。また、神戸大学国際協力研究科「剽窃・盗用ガイドライン」には、「(2)引用の場合:鉤括弧やブロック・クォーテーションで引用部分を明示したうえで、ページ番号(場合によっては行番号)を付す。」(乙第15号証 3頁)とある。つまり、先行研究の成果と自己の研究成果を峻別することを、厳格に求めている。

これに対して、小林論文はどうであろうか。小林論文は冒頭において、元山ゼネストに関する戦前の文献を紹介した後、次のように述べている。「しかし最近になって、朝鮮民主主義人民共和国において、当時期の研究が進み、尹亨彬「1929年元山労働者達のゼネストとその教訓」(歴史科学 1964年2月号)をはじめ多くの論文が出されているので、それらをふまえながら以下述べることとする。」(37頁)。確かに、このように尹亨彬論文の名前は紹介されている。しかし、奇異なことに、尹亨彬論文はどのような内容であり、小林論文がその論文のどの部分・見解を利用しているのか、全く何も述べられていない。そして、尹亨彬論文から膨大な文章を使いながら、一つの注もつけられていない。この点は、他の文献の引用とくらべてみると極めて対照的である。

小林論文には、日本語文献として、「無産者新聞」9回、「新興科学の旗の下に」6回、「京城日報」2回、『レーニン全集』2回、その他1回引用のもの6件が引用されている。朝鮮語文献は「1920年代マルクス・レーニン主義の伝播と労働運動の発展」が2回引用されている。このように、都合27箇の引用注が付けられている。このうち、事態の推移を要約した1箇所と、事実の有無を確認している1箇所を除き、その他の引用箇所はすべて初めと終わりを括弧(「」)で括り、引用の内容と範囲を明確にしている。この点から見て、小林は学界の引用のルールを知らないわけではない。

しかし、その例外が尹亨彬論文である。A・B・Cを照合すれば明らかなように、小林論文は他の引用文献とは比較にならないほど膨大な分量の文章を、尹亨彬論文の中から使っている。しかし、小林論文のどこにも引用注はなく、先に示した冒頭の一節を除いては、尹亨彬論文に依拠したとは書いていない。27箇の引用文献が挿入されている小林論文を読んだ読者は、その他の多くの部分が尹亨彬論文の研究成果であることを知るよしもない。多くの引用文献を挿んで、引用なしに使われている尹亨彬論文の文章の無断使用は、客観的に剽窃だという以外の評価はありえない。

引用注がある箇所にも問題がある。小林論文ではレーニンの著作を2回使っており(41頁第4段と42頁第1段)、それを大月書店の『レーニン全集』から引用している。ところが、この引用は尹亨彬論文の引用の仕方と全く同じである(A40頁左列・B9頁とA40頁右列・B9頁)。尹亨彬が朝鮮語版の『レーニン選集』から引用していたのを、前後の文章もふくめて、全て自分の論として叙述している。他人の著作や見解のどこを自分の論文のなかにどのように取り入れるのかも学術的な営みである。小林は、「尹亨彬論文がすでに指摘しているように、レーニンはこの問題にこのように発言していた」、と説明する必要がある。これは、極めて歪んだ引用だといわざるを得ない。

(2)二重の背信行為

さらに、尹亨彬論文と小林論文を照合すると、重大な問題が浮かび上がる。それは、小林論文が尹亨彬論文の成果を著しく毀損していることである。

尹亨彬論文の新しさは、当時の北朝鮮において入手できる文献、行政・警察・司法の一次資料、争議関係者の証言等を可能な限り多数発掘していることで、外国にいる研究者にはアクセスすることが困難な貴重な資料と情報を提供している。小林論文が剽窃している箇所を例にとれば、次のような文献である。

A 33頁左列(B 2頁)元山歴史博物館所蔵『元山総罷業参加者らとの談話資料』(以下、『元山総罷業参加者らとの談話資料』と称する)

A 34頁左列(B 3頁)元山警察署文献、元山支庁文献及びよび『元山総罷業概観』参照

A 34頁左列(B 3頁)『元山総罷業参加者との談話資料』および『元山警察署文献』参照

A 34頁左列(B 3頁)咸興地方法院文献および『元山総罷業を回想しながら』参照

A 34頁右列(B 3頁)『元山警察署文献』参照

A 34頁右列(B 4頁)咸興地方法院文献参照

A 35頁左列(B 4頁)『元山総罷業参加者との談話資料』参照

A 35頁左列(B 4頁)『元山総罷業概観』参照

A 35頁左列(B 4頁)『東亜日報』1928.9.18参照

A 44頁左列(B 13頁)『東亜日報』1929.3.24参照

A 44頁右列(B 13頁)『東亜日報』1929.3.24参照

A 44頁右列(B 13頁)『元山総罷業概観』参照

A 44頁右列(B 13頁)『東亜日報』1929.3.24, 3.26, 4.8参照

A 45頁左列(B 14頁)『東亜日報』1929.4.8参照

A 45頁左列(B 14頁)『東亜日報』1929.4.7, 4.8および『元山総罷業を回想しながら』参照

A 45頁左列(B 14頁)『東亜日報』1929.4.12参照

ところが、本来の尹亨彬論文にあった以上の出典注は、小林論文の剽窃箇所では全て削除されてしまった。小林論文は、これらに文献と証言によって裏付けられて明らかにされていた歴史事実を、その根拠を全て消して、尹亨彬の文章を全て小林自身の文章として叙述している。

