ステップファミリー

 2018 年 3 月、東京都目黒区で当時 5 歳の女児、船戸結愛ちゃんが継父の虐待により死亡する事件がメディアで取り上げられるようになって以来、1 年以上の長期にわたり、世間の注目をあつめました。国会に児童虐待防止法の改正案が提出されるなど、国のシステムを変えるきっかけを作った衝撃的な事件です。


 一般の評価を紹介する記事によれば、雄大被告は「鬼畜」「悪魔」などと評されているようでした。世間の目は冷たいというより、被告に対する感情は、憎しみに満ちているように感じます。


 自分は雄大被告の養育スキルが低い事もおおよそ見当がつきますし、総合的判断力に関わる部分で、致命的ミスを犯していることも判っています。

 一人の女の子の尊い命を奪ったのだから、その罪は償ってもらうべきだと思います。

 でも、自分はこの継父が「鬼畜」でも「悪魔」でもないと感じています。

 自分としては亡くなった結愛ちゃんに対する追悼の気持ちは当然ありますし、世間一般に、虐待加害者に対する、一定の距離間のある人間を憎みがちな心理も理解出来ます。


 しかし、それらの感情を訴える以上に重要なのは、このような不幸な事件の再発を防ぐために自分たちに出来る事は何かを考えていく事でしょう。

 個人を憎むのではなく、被告と同様に養育スキルの低い者が、また同じ過ちを犯す可能性を重視し、虐待を予防出来る社会を作る事に協力者を集い、少しでも貢献していく事が、今の自分に出来る最善の事だと思い、この文章を書こうと思い立ちました。

※以降の文章については、個人的な推測を多く含むものであることをお断りすると共に、不快に感じる方もいるかもしれませんが、中途養育の困難を考えて頂く事を最大の目的で書いていることをあらかじめお伝えしておきます。

雄大被告はどのような人間だったのか

 

 被告は幼少時よりバスケが得意で、明るく、協調的で友人の評価も高く、卒業文集では「日本初の NBA 選手になる」など、世界に羽ばたく野望をもっており、そういう意味で自尊感情も高かったと思われます。 詳しい経緯は判りませんが、都内の大学へ入学「世話焼き、面倒見のいい人間」と評価されています。卒業し通信関係の仕事に就き、お台場あたりに住んでいたようです。三軒茶屋の行きつけの店の、被告が慕っていた先輩の話も出ていますが、20代の生活としては悪くないというか、背伸びをしている、かなり見栄を張っているようにも思えます。


 仕事を辞め、地元の北海道へ戻り、再就職したけどすぐに辞めて、すすきので高級クラブのボーイのような仕事をしていたようです。そこから香川のキャバクラに移るのですが、その理由として「困っている友人を助けたい」と友人に説明していたようです。

 雄大被告は被告人質問で「周りから嫌われないように、好かれるように、頑張らなきゃいけないと思っていました」と述べています。


 これだけ羅列して感じる事は、彼の野望が世界に羽ばたく事だったとしたら、決して上手くいっているとは思えないけど、自分なりに理由をつけて現状に馴染まざるをえないというか、「転落していく現実」を、人の良さで弁明しているようにも感じます。

なぜ、子連れの女性と結婚したのか


 被告は何故、子連れの女性と結婚し、その連れ子の養育に関わる決心をしたのでしょうか。結愛ちゃんの実母、優里被告は雄大被告がボーイとして働くキャバクラのホステスだったようです。職場環境で嫌悪感を持つ方や、なりゆき的な自堕落な思いを想像する人もいるかもしれません。


 しかし、私は被告が子連れの女性と結婚する決心をした時点で、少なくとも向社会的行動(思いやり行動や他者に対する援助的な行動)をとっていたと思います。


 このあたりは想像の範疇を超えませんが、被告は単なる恋愛感情だけでなく、3歳の女の子を育てるために夜のホステスをしている若いシングルマザーが不憫に思えた、「力になりたかった」という思いを持っていたかもしれません。

 そして、結果的にその向社会的行動は失敗したという事だと思います。

 被告の考えが甘かったというのは当然あるでしょう。しかし、それを単にダメだという事ではなく、どうしたら上手くいっていたのかを考えるべきではないかと思います。


 自分は個人的に、子連れ再婚は「通常の結婚」とは違う事を経験的に、多くのステップファミリーとの対話の中から知っています。

 被告はおそらく、そのあたりの知識が欠落していたと想像します。

 また、「養育」に関しても、実子と(報道の中でこの言葉は使われていませんが)継子の子育ては同じではありません。

中途養育者は「通常の養育者」と同じようにはいかないのです。

通常の養育とは

 

