昭和12年7月15日、明治神宮前で北海道班と袂を分けあったのが7時30分、東海道を西に急ぐ、箱根、芦ノ湖あたりは大雨に見舞われ、富士川橋付近では濁流で民家が流されていた。いくつかの破損した河川の橋を迂回して夜中の1時30分、岡崎市のGSに辿り着いた。明け方には水口町に、午前11時43分京都三条大橋を通過した。
午後3時には神戸駅前の加藤旅館に到着して一泊疲れを癒し、三日目は姫路を経て、海上輸送で四国に渡り午前十時高松市すみれ旅館に宿泊した。高松日報の先輩に挨拶のため立ち寄る、この事が後で役に立つたのだが、先ず金比羅神社に参詣して、石段を下て来た所で突然巡査に止められ、警察署に連行され不審迅問を受けた。
実は旅館に着いたとき番頭に色々聴かれたが、二昼夜も大雨の中東京から車を飛ばして来たので話は疲れが治ってからと云ったところ、警察から手配中の事件関係者と思われ通報されたからと判明したが、取り調べ室では、学生証を見せても、これは偽造できると信用せず、運転免許証を見せる同じく信用しない。余りにも馬鹿馬鹿しいので私が警察手帳はと聞き返すとこれは別扱いだと云う。次にお前の町には小学校が何校あるかと云うので、多分十五校位かなと答えると、自分の町の学校の数も知らないのでは益々怪しい、疑う余地は十分あると云って評してくれない。こちらはすっかり疲れが戻り元気もなくなった時、ふと頭に浮かんだのが高松日報の先輩、早速署から電話で紹介させ問い合わせして貰い一件落着はしたが、ここでロスタイム二時間半、この証明のための証明書を書いてくれと云ったが言を左右して謝罪の一言もなかった。実に無礼千万だが田舎ではこんな事が通るんだと呆れてしまった一件だった。