メッセージ
主日礼拝説教概要
2021年8月1日 聖霊降臨後第10主日説教
「キリストという恵み」(ヨハネによる福音書6章24-35節)
先週からヨハネによる福音書6章の言葉に聞いています。先週の箇所はイエス様の奇跡の中でも有名なもの、2匹の魚と5つのパンで5000人を超えると思われる群衆に食事を与えたことと、湖の上を歩いて舟で進む弟子たちに近づいたことでした。特に5000人に食事を与えた出来事は新約聖書に収められているすべての福音書が伝えています。他の3つの福音書は「奇跡」とだけ呼びますが、ヨハネ福音書の場合はイエス様の奇跡のことを「しるし」と呼びます。イエス様の奇跡はもちろんそれ自体が人にはできないようなことですから奇跡なのですが、それ以上に「イエス様とは何者か、イエス様を遣わされた方はどのような方か」を人々が知るようになるためのもの、という意味で「しるし」と言われています。
今週の箇所でイエス様のしるしは行われませんでしたが、先週のしるしを体験した人たちとのやりとりを通して、大切なことが書かれていました。先週の出来事、また来週の箇所でもキーワードになる言葉です。それは35節の「わたしが命のパンである」という言葉です。イエス様が命のパン、これ自体はわかりにくい言葉ですが、強く印象に残ります。どういった意味でしょうか。
ここで言われているパンとは、私たちの言葉で言うと「ごはん」と置き換えることができるでしょうか、食事そのものを指すような意味合いを持っていると考えられます。私たちの命を支える、源となるものです。食事が無ければ人はすぐ飢え、苦しみ、生きることができません。そして命というのは、心臓が動いている、呼吸をしているというような「生命活動」を意味しているのではありません。そうではなく「永遠の命」を指しています。ヨハネ福音書3章でイエス様はご自分が遣わされた目的を「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」と語られました。人に永遠の命を与えることがイエス様の役割であり、その永遠の命を支える、源となるものもイエス様ご自身であるというのです。
永遠の命とは、所謂不老不死ということではありません。神様とのつながりで与えられる命のことです。それは生き方でもあります。イエス様が掟として、命令として語られたのは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということでした。ただ「互いに愛し合いなさい」というだけでは結局それぞれが好きなようにする程度の意味にも受け取ることもできますが、「わたしがあなたがたを愛したように」という一言が入るとまったく変わってきます。その言葉に聞き従おうとする場合、私たちはイエス様の姿に注目しなければなりません。この方が誰を見つめ、何をしたのか、それを引き継いで生きることが「永遠の命」を生きることなのです。
群衆は「御心を行うためには何をすればいいですか」とイエス様に尋ねました。イエス様は「信じることだ」と答えられました。イエス様を信じる、それはイエス様がなされたことを信じるということでもあります。私たちにとって大切なことは、「永遠の命を得るために聖書の言葉を信じましょう」ということではなく、「イエス様によってわたしたちに永遠の命が与えられていることを信じましょう」ということです。既に私たちには、この命が与えられているのです。互いに愛し合う根拠が与えられているのです。わたしたちの永遠の命の源である、命のパンであるイエス様が、わたしたちには与えられているのです。
この命は、この世にどんな出来事が起こったとしても私たちから失われません。私たちの弱さも、この命を弱めることはしません。むしろ困難の中でより強くされていくのです。人の世では、弱さは弱さとしか認識されません。それは克服されるべきものであり、無い方が良いものと考えられます。ですが永遠の命にあっては、弱さは助ける理由、助けられる理由となるのです。それは恥でもなんでもなく、愛による結びつきへと変えられていくのです。私たちはこの命を生きたいと思います。イエス様が与えて下さったこの命を、感謝と共に歩んでいきたいのです。
イエス様のしるしと言葉によって、飢えは満たされていきました。恐れは信仰へと変えられました。私たちが生きる現実も、変えられるのです。弱さに働きかけられる神様の愛を、私たちの間で分かち合われるキリストという恵みを信じて、また新たに歩みだしてまいりましょう。
2021年7月25日 聖霊降臨後第9主日説教
「主があなたを満たす」ヨハネによる福音書6:1-21
今日からしばらくヨハネ福音書を読み進めます。ヨハネ福音書6章全体にあるテーマとして「イエス様は命のパン」というものがあります。今日からしばらくの間、そのテーマを念頭に置きながら聞いてまいりましょう。