 ここでいう通常の養育とは、血のつながった両親による子育ての事です。

 つまり、雄大被告は通常の養育者ではない、ということになります。

 この事件において、通常の養育者(実父)は(その存在は自分の知っている範囲では報道されていないと思いますが)離婚していて、実際の養育に携わっていません。


 通常であることが良い事とか、悪い事といっている訳ではありません。少なくとも今回の事件において、被告は通常の養育者が本来やるべきであった養育を肩代りしています。しかし再婚家庭において、その行為が善行であると評されることはなく、通常ではない子育てに携わるに当たって、その養育に対するハンディを誰も与えてくれません。(ここでいうハンディとは、ゴルフで実力に格差があるプレイヤーが各々の能力毎に適正な数値を与え、競技を公正に進めるためにつけられる値のことです)


 子育てにおけるハンディキャップは、「支援」という指標で考えられると思われます。社会的養護下にない、ステップファミリーや親族等の「非公式な中途養育者」は実質的な支援が存在しません。しかし、自ら進んで養育者に立候補したからには、「通常の養育が出来る人」として、社会的に期待されます。


 子どもの養育は待ったなしです。中途からであれ、養育者として立候補するからには、すぐに養育に関わる必要があります。実習の機会は通常ありませんから、実践で経験を積んでいくしかありません。

 しかし、現実はどうでしょうか。頑張る気持ちがあれば、なんとかなることでしょうか。通常の養育においては、生まれた時点(あるいは妊娠する以前より)子育ての準備は始まっています。

 これは今回の事件に関わらず、里親も含む、施設職員等の職業的養育者以外の中途養育者全員が同等のハンディを自己申告することさえ思いつかず、実際に養育に携わった後に困難に陥る問題なのです。

(里親には研修がありますが、おそらく、養育全般にわたる勉強としては個人で頑張っているのが現状と思います)

 多くの中途養育者は養育スキルの劣った部分を自分の責任として、自己研鑽に励みます。

養育スキルとは何か

 

 養育スキルとは何でしょうか。子育てに関わる教則、マニュアル、参考書など、現代では巷に溢れています。それらの多くは「保育」系、若しくは「教育」系であろうかと思います。

 「養育」について、一般的に参考書はないし、学べる機関は存在しないように思います。何故なら、通常「養育」とは、自分の子どもに対して行う事であり、職業として確立していないのです。(施設職員等の社会的養護はありますが、教員や保育士と比べて実数が全く違います。) つまり、「養育」は子どもがいる親なら皆行うことでありながら、(間口の狭い専門分野であるがために)一般の親は学問として意識することもなく、スキルとして日々積み上げていく事なのです。


 ここでいう「養育スキル」とは、子ども一人一人同じものはなく、一緒に生活する上で身につけていくものです。「信頼関係」と言い直してもいいかもしれません。

 中途養育者は、中途から養育に携わる特性から、子どもが生まれてから当該年齢に達するまでの「養育スキル」が抜け落ちます。

 抜け落ちるのは当たり前の事なのですが、多くの中途養育者は実際の養育に直面した際、通常の養育者と自分達の違いに気づきません。「養育スキル」がないにも関わらず、通常の養育者と同じように養育に関わることになるのです。


 それがどのような結果になるのか、想像してみてください。

 もちろん、努力でカバー出来る部分もあるでしょう。多くの中途養育者は人知れず努力せざるをえない環境にあるのも含め、頑張って養育に携わっています。しかし、その人知れぬ頑張りの裏には、多くの脱落家庭が存在しており、その脱落は家庭崩壊の中にある子どものトラウマ作りに貢献することであることは、意識してもらいたい部分です。

中途養育の失敗をなくすために


 里親等の場合、上手くいかなければ、措置解除であり、ステップファミリーの場合であれば、再離婚です。

 これは養育者にとっても子どもにとっても、トラウマとして生涯に影響を及ぼしかねない、大変な痛みを伴いますが、(少なくとも虐待を避けるという意味においては)賢明な選択なのかもしれません。


 今回の事件の義父(と、多くの記事で書かれていますが、自分は継父と認識しています)は、自分にハンディキャップがあることさえ認識していなかったと思います。バスケが学校で一番上手く、職場でも仲間うちでも評判の良かった、自尊心の高かった当該被告が理解していなかったことが、自身が「養育に関わるスキルが全くない」という現実だったのではないでしょうか。


