1945年7月17~18日、茨城県の旧勝田町にあった兵器工場を目標としたアメリカ軍艦隊からの砲撃を受け、110人余りが亡くなりました。
太平洋戦争の被害は、広島・長崎の原爆や沖縄戦について報道されますが、わたしたちが住むひたちなか市でも大きな被害を受けました。こうした歴史を伝えていくことも重要なことだと考えています。
本州の東岸にあり、東京の北東80マイルの日立地区内の選定された諸目標は、1945年7月17〜18日の夜、ウィスコンシン、ミズーリ、アイオワ、ノースカロライナ、アラバマ以上戦艦)、アトランタ、デイトン(以上軽巡洋艦))および9隻の駆逐艦から成る第34・8・2任務部隊によって砲撃された。駆逐艦は発砲しなかった。
この地区にある日立製作所の工場のうち芝内(山手)工場は、2隻の戦艦による89発の16インチ対陸上弾によって攻撃され、3戦艦が125発を電線工場に向け、5戦艦が多賀工場に530発を発射した。さらに、3戦艦が215発を精銅所に発射し、3戦鑑が224発を日立兵器の工場に発射し、2戦艦が144発を日立製銅場(水戸工場)に発射した。2隻の軽巡洋鑑は292発の6インチ対陸上弹を磯崎のレーダー=ステーションに向けた。合計して1238発の16インチ対陸上弾と292発の6インチ対陸上弾が消費された。
砲撃は23時14分から0時11分まで、天候不良の条件のもとで行われた。悪天候は砲撃地域への接近中に精密な航海をさまたげ、予定されていた航空機による弾着観測と照明のための使用を阻害した。
犠牲となった一家4人を供養するため建立された石地蔵(ひたちなか市勝倉)