部車の老朽はその極に達し、50名余りの部員が交代で使用するためには、代車の買い人れが急務とされていたが、部の会計は底をつき手の打ちようのない破産状態であった。その折大先輩の池内、鈴木両氏の交渉で、鉄道省(今の国鉄:原文ママ)の不用品倉庫にある廃車を格安で払い下げて貰う話が成立し、値段は金180円也で、部にとっては大金であったが、当時の一流の歌手の賛同をえて、千駄ケ谷の日本青年会館を会場に、流行歌大会を開催して、その利益を当てることのした。部員は分に応じて会員券を販売、当日は受付から切符販売、ポスター貼り、ビラ配り、会場では幕引き、照明会場整理などを受け持ち昼夜二回の興業を打った。
出演者はディックミネ「上海帰りのリル」、淡谷のり子「雨よふれふれ」「窓を開ければ」、市丸の日本調「ああそれなのに」がメインでしたから、評判もよく、会計収支は部車購入に何とか問に合いました。我々の努力で目的が完成したのですからそれはもう感激で万歳三唱、涙が出ました。
新しいポンコツ車の余力を引き出すために、又一年ポンコツとつき合うことになったが、学生時代の貴重な試練の一駒として今も忘れられない。