昭和9年(1934年)、当時、わが国では未だ自動車部の認識、存在については、学外学内共に、殆どなく、自動車部に入って、何を学ぶのか、トラックやハイヤーの助手か、それとも運転手にでもなるのか、それ位の価値しか認めなかったから、何だ自動車部か?と疑いの目で見られる事もあった。
僅かに年一回箱根駅伝の伴走で、コーチを乗せた部の車が観衆の前を一瞬走って行く時か、野球早慶戦優勝行進の先導する時が、我が自動車部の存在を見せる、最大のイベントであった。そのほか、誰も知らないだろうが、荒川堤のエイト競艇のモーターボートのエンジンの保守を受け待っていたし、時にはオーケストラ部の楽器、器材の輸送、マイクロバスでの人員、荷物の搬送などもあり、そのためには、常に安全運転を第一に、整備班、ドライプ班、コーチ班が一体となっての、繁華街、峠運転、長距離運転などの習熟が要求された。我々は、いつも、いずれ近い将来に、モータリゼーションの時代がやって来る事を思い、自動車の全てを自動車部で学んだのでした。