これは二重の意味で、学問的な背信行為である。第1は、文献や証言から歴史的事実を発掘し論文にまとめた尹亨彬の学問的な営みの成果を、否定し奪った行為である。第2に、その根拠となる文献と証言の来歴を消し去ったことによって、小林論文の読者が尹亨彬論文の成果を受け取ることをも妨げている。日本の読者は、そこに書かれている歴史的事実がどのようにして明らかになったのか、検証する方法を絶たれているのである。この小林論文の二重の背信行為によって、当該部分の歴史研究は正常な進展が妨げられたといえる。

(3)剽窃の重み

この小林論文の剽窃箇所は、派生的な部分ではなく本論そのもの叙述にかかわる部分であり、その部分がなければこの小林論文は成り立たない。小林論文のなかで尹亨彬論文と重複する比率は、文字換算すると48%に達している。一つの論文中において、特定の論文と全く同じ文章が半分近くを占めるということは、論文自体を研究対象とする学説史研究でも例を見ない極端な「引用」である。その論文の構成と48%という分量からいって、これはまったく剽窃によってできた論文である。尹亨彬論文と小林論文の総括的な結論部分を見ていただきたい(A 46-47頁、 B 15–16頁、C 45頁と25頁)。この小林論文の結論部分は、第1から第7まで順序、内容、文章、表現まで尹亨彬論文とまったく同じである。「経験と教訓」というタイトルさえ、尹亨彬論文からとっている(A46頁右列37行、B45頁2段17行)。小林論文を公平に見れば、オリジナリティは尹亨彬論文の扱いが比較的少ない領域、つまり日本内における労働運動・無産運動の元山ゼネストに対する連帯・支援活動に関する報道の紹介である。そこにわずかな付加価値があるとはいえ、48%におよぶ剽窃を含み、結論をまったく同じくする小林論文は、学術論文として認めることのできないものである。

この論文が学術誌におけるチェック制度である査読を通過した理由は、ひとえに当時の当該誌編集委員会と査読担当者のなかに、朝鮮史についての専門的研究者や朝鮮語を解する者がいなかったからであろうと推測するほかない。もしも編集委員会が、論文冒頭に名前が挙がっている尹亨彬論文と著者の見解の違いを明示すること、というコメントを付けて改稿を要求したならば、この論文が日の目を見ることはなかったはずである。

出典を明記することなく先行研究の内容を剽窃する行為は、学界では研究倫理に反するものとして厳しく批判制裁される。小林によるこの剽窃行為は、学界ではどのように扱われるであろうか。学術世界で40年を過ごした筆者の経験に照らせば、次のように扱われると思われる。

雑誌掲載論文であれば、掲載取り消し措置が執られることになる。ただし、この『労働運動史研究』は1980年に休刊になり、すでに40年近くたっているので、そのような措置は現実には行われない。進学資格論文であれば審査却下となり、受験資格を失う。学位論文(内容からみて博士論文ということはあり得ないので、卒業論文か修士論文の一部)であれば、学位は取り消され、場合によっては身分剥奪というレベルの制裁が科される。小林論文の剽窃行為は、現在の学界ではそのように扱われる。そのことは、小林自身が久しく勤務していた早稲田大学の不正防止規定を見ても疑問の余地がない。そして、小林が2011年にこの論文を自己の著書の中に再録し公刊したことは、彼が学生時代の剽窃行為を、今なおまったく後悔も反省もしていないことを示している。

結論として、本稿が公表されることによって、53年前の小林論文による剽窃行為が学界に知られるようになる。小林が何らかの弁明によって本稿の論拠を覆さない限り、学界において当該論文は剽窃論文として扱われ、学術論文とは見なされなくなる。

おわりに

冒頭に紹介したように、この小林論文は小林の最初の公刊論文であり、彼自身は学部のゼミ修了論文を学会誌に発表したと誇っている(原告「陳述書」2017年5月2日 甲第50号証 4頁、小林英夫・福井紳一前掲著「資料解題」368-369頁)。その内容は本文に明らかにした通りである。学生のレポートではよく見られる大胆不届きな剽窃論文が、教育的懲罰をうけるどころか査読をすり抜けて学会誌に掲載されてしまったことは、その後の小林の軌跡に大きな影響を与えたと思われる。剽窃により学術キャリアを始めた小林は、若手時代の研究の集大成として自己の業績をまとめる際に、本訴訟の案件となった『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』において一書全般にわたって同じ行為を行ってしまった。注意深く見ると、小林著書の剽窃では、本稿で扱ったのと同じやり方が随所に見られる。筆者の「意見書Ⅲ」10-15頁で具体的に明らかにしたように、冒頭に先行研究として原朗の論文名を一度だけ出した後、原朗が明らかにしている内容を原朗が発掘紹介した文献を利用して、あたかも小林本人が解明したかのように自分の文章で論を展開している。そしてこのやり方を、小林は著書のなかで何度も何度も繰り返している。小林にとって、研究キャリアの最初の時点で研究倫理を踏み外した代償は実に大きかった、といわざるを得ない。

参考資料:剽窃箇所対照表

追記:2020年2月25日付けで早稲田大学は「アジア太平洋研究科における研究不正事案(盗用)に関する調査報告書」を採択し、小林氏からの聞き取りを含む調査を行った上で、「小林氏が盗作を行った」事実を明確に認定しております。