 この文章を書いている自分も親族の子を中途より養育に関わる際に、同じような過ちに陥った経験があります。なんとかなる、という根拠のない思い込みだけでは、養育はなんとかなりません。自分は途中で養育スキルが「通常の養育者と比較して」ない事に気づいたため、医療、教育、また児童相談所へも相談し、自身も児童心理を学ぶために大学へ入りなおしました。それでもなお(恥ずかしながら)途中でギブアップし親族に養育を交替してもらっています。なんとかならない時の対処として自身がリタイアする事は、自分自身が自己嫌悪に陥ろうとも、子どもに多少なりとも不幸を与える結果が判っている事であっても、今回の事件のように行き詰り、子どもの命を落とす結果になるよりはマシなのだと、自分は思っています。

 しかし、そもそも「中途養育者への支援」が存在しているのなら、これら不幸な結果を劇的に軽減することが出来るのかもしれません。通常の養育者と同様の養育スキルを持たない者が中途養育に関わらざるをえない場合、社会は「支援」をするべきではないかと、自分は考えます。

子どもにとっての親とは


 今までの視点は、中途養育者側が実親規範に則り、親になろうとしている前提に立っていますが、子どもからみた「親」とは一体どのような存在でしょうか。

 今回の事件で、義父の雄大被告は「パパと呼ばれて嬉しかった」経験を話しているようです。

 一方で、パパではない現実に直面した際の自身の感情については話していないように思われます。


 亡くなった結愛ちゃんは雄大被告が戸籍上の親になった時点で 3 歳でした。3 歳は発達課題でいう所の「自立」の時期であり、愛着対象としての両親、という理解は出来ている時期です。もちろん離婚等を経験しているなかでアタッチメントに課題があった、発達の凸凹はあった、と思う方が自然でしょう。


 この事件に関しては、結愛ちゃんが雄大被告を本当に「パパ」と思っていたのかなど、実際のところを知る機会は永遠に無くなりましたが、実親ではない養育者の元にいる子どもの多くは(好むと好まざるに関わらず)実親の存在を知っていますし、実親が養育していない現実を受け入れるしかありません。

 仮に結愛ちゃんが天真爛漫で奔放な性格であったとして、雄大被告がそれを受け入れる度量がない人間だった事が事件のきっかけだったとしても、自分はそれだけではない子どもと大人の間の認知のズレが生じていたと思っています。

 つまり、結愛ちゃんにとっての(父)親は、離婚により別居している実父であるはず、と自分は思うのです。

(全ての中途養育者ではありませんが)中途養育者の多くは、子どもに実親がいる事に納得せざるを得ません。それは望むと望まざるに関わらず、事実だからです。

 その事実を認める事に一部の中途養育者は非常に苦悩しますが、多くの子どもは、それ以前に実親が養育していない事実に苦悩します。現在の中途養育者が親になろうとする事にも、苦悩します。


 埼玉で起きた「本当の親じゃないくせに」と言われてかっとなり、継子を殺害してしまった事例も、子どもと養親側の認識のズレがなければ起こらなかった事件かもしれません。子どもが「無垢」であるという認識は、ここでは事実ではないし、実際の過去を消すような努力は、たとえ実親がどのような人間であっても「出自」を知る子どもの権利を無視したものであると、自分の立ち位置からは思います。


 里親や養子縁組においては「出自」の問題は以前よりずっとあります。ステップファミリーにおいても、実親側が以前の結婚をなかったものにして、再婚相手に実親役割を期待してしまう事はよくあることです。

 この事件における実親側(優里被告)も、おそらく可能であれば雄大被告が実父である、若しくは離婚した実父以上に親として優れているはずだと、実の父親としての役割を期待したかもしれません。しかし「子どもは無垢」という考え方は、大人側の都合の良い解釈にすぎません。


 今回の事件でも被告が実父を目指さなければ「中途養育者としての養育のありかた」を知っていれば、虐待は起こらなかったかもしれません。

雄大被告の親としての能力

 

 個人の能力を計る事がさほど重要だとは思いませんが、雄大被告は(報道の限りでは)初婚のように思えます。人生における子どもとの関わりは不明です。おそらく、ほぼ無かったのではないかと推測します。

 親としての能力は0歳児の親と5歳児の親では違う事は単純に判ると思います。では雄大被告は何歳児の親としての能力を持っていたのか。あるいは、単純に、積み上げで5歳児を養育する能力を身につける事が彼の環境では不可能なのは判ると思います。


