1900年(明治33年)7月21日、山口県吉敷郡大道村(現・防府市大道)にて生まれる。父寧二、母美智、五男一女六人兄弟の四男である。上田家は山口県内屈指の旧家であり、江戸時代は酒造業を営み代々庄屋を勤め、農地解放以前は県内有数の大地主であった。父寧二は山口市矢原吉冨簡一の次男である。[1]
県立山口中学(現:山口高校)を経て、1922年(大正11年)4月、慶応義塾大学予科に入学した。英文科にて英文学を学んだ。
1925年2月、英文科在学中に、萩原朔太郎により『日本詩人』新進詩人号に推薦され詩壇に登場した。『日本詩人』は、大正詩壇の中心的存在である文芸雑誌であった。[2] 同年6月、川端康成、横光利一らが創刊した文芸雑誌である『文藝時代』にエッセイを発表した。[3] 同年7月、『三田文藝陣』を創刊し、ポール・モラン(Paul Morand)の「『夜ひらく』(堀口大學訳)論」を発表した。
当時ヨーロッパでは、トリスタン・ツァラ (Tristan Traza)が始めたダダイズムが広がり、フランスでアンドレ・ブルトン (André Breton) がシュルレアリスム運動を始めていた。
上田敏雄は、『文藝耽美』(徳田戯二主宰)に、シュルレアリストのルイ・アラゴン(Louis Aragon)、ポール・エリュアール(Paul Éluard)らの作品を翻訳し紹介した。
1926年(大正15年)4月、西脇順三郎が慶応義塾大学文学部教授に就任した。 西脇順三郎を中心とし、慶応義塾の子弟達、滝口修造、佐藤朔、三浦幸之助、上田保(敏雄の実弟、後に慶應義塾大学英文科教授)により文学サロンが形成された。[4] 上田敏雄は弟と共に文学サロンに参加した。1927年3月、慶応義塾大学英文科を卒業した。
1927年11月、富士原清一、北園克衛、上田保、山田一彦、稲垣足穂らと、『薔薇・魔術・學説』を創刊する。これにより、上田敏雄の『文芸耽美』、富士原清一 の『列』、北園克衛 の『ゲエ・ギム・ギガム・ブルルル・ギムゲム』の三誌が合流した。[3]
1928年1月、日本におけるシュルレアリストとしての最初の宣言である「A NOTE DECEMBER 1927」を、北園克衛、上田保との連名で、『薔薇・魔術・學説』に発表した。上田敏雄が起草した。北園克衛によれば訳文はパリのシュルレアリスト達(ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン及びアシトネアン・アルトオ)に送付した。[3] 同年9月、『詩と詩論』の創刊に参加した。『詩と詩論』は、春山行夫、北川冬彦を中心に、上田敏雄、三好達治ら11名の同人で創刊された。同年11月、『薔薇・魔術・學説』と『馥郁タル火夫ヨ』を合体するかたちで、『衣装の太陽』を創刊した。二誌の合体の橋渡しをしたのは上田敏雄であり、誌名も上田敏雄が命名した。[4]
1929年5月、個人詩集『仮説の運動』(厚生閣書店)を刊行した。『仮説の運動』には、肖像と序文「Parole de l'Auteur」に引き続き、58篇の詩篇および詩論「ポエジィ論」「Explanation」が収録された。出版されると同時に、富士原清一「『仮説の運動』に反射する(『詩と詩論』)」や、滝口修造「仮説の運動」(『文学』)等、大きな反響を呼んだ。[5] 同年6月、評論「私の超現実主義 芸術の方法」を発表した。同年は、『青樹(第一次)』、『FANTASIA』、『Ciné』また『文芸レビュー』などの文芸誌にも詩を発表した。
1930年1月、『Le Surréalisme International』の創刊に参加する。同年6月、評論「日本超現実主義詩論」を発表した。同月、滝口修造が「仮説の運動あるひは形而上学の奇跡 上田敏雄に」を『詩神』に発表した。
1930年9月、広島出身の井上きぬえと結婚した。[1] 1931年、東京外国語学校専修科仏語部(夜間)に入学し、フランス語を学んだ。同級生に同じ山口県出身の中原中也がおり交流があった。[1]