今日の箇所は、昔ながらの言い方では「5千人の給食」と呼ばれる物語と「水の上を歩く」という物語です。どちらもイエス様の奇跡を伝えています。そして実は数が少ないのですが、「5千人の給食」の奇跡は新約聖書に収められている4つの福音書すべてが伝えている出来事でもあります。その出来事の大きさ、物語としての面白さ、また「いったいどうやったのだろう?」とつい色々想像してしまうことなど、私たちの心を捉える魅力を持っていると言えます。4つの福音書で共通していることは、そこにいた群衆が男性だけで5千人ほどいた(女性、子どもを含めるともっと大勢)ということ、そして手元にあった食料は5つのパンと2匹の魚だったということです。どの福音書も、人の数が数えきれないほど多く、手元の食糧では全く足りないということ、また弟子たちの力ではそれだけの人に食事を行き渡らせる力が無いという様子を描いています。パン5つと魚2匹では、イエス様と弟子たちだけの食事としても十分ではないでしょう。そのような状況にもかかわらず、人々は満たされていきました。具体的にどのようにされていったのかは書かれていません。ですがそこで何かが起こり、弟子たちは奇跡を経験し、人々は満たされたのです。
この物語の中で、ヨハネ福音書だけが伝えている部分があります。一つは最初に口を開いたのがイエス様だったということです。他の福音書では、弟子たちがイエス様に群衆を解散させ、それぞれに食事を買いに行かせるよう提案します。ヨハネ福音書ではイエス様がフィリポに「どうすればいいか」と聞いています。しかもイエス様はフィリポを試みるためそのように聞いたというのです。これはヨハネ福音書が伝えるイエス様の特徴で、イエス様は最初から復活という視点から語っておられるのです。弟子たちはイエス様の言っていることが最初はわからないのですが、「復活した後、理解した」という言葉が繰り返し出てきます。今日の箇所でも、イエス様がされようとしていることを当然フィリポはわかっていません。イエス様は最初からしるしを行うつもりだったのです。
もう一つは、パンと魚を持っていたのが少年だったということです。群衆の中の一人だったのでしょう。この少年の姿からも色々な解釈ができます。彼が持っていた食料はそもそも誰のためのものだったのでしょうか。おそらくこの少年と家族のためのものだったのだろうと思います。また、アンデレはなぜ彼が持っている食料を見つけたのでしょうか。少年が隠していたものをたまたま見つけたのではないと思います。この少年は、弟子たちや周りの大人たちには無い純粋さを象徴しているように見えます。食事のことを気にする様子を見て、純粋な思いで持ってきたのではないでしょうか。
同時に、少年の姿は弱さ・未熟さも象徴しています。もし彼が自ら進み出てパンと魚を出したとして、周りの大人はどのように反応したかを想像してみます。するとどうしても、冷めた目で彼を見る大人たちの姿を想像してしまうのです。「たったそれだけで何ができる」「そんなに甘い世界ではない」など…私たちもどこかで思ってしまっているような思いを、周りの大人たちは抱いたのではないかと思うのです。
目の前の大勢の群衆に対して、手元にあるものはお金も食料もまったく足りそうになく、大人たちは純粋な信仰も持ち合わせていない。この状況に対して、イエス様は働きかけます。足りなさを嘆くのでもなく、食料を買いに行かせるのでもなく、また不信仰を咎めるのでもないのです。人は目に映るもので判断し、足りない、少ないと考えます。イエス様はそれらをそのまま用いられるのです。手元にあったパンと魚を取って感謝の祈りを捧げ、人々に配っていきます。すると大勢の群衆は満たされていき、しかも食料は余りました。ここで何が起こったのかというと、人が弱い、足りないと思っているものをイエス様が用いられると、大勢の人を満たしていくものに変えられていったということです。どう考えても足りないものが、有り余るほどの豊かさに変えられていったのです。
これがイエス様の起こされた奇跡、しるしです。思えば教会は何度もこの奇跡に与ってきました。非力としか思えない力も、足りないとしか思えない貧しさも、イエス様の大きな働きの中で変えられていき、そうやって恵みを分かち合って教会は歩んできたのです。人の弱さや小ささは、イエス様の御手の働きの中では決してちっぽけなものにはならないのです。大勢の人を満たす力に変えられます。なぜなら、イエス様がその働きの主体だからです。食事を必要としている飢えた人がいる、現在もこの問題は続いています。私たちの身近なところにもあります。イエス様は今もその現実に働きかけようとしておられるはずです。そして私たちを試みるために問うのです。「この人たちに食べさせるには、どうすればよいだろうか」と。
私たちの目には、私たちの力や働きは小さく映るかもしれません。でも主の御手の働きを信じていきたいのです。イエス様は今日の箇所の後半に「わたしだ。恐れることはない」と言われました。主が共におられます。恐れることはないのです。大胆に信頼して、主が用いて下さることに信頼して、また感謝して、新しい週も歩んでまいりましょう。