2026.03.31
大坪 光杜 + 柴田 雄三 + 山口 那月
2025年度は、以下の題目で三名が卒業研究を行いました。卒業した三名に、卒業研究の道程を振り返っていただきました。
大坪 光杜
柴田 雄三
山口 那月
対象となるテーマや地域の決め方/決まり方
柴田:今回の論文では対象地域は石巻の渡波地区を対象にした。自分が幼稚園の時にプレーパーク、DIYできる遊び場で遊んでいて、宮城にもないかなと調べて行った時に、被災後に子供の遊び場がないということでボランティアでされていたことを知った。ボランティアの人もやっているということでみに行って。
窪田:幼少期からプレーパークに馴染んでいたと。どんな体験だった?
柴田:あまり体験は記憶にない。ただ、大学生になってから一度東京に帰省して、公園に戻った時に焚き火の匂いだったりしたものを感じて。自分ここで遊んでいたなという記憶が戻ってきて。15年経って戻ってきたんだなと。心が動いた。
窪田:そうすると、記憶という意味では小学校とか、家族で買い物した場所とかもあり得たのでは。プレーパークの体験はその中でもどういう意味があったのでしょうか?
柴田:子供の頃に川とか、そういった自然がたくさんあるところで遊ぶのが好きで、そういう体験の一番最初にあったのがプレーパークなのかなと。東京は山とか森は少なくなってきている中で、まだ残っている自然の場所を選んで遊んでいたというのはプレーパークの経験が幼少期にあったのが大きかったのかもしれない。
窪田:今の子供達もそういう経験ができたらいいなと思った?
柴田:そこまでは考えていなかったけれど、興味があったのは、そもそも子供のために何かやるという活動自体が大人にとっては特徴的というか、自分にそこまでバックがないことなのかなと思っていて。ただそれでも地域の子供のために、と活動している方がいるというのはその人たちの志が強くあるんじゃないかと思っていた。そういう意味で面白いのかなと感じていた。
窪田:そしたら意外と宮城や石巻にも近くにあって。調べたらかなり面白かったと。どういうテーマとして取り上げた?
柴田:今回の論文では被災地のプレーパークというのが大きかった。プレーパークができたのが世田谷で1970年代、その最初は子供の遊び場が減っているというシンプルな問いから始まっていて、プレーパークが増えて行った時に形や運営も変わってきていた。その中で被災後のプレーパークは、初期の理念だった子供の遊びというものにダイレクトに取り組んでいたのかなと感じている。被災後の復興計画、10数年くらいで新しく都市が復興していく中で、子供の遊び場がどういう立場にあったのかを調べたいと思っていた。
窪田:被災後のプレーパークがオリジナルなものを体現していたのが面白かったんだね。一般的なプレーパークが変容してきているけれど、被災地ではオリジナルな部分がもう一度重視されたのは、一般的なプレーパークや市街地に対しての示唆になっている?
柴田:オリジナルのプレーパークとは違っているところもたくさんあって、オリジナルは地域に住んでいる主体と、大村虔一先生が関わって運営していた。石巻市はボランティアが最初にあって、地域の方々が参入していくという形。そういうところで違いはあったが、被災地のプレーパークというのは一つ新しいオリジナルになっていたのかなと感じている。
窪田:山口さんはどうですか?
山口:自分はどちらかというと地域から入った。地域を決めるのは歩いてみてというのが先にあった。人に話を聞いてみてテーマを決めた。規模な場所の変化に対して反対意見を持ち続けるのはどちらかというと少数な方だと思うが、どういうふうに思って何を考えながら現在までその気持ちを持ち続けているのかなということに興味があったのかなと感じている。東日本大震災から15年経って、いろいろな記事で上がっていてフォーカスされにくいわけではないと思うが、記事で見ると美化されている感じがして。実際に話を聞きに行きたいと思っていた。
窪田:仙台のいわゆる津波被災地の低地部はいろいろ集落があると思うが、最初のつかみ、北蒲生とか荒浜に何を感じていた?山口さんは学部の演習でも対象地はしっかり歩いて意味を見出してきたように思うが、調べる段階でここには何かあるぞ、みたいな勘とかアンテナが動いた?
