ヤングケアラー

~ヤングケアラーの現状から~精神疾患の親をもつということ

こどもぴあ 平島芳香

 はじめに、今回テーマのヤングケアラーについて、私は研究者ではなく、当事者目線でしか語れない、よってヤングケアラー全体像を把握する目的であるのなら、もの足りないと思う。

 私は幼少期から、親孝行の偉い子どもと周囲の大人から誉められていた。大人になるにつれ親孝行は他人が私を語る枕詞になるが、私にとっては苦痛でしかない。その苦痛の正体が何物なのかずっとモヤモヤしていたが、ようやく同じ環境下で育った仲間たちと出会い、語り合うことにより、言語化され整理されていく。他人目線からの親孝行と私の親たちに対するケア行動のズレにモヤモヤしていたことに気がついた。 そのことから感覚的な感情整理には限界があることを思い知らされた。

 私にとって一般的に親孝行といわれているケア行為は慈愛からではなく、親たちの問題行動をコントロールし、如何に私の生活に割り込みをさせない邪魔をさせられないように自己防御する事務的なものでしかない。事務的な行為を慈愛と捉えられることが苦痛の一つ。親たちに対して実子としての感情を持たないように幼少期から自己を自然にコントロールしてきた。親たちに対する感情は他者としてのフィルターを通さざるを得ず、そのフィルターなしには、私にとってネグレクト、精神身体的虐待の加害者である親たちと冷静に向き合えない。かといって、怒り悲しみ恐怖の感情からはなにも生まれないことは体験から知っている。他者フィルター越しに垣間見る親たちの世間対応の不器用さは、今できる精一杯な対応が、世間では認められていない歯がゆさも感じた。周囲からは親の存在そのものをスルーすればと言われるが、戸籍がその責任を手放してはくれない。治療をするにも、問題行動の始末をするにしても法的に家族の責任が優先される。それよりも地域で育てられてきた為、できる人ができる範囲で関わることが自然に身に付いた為、スルーできないのは後者からだと考えている。

 父母とも私の誕生時 1967 年に既に精神疾患を患っていたようだ。後の 2012 年に父親は統合失調症、母親はうつ、もしくは統合失調症と診断され、ようやく治療が始まった。

 

 治療が始まり、今までの親たちの行為が理解できるようになった。親戚近所付き合いが出来ないこと、仕事をしないこと、無気力に常時寝ていること、不思議なことを言い出すこと、思考に問題があること、被害妄想が酷く常に怯えていること、どうしたらいいのか解決方法の発想もなくその結果、社会に SOS を発信することが出来ず、自身のコントロールが出来ないことを虐待の自覚のないまま、子どもへぶつけていたこと。親たちは疾患からその行動を行っていただけで、もし早く疾患だと私が気付けばお互いの不幸は防げたのではないかと、自責で更にモヤモヤが生まれる。そのような状態時に「こどもぴあ」精神疾患の親に育てられたこどもの家族学習会に出合い、同じ状況下の仲間を得ることで感情を共有することができた。

 その学習会の中で、「ヤングケアラー」のことばを知った。ヤングケアラーとは、 「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18 歳未満の子どものこと。ケアが必要な人は、主に、障がいや病気のある親や高齢の祖父母ですが、きょうだいや他の親族の場合もある。」と定義されている。私が生きていく為に必要なケア行為がなぜ問題だったのかそれは、成長課程の子どもがその時期に経験しなければいけない経験・体験が出来ないことだと学んだ。

 

 確かに、私は親たちや妹のケアに追われ、同世代の子どもと遊ぶ時間は少なく、反抗する時間も、自分自身に使える時間もなかった。成長過程の子どもらしい経験が全く抜けているせいなのか素なのか、他人の行動を期待せず自己解決の癖がつき、足並みを揃え協調をすること、後継者の育成が苦手だ。今、発生している問題に対して行動を起こさず、他者任せの解決を期待する事ができない、よって他者に厳しいと思われる面倒な性格である。更に、私にとって切実な問題は「自分が無い、自分を生きている実感が無い」生きづらさだ。限られた時間を家族に回している為、最低限の自分を維持する為の時間さえもない。今している行動の動機は、自ら望んでしていることなのか、他者からの期待で、なのか区別ができない。そもそも家庭に経済力がない為、家事を家庭内児童労働に頼る。外部発注をすれば済むだけの話で、そのコマを子どもが埋め合わせをする。自分のしたい事を諦めて、ケアに追われ時間が過ぎる。ケアのスキルは当然上がるので生活をする上で困ることはないが、子どもは家族の家政婦ではない。家政婦という職種を選択するにしても、自己が確立しているからこそ自からの意志で職業選択ができていると考える。今、そこにある問題を解決する事が優先され自己を確立する自由な、自分に使える時間、機会が後回しになり大人になる。そこが抜けているので大人になり自身が何をしたかったのかが分からない。よってただ生活をする為だけに生きている。そこに生きづらさが生まれる。それは私個人の問題なのか?同じ立場の仲間と出合うことで解決の糸口を得た。

 語り合い、共感をすることで、全てとはいかないが、失ったものを取り戻し回復させる「リカバリー」を経験する事ができ少し楽になった。まだ、この立場の子どもたちが語り合う「つどい」の場所は精神疾患に対する社会的スティグマもあり、全国的に少ない。 身近な場所に、集える居場所があれば、心が楽になる、同じ立場の方も多いのではと思い、つどいの場所を地元につくる。ヤングケアラー問題の要因は様々だが、成人してからの生きづらさにはかわりなく、その問題を発信することが当面の私の課題であり、地域で育ってきたからこそ地域で解決しなければいけない事と確信している。

ハート・ベース

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精神疾患を持つ親に育てられた子どもの集い。荒波を旅する心が、ほっと一息つける居場所を同じ境遇の仲間たちと共有。