工場自体の構造も従来とは全く異なり、メーンとする柱は防塵装置、冷暖房装置が作動されて、快適な作業環境を保持するシステムになっていた。正に力ルチャーショックで感服の一語の尽きる思いがした。
コンベヤーシステムは移動する台上に2~3の部品が低速で移動し、次の工程に引渡す単純作業の連続に外ならない。正に時は数なりで時間が数に比例する事の合理化システムそのものである。学問で習った理論が現実の姿で私の目の前を移動している、このことは私の少ない人生経験に感銘深い警鐘を鳴らしてくれ、人生観を急変させた。知らない者の悲しみをたっぷり経験させられた、これも一つの試練と云えよう。自動車部のお陰である。お陰でそれからの私の進み行く道がはっきりした。
フォード工場の存在を知りアメリヵの大ききを改めて認識し直した私は、学校の科目政治経済を専攻して本当に良かったと思い自分の選択が正しかったと悟った。
フォード工場のはずれに日本では未だ見たことのない乗用車があり、400台余りが駐車している光景に出会った。係にあれは何だと聞くと全部工員の自家用車であると説明され又々ひっくり仰天、給与は週五回、土日は教会の礼拝で休みだそうである。
日本とは根本的に違うシステムで流石は大国の経営とこれには平伏の一話に尽きると思いました。
日本は日露戦争の当時よりほんの少ししか進歩していないのに、必ず勝つという精神的戦勝国と自認している、しかし、それは誠に空恐ろしいことだと感じるようになりました。そして、世界の進歩が急速に進み、日本が自分の姿を見失っている事を反省しなければと心配にもなりました。
我々自動車部員は世間と社会には余り認めて貰えない中で、将来を見捉えて、つなぎ服に着替えて車の下に潜り、整備、調整、修理技術に青春を燃やし、活目的達成に取り組んだものです。
しかしながら、終戦後50年で脊髄カリエスを患い、奇跡的に治癒、昭和27年6月故郷釧路市に戻り市役所に挨拶に参上したところ、社会教育の係長が早稲田大学の先輩で、担当の社会教育の一環としての成人学校の教科に自動車科を取り入れたいと思っていた所で、是非自動車科の新設に力を尽くして呉れないかと半は強制的に説得され、私としても、得意な分野であり承諾した。
設立については全て一任と云うことで、流石お役所と感服はしたが、これに甘える訳にはいかない。自動車部時代のポンコツ哲学を駆使して、遂に昭和28年4月1日に釧路市自動車教習所を開所、第一期生が人所した。次いで翌29年4月には市立自動車学校に昇格開校、初代校長に就任した。