山口:今自分で考えても難しいが、現地で活動されている方の記事がジャーナルなどにあがっているのが、そういう方もいるんだと知るきっかけをくれたのかなと思う。けれど、実際自分で感じているのは、それに加えて、その場所を訪れたときにあまりにも前の景色、被災前に持っていた良さみたいなものがなくなっている感覚があったからなのかなと思う。改めて調べてみると、いろいろな配慮というか、計画の中で以前のまちの在り方を活かせるようにと考えられているけれど、それって難しいんだなと思う。
窪田:蒲生干潟の上に立った時に工業地帯と自然の干潟が両方見えて、被災した市街地があって、という空間の意味みたいなものに立ち止まって考えているあたりが重要かなと思っていた。
山口:設計C2の時にそういう設計をさせていただいたけれど、蒲生干潟が今も良くなっていて、後から取り戻せない、元の状態には戻らないが大事だったと言われている状況が、逆らえないけど大事なものってあるよなと思うきっかけになった。徐々に被災地の人の気持ちとか、人により近づいた形で研究として進めていきたいと思った。
窪田:続いて大坪くんお願いします。
大坪:一番最初の考えとしては、まちというものに向き合いたい、街を歩いたり暮らす中でどういう体験をしてどういうイメージをして、何が愛着につながっているのかを考えたいと思っていた。ケヴィン・リンチの都市のイメージを読んで、街に対してのイメージがあることを知って、父や母にもリサーチしていく中で、まちなかでの植栽活動がいいイメージを作る一部としてあることを知って、公共の植栽帯の中で住民の花植え活動が行われることに着目するようになった。それがどういった環境・理由で行われているのかに興味があったのがきっかけ。
窪田:プロセスも含めて、自分の家というか、自分の住んでいるまちを対象にしていくじゃないですか。自分の家というのは最初からあった?ご両親と話していいなと思ったのか、先に自分の家がいいなというのがあったのか。
大坪:自分も暮らしていたし、近い人に聞けるから、街に対して解像度が高いという点で自分の家と自分の街をやりたいと思っていた。
窪田:自分の家は確かに解像度高いしわかるところも多いけれど、必ずしもお隣さんとかが同じように愛着を持っているわけでもないし、大坪くん自身も花植えの活動をしていない中で、大坪くん自身の愛着は結局どういうところにあった?
大坪:まだちゃんと答えは出せていない気がするけれど、ニュータウンの中で間接的に人とのつながりが感じられる瞬間というものが結構居心地が良かったりするなと思うことがあって。植えられているお花を見たり、その姿を直接見て会話するわけではないけど、挨拶をするとか。ささやかなコミュニケーションが散りばめられている環境がいいなと思っている。
窪田:ものすごく能動的なわけではなくて、ささやかな日常の積み重ねというのは家の造作、窓だったりちょっとしたことに支えられているという、そういう感覚を強く持っていたし、今回やってみてそれが強まったという感じでしょうかね。よく大坪君はアイデンティティという言葉を使っていたが、そことの関係は?
大坪:ニュータウンって結構均質な街並みだったらり、同じような家が立ち並んでいたりする中で、匿名的でいたいという思いがあって、そういう人たちが住んでいると思っていて、そこでもそういう場所に住むとか、そこにいるっていうことのアイデンティティというのは人として持っていたいものなのかなと思っていて、卒業設計ではそこに自分が住んでいるというアイデンティティを獲得できるようなことを目指して設計をした。
プレーパークわたのはの、少し登りづらいハシゴが掛かった滑り台
一番大変だったことは何か
柴田:一番大変だったことは、卒業論文で一回書いてみたものの、論点を絞りきれていないというか、自分のなかでプレーパークに対してこういうところについて書きたい、というところが定まっていない状態だったので、プレーパークに対してどういう切り口で調査していけばいいんだろうというのは常に考えてやっていた。
窪田:卒業設計は自分で設計要件を決めるところがあると思うが、そこが決まりにくいというのはあったかもしれないね。どのくらいの範囲の子供がどれくらい集まるかとか、プレーパークの問題点は何かとか。そもそも難しいのはプレーパークは子供達が自分のやりたいようにやるところだが、設計するのは自己矛盾になるという難しさはなかった?