 実際に多くの父親は(特に日本社会においては)さほど子育てに関わりません。父親役割と、母親役割は大きく異なります。被告は(報道の範囲では)食事制限をしたり、読み書きをさせていたり、結愛ちゃんの生活を支配的に監視していたようです。これは一般的に、こどもの躾や勉強など、父親はあまり関わらないのが普通、と思う人の中には違和感を感じる部分ではないかと思います。


 ここで私自身の経験をお話します。自分も引き取った子ども達にラジオ体操をさせたり、百マス計算をさせたりした時期がありました。何故、そんなことを始めたのか。

 自分の実子と比較して、育ちに問題があるように感じたためです。「自分がなんとかしなくては」と、養育について何も知らないのに頑張りはじめたのです。もちろん実子も一緒にやりました。そして、途中で止めました。ある日、ラジオ体操をやらせている間に心臓が痛くなり、自ら救急車を呼びました。検査結果はなにも異常はなく、おそらく過剰ストレスから来る一時的なものだったようです。自分は能力不足を痛感し、子どもに関わる勉強を始めました。その結論としては、中途養育者は「過度に養育に関わるべきではない」という、案外単純な考えに行きつきました。

 

 自分はそこで止めることが出来たのはラッキーだったのかもしれません。もちろん、雄大被告のように子どもを虐待していいとは思いませんが、自分の心情と被告には似通った共通部分があったのではないかと、思ってしまう部分があります。

どうすれば良かったのだろうか


 自分も当初、児童相談所、教育相談、医療機関、里親支援団体と様々な機関に相談しました。

実際には核心をついた相談にはならず、児童心理全般を学ぶために46歳にして大学に入りなおしました。それが被告に出来ていれば、少しは結果が違っていたかもしれません。

 しかし、それが思いつかないのなら、親としての能力の低い中途養育者が根拠のない自信から独走することを止めるためにはどうすれば良いのでしょう。


 自分は、社会が中途養育者を支援する仕組み作りにもっと真剣に関わるべきだと思います。子連れ再婚をする時点で、不安はゼロではなかったはずです。今回のケースでは、子連れ再婚に関わる支援を社会がしっかり実施していれば、被告も「普通の親と同じようにしなくていい」と学ぶ機会があったはずです。


 今回の事件でなくても、「普通」の社会規範のために同様に困難を抱えている家庭は少なくないと思います。この事件を機に、我々は「中途養育者支援」を本気で考えるべき所に来たのだと思うのです。中途養育は国内において課題が精査されていないので、システムを新しく作る時期だと考えます。


 一つは社会が中途養育者の困難を軽減する「教育プログラム」を制定する事。

 もう一つは、中途養育当事者による「メンター活動※」を社会が推進する事です。

※以前「里親メンター」という仕組みが里親子支援のアン基金プロジェクトにおいて、日本財団の援助で行われていたことがありましたが、発達障がいの親支援として全国的に展開している「ペアレントメンター」の仕組みに「中途養育者メンター」を内包していく事が可能ではないかと、個人的に思っています。

普通を目指すのをやめて、支援に関わるべき


 目黒の虐待事件も、さいたまの継子殺害事件も、その立ち位置として「血が繋がらない」事が取りざたされては、人知れず困難を抱えながら頑張っている中途養育者にとっては迷惑極まりないものです。殆どの中途養育者は(人知れず)頑張っています。ただ、その孤独な頑張りは、頑張る事が難しい人を虐げる事に加担する可能性もあり、これらの事件の加害者は「中途養育者支援」という枠組み作りを当事者がしてこなかったために起こった「被害者」という考え方も出来るでしょう。


 頑張って困難から抜け出した人がいたとして、その人が自分だけ「普通の枠組み」に入ってしまったとします。自力で困難から抜け出すことが難しい人たちにとっては、必死で困難から抜け出した人が頑張った部分が「普通の人には出来る事」として社会的ハードルが上がってしまい、さらに頑張ることが期待され、困窮度合はさらに高まる可能性があるのです。

 「普通」は幻想です。社会の多様性を目指すなら、自分自身が「普通を目指す」のを、先ず止めるべきだと思っています。そして、多様な価値観の中で、誰もが自分に出来る事を考えていけるように、なりたいものです。

A-Stepは、ひとり親、ステップファミリー、中途養育家庭、外国籍、LGBT、発達しょうがいに関る家庭など、既存の枠組みから公に繋がりにくかった様々な形態の家族が共存できる地域づくりを目指した非営利活動団体です。

世代、性別、国籍を超えた様々な形態の家族が子育てを通じて共生していける地域活動を行うと共に、個々が生き辛さを抱えないよう、家庭内でおこる様々な問題を解決に向けて支援する活動を行っています。

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