生簀や水槽で魚を飼っていると、成熟していても産卵しないことがあります。
本来、魚が繁殖するためには適切な環境刺激が必要です。必要な環境刺激は魚種によって様々ですが、全魚種の生理メカニズムに介入し、産卵を制御できる生理活性物質が発見されています。
それがこの産卵誘発ペプチド(GnRHa) です。弊社はこのペプチドの分子構造を改良することで経口投与を可能にしました。
注射によるペプチド投与は世界中に普及しており、生産高数兆円に登るノルウェーサーモンや中国・東南アジアの魚種ではペプチドの注射が普通に行われています。
唯一、投与が行われていないのがティラピアとクロマグロ。ティラピアは飼育が簡単で何もしなくても産むから、クロマグロは注射が不可能だからです。
また、日本では法律上の観点から注射を扱える人が少ないので、自発的な産卵に頼らざるをえないという状況もあります。
成熟・産卵を起こすメカニズムは、すべての脊椎動物で類似しており、ある一つの分子が司っています。この分子は10個のアミノ酸からなるペプチドで、魚、両生類、爬虫類、軟体動物やヒトにまで確認されております。
メカニズム略図:外部刺激を感覚器が受容し、脳からペプチドを放出、脳下垂体はそれを受けてゴナドトロピンを血中に分泌する。ゴナドトロピンは生殖腺に働きかけ、性ステロイドが合成される。
hCG(human Chorionic Gonadotropin)やゴナトロピンなどのホルモン剤が出回っております。いずれも強力な誘発剤ですが、アレルゲンとなることがあり、産卵の質が悪くなることが報告されています。
また、国内では産卵誘発ペプチドの代用として写真のような実験試薬も売られていますが、極めて高価です。
産卵誘発ペプチドのメカニズムを解明した科学者に1977年ノーベル賞が授与されてから、ペプチドの改良が進み医療に用いられるようになりました。
80年代にはボルチモア大学のZohar博士によって、魚類の養殖に応用されるようになりました。2000年代に入り産卵誘発のレビューテキストが発刊されるまで、ほぼすべての主要な養殖魚類においての効果が確認されました。
採卵は養殖のスタートライン、当産業の基盤です。世界の養殖生産量の発展も、当技術の普及とは無関係でないでしょう。
Zohar博士と海ほたるにて
二人のノーベル賞受賞者を出し、養殖業に革命を起こした産卵誘発ペプチド。投与後、血中で分解され安全で自然な産卵をもたらすものですが、どんな魚でも強制的に産卵させらるわけではありません。何ができて、何ができないのかを以下にまとめました。
できること
1.生産計画: 産卵誘発ペプチドを用いることで、これまで自然任せであった採卵が、時間単位で計画可能になる。
2.早期採卵:自然下で成熟する年齢よりも早く産卵させることが可能である。例えば、サバの場合、3年待たなければいけないところを1年に短縮することができた。
3.周年採卵:前述した本来魚類は一定の季節にのみ産卵するが、ペプチドを用いれば一年中産卵させることが可能になる。ただし、産卵条件を整えることも必要である。
4.卵質向上: hCGはアレルギー反応を引き起こす恐れがあるのに対し、ペプチドはどんな魚種に投与しても自然な産卵を促し、結果として卵の発生率・ふ化率が向上する。
できないこと
1.不適水温での採卵:前述した日本式の産卵誘導にように長期的かつ煩雑な水温調整は必要ないにしても、産卵適水温でないと作用しにくい。
2.春機発動:生物が繁殖できる体になるための変化のことを指し、人では思春期にあたる。春機発動を人為的に誘発できたという報告はないが、経口投与を長期間続けると卵成長を促すことを確認している(発表論文を参照)。
3.卵退行の抑制:正常に成熟しなかった卵細胞は体組織に吸収される(卵退行)。魚だと産卵期と非産卵期でこれを繰り返すが、非産卵期モードになっている魚や老成魚を強制的に産卵指せることは難しい。
一般的にペプチド製剤が飲み薬(経口投与)として用いられないのは、消化酵素に弱く、腸吸収性が低いためです。ヒト用の予防接種が注射であるのもこのためです。
ヒトなら注射は我慢すればいいだけですが、魚には遥かにハイリスクです。このため、親魚を使い捨てにすることも多いようです。
さらに泳ぎ続ける必要があるマグロ類、小さすぎる観賞種・希少種、水族館で展示している魚などに注射をするのは大変困難でしょう。
経口剤による養殖魚の産卵誘発は、1990年頃にコイ科魚類、ニベ科魚類、ギンダラなどで行われたてきましたが、当時の技術ではペプチドを大量に合成することが困難であったため実用はこんなんでした。
ライフサイエンスやデジタル技術の発展に伴い、一学生でもPCでペプチド分子を設計し、ネットで外注すれば創薬ができるようなりました。私はまず従来の産卵誘発ペプチドを安価に合成できるか確認し、さらに経口剤に適した形に改良してみました。
とはいえ、大したことはやっておらず創薬の教科書に基づいて腸吸収性を向上したにすぎません。ただし、魚を対象にした創薬研究などなかったので、人には微々たる効果でも魚では爆発的に効くということが知られていなかったのです。
当社が開発した新ペプチドの費用対効果は最初に経口投与が試みられた1988年のとき比べ、200倍になりました。大げさに言うと、40年間、絵にかいた餅であっただけの与法が実用化されたわけです。