柴田:卒業設計についてはその部分で悩んでいた。子供が自由に遊べる場を作るのに大人がどこまで関与していいのか、とか。大人が作ったものが子供にとってどういうふうに機能していくのかというのは難しくて、最終的に思ったのは子供とか大人とか分ける必要ないのかなと。プレーパークというもの自体が、子供のためでもあり地域住民でもあり、誰がきてもそこに作りたいものを作る、そういう場が地域に一つあることに価値があるのかなと思っている。
窪田:大人と子供が分けなくてもいいという視点。好きなことをしたらいいというのもあるが、大人と子供を分けないといけない視点があるとしたらどこだろう?
柴田:明確に違うのはプレーパークを利用する人と管理する人。そういう意味でプレーリーダーの存在がプレーパークには不可欠で、プレーリーダーは子供が自由に遊べる環境を整えるという意味で、リスクとハザードとプレーパークでは言っているが、怪我するリスクを経験して子供は経験して、ここまでなら今の自分はできるというのがわかったり。滑り台に釘が出ているのは子供の想定外でハザードに入ってくる。ハザードを取り除く人が必要で、それがプレーリーダーの役割なのかなと思っていて、そういうところで役割は変わってくるのかなと。
窪田:今回は実在しているこの方のために、という形でプレーリーダーのための住まいの設計になっていったと思うが、その時に留意していたことは?
柴田:最終成果物にはちゃんと自分の思想が出ているわけではないが、自分の中で考えていたのは、プレーリーダーの住まいでもありつつ、地域住民の方の住まいでもあって、プレーリーダーがプレーリーダーとしてあるんじゃなくて、地域住民とか、住んでいる場所に子供が入っていって、地域住民の住環境の中で遊ぶ子供のハザードを取り除いてあげるプレーリーダーという形があっていいんじゃないかと考えて設計した。
窪田:山口さんは大変だったことはなんでしょうか。
山口:論文と設計で全然違うことが大変だった。論文に関しては人に実際に話を聞いて、その方のバックグラウンドもあるので、その話をどこまでどのように聞くべきなのか、というのを感じながらインタビューするのが大変だった。それに加えて、そのインタビューした内容を論文としてまとめるにあたって、その人たちのバックグラウンドとか、活動するにあたっての気持ちを無碍にしてしまうことがないように注意しながら書いた。結果的には関係図と活動の様子をまとめるというのに落ち着いた。インタビューしていく中で大変だった、より考えさせられるなと思ったのは、インタビューしていく方も今まで卒業生とか修士論文とかで話を応じてくださった方もたくさんいて、その方が、みなさん思っていると思いますが、インタビューした方からもいっていただいたが、大学関係者が関わっていいのか悪いのかわからないね、と話す方がいらっしゃって、自分が論文を書くために関わるというのはどういう立場なんだろうなというのは考えさせられた。今後の何十年の大災害があるかもしれない状況で研究するのも大事だと思うが、どう関わっていくべきかというのは考えさせられて、インタビューしていくのは気持ちの部分で大変だった。設計に関しては、自分はもともと設計するのに今あるものとか、今こういうことをやっているというのが見えすぎてしまう、論文を通すとそれ以上にあって、今あるものとか、今こういうふうに行われていることが時間を経て変化していっている中で、モノのあり方・ことの在り方を自分が設計で示すような行動を取るのが得意じゃなくて苦手で怖くなってしまう部分があって、今回の卒業設計ではそれが結構強く出てしまった。今考えると、もっと感じた感覚を形として昇華して模索するべきだったかなと。
窪田:介入することを控えたいということだったけど、卒業設計として最終的には介入したということなのか、あまり介入しなかったということなのか、最終的にはどっち?
