1. 文献史料等に見える高祖姓の由来
①祖父母の祖父母 ②遠い祖先 ③一宗一派を開いた僧の敬語 「高祖日蓮」 ④漢・唐の創業の帝の称。漢の劉邦及び唐の李淵。(『広辞苑』)
2.全国の「高祖」の地
髙祖家の分布(平成23年時点)にも記載しましたが、全国に「高祖」の地名は少なくとも5か所見つかりました。
1)佐賀県唐津市肥前町
ここ肥前町は、佐賀県の北西部に位置し、東側以外は海に囲まれています。同町内西部の海岸から数百メートルないし1キロメートル以内の所に、「高祖」及び「高祖平(こうそひら)」の地があります。そのうち1か所は「肥前町大字入野(いりの)字高祖」であり、戸数3戸、人口12人の小集落です。(平成5年4月調査) また、同所に隣接して、「肥前町大字星賀(ほしか)字高祖平」が有りますが、ここには住人は居ないそうです。
なお、明治15年ごろの『佐賀県各町村小名取調書』(東京大学史料編纂所所蔵)には、「東松浦郡晴気浦(はれぎうら)高祖」と掲載されていますが、調査当時肥前町役場からは「晴気に高祖という地は無い。同町内には前記の2か所のみある。」との回答を得ました。現在肥前町内に高祖姓はありません。
2)広島県江田島市沖美町
広島市の南、厳島(宮島)の東に浮かぶ西能美島の北端に大字高祖があります。この地とは狭い海峡をまたぐ橋でつながった倉橋島は、奈良時代の遣唐使船の建造地と言われており、遣唐使船の復元(平成元年)や中国揚州市の寺院等との親善交流(平成6年)が行われるなど、昔も現在も中国との縁の深い土地柄です。
3)愛媛県新居浜市船木
四国縦貫自動車道の新居浜インターチェンジの西一帯が高祖地区です。平成4年6月時点で、高祖自治会加入は174戸です。
高祖のある船木地区は官用船材を供出したのでその名を得たとされ、寛文4年(1664)「船木村」と称しています。明治12年頃には、「愛媛県新居郡船木村高祖」とあり、「高祖」は小字であることがわかります。また、昭和30年に、同村は新居浜市に合併され、現在に至っています。
この高祖の地は、鎌倉時代、当地方の豪族高祖(河野)五郎通敦の所領で、越智郡大山祇神社を分祀した三島神社があります。高祖五郎は、伊予水軍に属し、河野家の先祖です。ここ高祖は、昔、「高曾」「甲曾」「甲祖」等と書いていました。
4)福岡県糸島市
福岡市の西隣、糸島市に高祖(「たかす」と読む)の里があります。
『続風土記』によりますと、「高祖」は古くは「高磯」「詫祖」などとも書き、その地名の由来は、当地に歴世の帝王の高祖を祀ったからとか、当地の豪族原田氏の祖が漢の高祖であるとかの説があります。
高祖集落の北東には高祖山があります。このあたりには、天平勝宝8年(756)太宰大弐吉備真備によって築城が開始され、神護景雲2年に完成した国史跡の怡土(いと)城や、建久年中原田氏によって築かれた高祖(山)城などの跡、更に『三代実録』元慶元年の条に出てくる「高磯比咩神」のことと言われる高祖神社もあります。
ここは、中世(鎌倉期~戦国期)には高祖郷と呼ばれました。近世になり、江戸期~明治22年の間は高祖村と称され、福岡藩領怡土郡の内にありました。寛政4年の家数103、人口482、(『三苫家文書』) 明治7年高祖小学校を設置。高祖は同22年以降大字名となり、怡土郡怡土村、同29年からは糸島郡怡土村、昭和30年からは同郡前原(まえばる)町、平成4年市制施行して前原市、更に平成22年以降糸島市にそれぞれ属しています。昭和57年の世帯数189、人口828。
5)鹿児島県薩摩郡さつま町
さつま町田原大下(たばるおおしも)に「高祖」の地名があり、「高祖橋」もあるそうです。
この地になぜ「高祖」の地名が・・・?と、当初首をかしげましたが、遣唐使の航路のうち吉備真備がたどった航路の1回は鹿児島県坊津を経由しており、さつま町との接点が見つかりました。
3.高祖姓に関する考察
髙祖家出身地の図表から、現在の全国の高祖家は九州北西部(佐賀県、福岡県及び長崎県)及び山陽地方中東部(岡山県南東部及び広島県南部)に特に多く、その出身地については、それが判明した189家全てが4か所(佐賀県川副町=判明家の61%、岡山県牛窓町同32%、広島県大柿町同19%、鹿児島県さつま町同5%)に集中していました。
紙面の関係上詳細を省きますが、結論的には江戸期(まで)の高祖姓の住所分布としては、上記の2地域(九州北西部及び山陽地方中東部)が圧倒的に多かったと推察されます。それはなぜでしょうか?
全国の「高祖」の地の共通点を考えますと、いずれも「海に近いこと」が挙げられます。更に踏み込めば「遣唐使など大陸との交流のルートに近いこと」ではないでしょうか?
中でも広島県沖美町の高祖の地は、前記のように遣唐使船の建造・修理地に近接しており、瀬戸内海航路の要港岡山県牛窓町は、遣唐使船や朝鮮使節が寄港した港町として知られています。
また、九州北部地方は言うまでもなく古代から大陸とのつながりの深い地域です。例えば、前記のように福岡県前原市高祖郷は、当地方の豪族原田氏の祖が「漢の高祖」であるとする説や、同地の怡土城の築城開始者が、遣唐副使等として2度も唐へ渡り長年月滞在して諸学芸を納め奈良文化に多大な貢献をした吉備真備(現在の岡山県出身)であること、あるいはまた筑後の劉(りゅう)姓古賀氏は「漢の高祖」の末裔と言われていることなど、枚挙にいとまがありません。
なお、遣唐使は遣隋使や遣明使に比べ、派遣回数・同人数ともに多く、計数百人とも言われており、中国側からの答礼使節も度々来朝しています。そして、吉備真備が難破し紀伊国牟漏埼に漂着、帰京後一族の与呂子右衛門がこの地に残り太地を拓いたと伝えられている(太地町教育委員会)ように、各地に土着する者があったようです。
ここで、これまで記述して来た事柄から大胆な仮説を試みます。
それは、「遣唐使等大陸の使節、その答礼使、あるいは大陸よりの帰化人等々の関係者が、王朝名である『高祖』を地名として名付け、同地に居住していた人が近隣他地へ移住し、後に高祖姓を名乗った。」とするものです。