当時、自動車部は、箱根駅伝で競争部支援を全面的に引受けていた、選手についている監督のサイドカー、応援者を乗せたトラック、選手の送迎と大活躍したもの、駅伝本番・試走と、箱根までは再三走ったものである。
初参加の時には宮の下手前で、オーバーヒート、蒸気自動車のように白煙を上げ始めた、ラジエーターキャップを明け、1斗缶に入れた水を車の屋根に据付けて固定しホースを使いサイホンを利用して水を注入しながら走った、自動車部は、目的を果たすためには如何なる時でも工夫して切抜ける、自動者部精神なるものを山田キャプテンから教えられた一齣である。
仙石原に行った岐路、三上君が運転していたが、強羅でヘアピンカーブに差し掛かった、超急カーブ危ない、そのままでは回り切れず崖から転落する、荷台に乗っていた私達2人、荷台に乗せていた角材を手に蝗のように飛出し車輪に噛ませ、ジリジリと谷に向かう車を止めた、ブレーキの利かぬことが判ったいたので、普段から積んでいた角材が役立った例、心臓が止まる思いをしたが、号令もかけなくても2人が同時にやるべきことを理解し無言で行動したことは感動もので今でも忘れない。