山口:最終的にはその人たちの行動には介入せずに、活動されている方以外に関するもの、バス停を作った。活動そのものをストレートに変化させるものではなく。
窪田:もうちょっとこうだったら良かったというのはどっちの方向だった?
山口:作るものが、そういうやり方もあったが、荒浜で感じた感覚が、今まで他の場所を訪れた時になかった感覚だったので、それを純粋に形として模索していって、その形がどうなるのかを見てみても良かったのかなと思った。実際卒業設計として出したことには後悔はないけれど。
窪田:論文の過程の中で大学関係者が関わって碌なことがないという事例がある中でそういう言葉もあったと思うが、山口さんとしてはこれから2年間ありますが、それをどう受け止めようとしている?
山口:あまり器用なやり方ではないと思うが、基本として関係性をいきなり卒論終わったから消えてしまう人ではなく、自分は修士のこの後の2年間通して、研究としてまとまらない可能性もあるけれど、その人たちがされている活動に一部参加したり、そこからさらに自分が研究してきたことも加えて新しい研究につながっていくかもしれないけれど、前提を無しにして、イベントに参加したりしていこうと思っている。
窪田:大坪君は?
大坪:論文と設計でそれぞれ違った大変さがあった。論文では論理的に考えること、自分の立場を明確にすること、いいと思う環境がなぜいいのかを問い直すことが大変だった。論文の方でいうと、故郷の植栽帯における花壇活動が自分はいい活動だと思っていたが、それがなんでいいのか、景観が良くなるとか、住民にインタビューするにあたって自分の立場を明確にしないといけないところがあって、景観としてポジティブですよねという立場でインタビューに行ったが、住民でいいと思っている人もいればよくないと思っている人もいるというのが分かって。雑草の手入れが面倒になってしまうとか公共の手入れの介入がされなくなってしまうとか。そういったことがあることを知って、そういった自分とは違う意見を持つ人もいる中で、どういった立場・立ち位置で意見に向き合っていくのかが大変だった。設計の方は、やりたいこととか目指したい環境というのがあって、どうリアリティを持った形で実現するかというのが大変だったところ。
窪田:その二つは関連していますよね。論文の中でいいと思っていたことが相対化されて理解されたという局面もあり、設計において大坪君がいいと思っていることは追求すべきもの、どう実現すべきかは別として。論文の時にあった自分の価値観の揺らぎは、設計では揺らがなかった?
大坪:設計でも揺らいでいた。設計は一つの答えを出さなきゃいけない、と締切が近い中でもそこは突き進むしかない、いいと思っているという前提で、答え出すことだけを目指して形をスタディしてみたりした。本当にこれでいいのかということで悩んだりするところも大変だった。
窪田;大坪くんの設計は相手との関係性。相手がそう思っていないと押しつけになってしまうというのもあったが、そういう課題はどうやって乗り越えていけそう?
大坪:ちょっとずつでも相手に聞いてみる、意見を集めてみる。色々な立場の意見を聞いて傾向を掴むということが大事なのかなと思っている。
窪田:時間をかけて、それが自分自身の変化につながるかもしれませんね。
泉パークタウンの、植樹枡で花壇活動をする様子
取り組んできて、到達したこととは何か?
柴田:実際にプレーパークの人と話したり、子供と遊んでいったりして、少し人を好きになれかなと思うことがあった。今まで人にあまり興味はなかったが、被災地の方とか、それぞれ思いがあってこういうことをしているんだというエピソードがそれぞれあって、思いとか活動の重なりで新しいことが起こっているというこが気づけた、実感できた1年間だったと思う。修士ではプレイヤーの一人になることが大事かなと思っていて、今も渡波のプレーパークの人とは関わっていて、関わりながらその人たちのこと、渡波地区にとってプレーパークでやっていることがどういう価値があるのかを自分の中で探せていけたらなと思っている。
窪田:さっきの山口さんの最後のところにもシンクロするかもしれませんが、山口さんは?
