新府城を作る 其の1

武田氏の新府城は武田勝頼が躑躅ヶ崎館に代わる拠点として1581年に築城したもので、平山城である。領土拡大により躑躅ヶ崎館より位置的に中心の地で、かつ規模の大きい軍勢の運用する為であったようだ。

完成後ほどなく織田徳川の軍勢が迫り、城を放棄してしまう。理由判らないが、この時点の手勢ではこの規模の平山城で籠城するのは無理と思ったのかもしれない。

後の徳川と北条との武田遺領争奪戦「甲斐一乱」では徳川家康はこの城を修繕して本陣とし、5倍の兵力を持つ北条相手に対峙、その間戦況は徳川側に有利になり、和議が集結。徳川家康は所領を大幅に増やし、羽柴秀吉に対抗できる勢力と成り得た。

西側は断崖絶壁、北と東に水堀を備え、残る南側に曲輪を多めに配置している。この城の大きな特徴が北にある2つの鉄砲出構えで、当時ヨーロッパで主流となった稜堡式に通じるものがあるが、この新府城の他にこの様な構えを持つ城は、少なくとも私の知識には無い。1648年築城の赤穂城の郭の形式は稜堡式を意識している言われる。武田氏の城らしく丸馬出しと三日月堀がしっかりある。

国土地理院の10m標高メッシュを使って付近一帯を3Dメッシュ化した。このデータを基にShadeを使って新府城を再現してみる。