当時日本では、1931年の「満州事変」以来戦時的色彩が深まり、国家主義が台頭した。こうした時代の動向を背景に、学問・思想の自由はなくなった。[3] 1934年、上田敏雄は「自由詩は何処へ行く」を発表し詩壇から去った。芝浦高等専門学校(現:芝浦工業大学)で英語を教えた。
日本は1937年、日中戦争を開始した。1940年の対米英戦開戦は、詩壇の様相を一変させた。1943年には戦争詩集『辻詩集』を「日本文学報告会」が刊行し、多くの詩人が詩を寄稿した。[3] 上田敏雄は、1941年から1945年の第二次世界大戦中、いわゆる戦争詩を発表しなかった。[6]
1945年3月、東京における空襲が激しくなり、郷里の山口に妻子と共に疎開した。3月10日の東京大空襲直前のことであった。[1] 同年4月、山口経済専門学校(現・山口大学経済学部)の英語講師に就任した。同年8月、終戦を迎えそのまま山口に定住した。[1]
1948年、「主は働き給ふ」にて詩の発表を再開した。1949年、西脇順三郎と共に「神について」を『三田文学』に発表した。1950年、「現実と希望」を『詩学』に発表し、詩壇に復帰した。
1951年、山口大学文理学部の英語助教授に就任した。英語や英米文学を講じた。1952年、評論集『現代史の歩み』(宝文館)を刊行した。笹沢美明、北川冬彦との共著であり、上田敏雄は「超現実主義」を執筆した。
1952年10月、『埴輪』を創刊した。12月、『埴輪』を『DEMAIN』に改名、1958年まで発行した。DEMAINはフランス語で明日という意味である。1950年代は、大阪の文芸誌である、『尖塔』、『近代詩猟』などにも詩を発表した。1958年、前衛詩人協会の結成に参加し、北園克衛と『鋭角・黒・ボタン』を発刊した。
1962年、山口大学退官後、宇部工業高等専門学校教授に就任した。学校創立と同時の就任であり、ちなみに校歌は上田敏雄の作詞である。[1]
1964年、百行詩「讃美歌のためのアルゴ」(『THE HIBARIBUE』)を発表した。1964年、『現代山口県詩選』に、「白髪のピストル」を寄稿した。1982年に亡くなるまで毎号同誌に作品を寄稿した。
1966年10月、個人詩集『薔薇物語』(昭文社)を刊行した。「出エジプト記」、「労働者の肖像」、「讃美歌のためのアルゴ」および「薔薇物語」を収録した。
1968年、中野嘉一が編集する『暦象』に評論「私のシュルレアリスム詩観-中野嘉一への書信から」が掲載され、亡くなるまで毎号同誌に作品を寄稿することになった。〔7〕
1971年、宇部工業高等専門学校教授を退官した。
1973年8月から1978年まで、「NEO-DADA MANIFESTO」を副題とした作品を『暦象』に寄稿し続け、独自のネオ・ダダイズムを提唱した。
1980年6月、日本現代詩人会が尊敬する先達詩人に贈る、先達詩人顕彰を受けた。上京し、「今、希望とは?-詩人よ人類社会に干渉する《主》思想を開発し給え-」を発表した。同年12月、「この盃を飲め(神の表徴主義詩論I)」を、翌年4月、「獅子ヨ 世界ヲ 開ケ!(神の表徴主義詩論II)」を発表した。
1981年9月、『「キリスト・リアリズム」の演出-「啓示・リアリティ」の問題-』を発表し、同年10月、『「存在を問う」とは?』を発表した。
1982年3月30日、老衰により、山口県防府市大道の自宅にて逝去。享年81歳。
脚注
〔1〕みよ・あきみ、2012、上田敏雄実子から聴取
〔2〕市古貞次編者代表、1990、『増訂版 日本文学全史 5 近代』、學燈社
〔3〕市古貞次編者代表、1990、『増訂版 日本文学全史 6 現代』、學燈社
〔4〕鶴岡善久、2003、『モダニズム詩集I』、思潮社
〔5〕真鍋正宏、2008、[上田敏雄](『現代詩大事典』)、三省堂
〔6〕鶴岡善久、1982、「上田敏雄の戦中戦後」(『暦象』98集)、暦象社
〔7〕中野嘉一、1982、「上田敏雄と暦象」(『暦象』98集)、暦象社