山口:雄三が言っていたように、ちゃんと自分が考えていたことを現場にかえせるように関わり続けて、この2年間で、やってみない?と声かけられることも。そこにも人にとっての意味があってというのを感じているので、実際にアクションしてみてどういう変化があるのかというのをこの2年間、アクションする人というのと客観視できるような立場として関われるようにしたい。到達したこととしては、それを肌で感じられたこと。自分が今何すべきか、というのに理由がついてきた、というのが得られたことかなと思っている。過去の既往研究を参照するにしても、これまで調査に関わってきたに対してのリスペクトの表れでもあるし。設計に対しても、より形づくりも。自分もなんでこんなに形を考えるんだろうと思うことがあったが、そういうのに貪欲になることは今後につながる意義深いことなんだと肌で感じられた。
窪田:大坪君は?
大坪:住民の方、ニュータウンに向き合ってきたが、住民の方にインタビューして、インターホン急に鳴らしてお話聞いたり、そういうのが貴重な体験だったなと。最初「え、なに?」みたいな感じで怪訝そうにする方も多かったり、忙しいから、みたいに断られることもあったが、その人の向かいの家でインタビューしてたらその方が出てきて話に参加してくれたり。最初にそういうこと言った人ほどたくさん喋ったり。40分くらい。ニュータウンのお年寄りの方の寂しさとかしゃべりたさを抱えている人も多かったりするのかなと思ったり。その人に周りのコミュニケーションあるのかと聞いたら、ないよ、梗概住宅地ってそういうものでしょ、と言われることもあって、寂しそうなところも感じていた。論文とまでいくのかはわからないし、意義のある活動とかテーマなのかはわからないけれど、そこに結構関心が向いてるなと思ったことが気づき。
窪田:すごい気づきだと思う。特にその方のお話とかは内面化されている社会の根幹でもある。大きな問題だと言ってやってもいいし、大きな問題じゃなくてもいいし、ささやかなことがとても重要なんじゃないかという考え方もいいと思うけれど。重要な気づきだと思う。
植田:皆さんがすごく悩みながら地域に入っていたんだなと気づけて良かった。論文と設計を両方同じ地域でやってみて、比較してみて気づきは何かあった?
柴田:論文の方は調査していって、積み重ねていくことで土地に関する理解が深まっていって、自分の考えが土地に寄り添っていく感じがあった。設計は、それに加えて、自分はこういうものがあったらいい、みたいなところを加えて、かつそれを形にしなきゃいけない、というのが結構難しいなと思うようになった。設計というのが難しいなと。解像度が上がるほど作れなくなってくる。
植田:同じことを思っていた。ささやかな活動を注目するほど暴力的になったり。
山口:やっている間に雄三や光杜のところに行って、「わかんないよー」と愚痴をこぼすことがあった。(笑)人の顔が見えている中で設計することが難しかったし、タイムスケジュールも大変だった。大事に考えたい部分もあるけれど、前期から考えることもあるけれど、11月提出した後、12月から、となってくるとタイムスケジュールは厳しかった。
植田:卒論終わった後の燃え尽き期間が少しありましたよね。
山口:早めの着手が大事だなと思います。(笑)
大坪:論文はある程度、締め切りから逆算して、ここにある材料で書き切るというか、締め切りに間に合わせるというのもあると思うが、設計の方は考えれば考えるだけいいのが出せるんじゃないかと思うんじゃないかと思って、ギリギリまで考えて、出てくるかもしれないけど出てこないかもしれない、という不安を抱えていた。一つのまとまりにできたから良かったが、それができていない可能性もあったなと。今後、もし設計職につくとしたらどうなるのかなと。同じような進み方ができるわけではないのかなと。
植田:大坪君は終盤で大きく変わりましたよね。納得できる出来で世に出せるものと出せないものがあると、それも大事な気づきなのかなと思いました。
海辺の図書館にある菜園を来訪者が整える様子(震災後に荒浜に通うようになった方も多くいる)
ご卒業おめでとうございます!