足を踏み出せば、その爪先が見えないほどに深く白い闇が視界を埋め尽くしていた。
重い身体を引き摺り、彼女はその中をずるずると進む。
息を吸っても吸っても、全く肺が膨らまない。
これは敗走だ。
身体の全てが痛い。
腕も脚も顔も、内臓も。
鈍い頭痛がする。
殴られたからなのか、魔法の影響なのか。
分からない。
考える力が失われていく。
自分を構成する物が零れていくのが、怖かった。
「……」
息が詰まる。
巨大な木が倒れこみ、彼女の行く手を塞いでいた。
いつもならば、乗り越えるなり魔法で切るなりいくらでもやりようがあった。
しかし、今は何もできない。
――ここまでか。
そう思うともう一歩も踏み出せなかった。
「ははっ」
乾いた笑いと共に、その巨木を背にして座り込む。
視界が傾き、地に付く。
眠ってしまおう。
どうせ、もう二度と目覚めないのだから。
白い闇に身を委ねるのは、案外悪くないと思えた。
だと思っていたのに。
「……?」
彼女の目は再び開いた。
「は……?」
橙の光が開け放たれた窓から注いでいる。
木造の質素な部屋であった。
背の低い本棚と机だけの小さな空間。
壁際に設置された柔らかなベッドに寝かされた身体を起こす。
「! 傷が……」
ぼろぼろだった身体は、すっかり綺麗になっていた。
傷跡も見えない。
「……」
これは、魔法か何かが作用したはずだ。
そう思いながら、彼女は立ち上がる。
少し眩暈を感じたが、それは疲労か栄養不足か。
頭を抑える。
「……?」
その時、机に置かれた物に気づいた。
黒い布。
そこにはメモも添えられていたが、読めたのはたった一言「着ろ」ということだけだ。
まだこの地域の文字に慣れない。
布を広げると、なるほどそれはこの地の「社」に勤める人間が纏う服であった。
――これを着ろということは。
下着の上に直接羽織り、外に続くだろう扉を開いた。
「んっ」
眩しい。
空は茜に染まり、ひんやりとした風が流れている。
目の前に広がるのは整えられた庭園で、そこではせっせと紺の衣を纏った女が作業をしていた。
「あっ」
その女性がこちらに気づき、小走りで寄ってくる。
思わず身を緊張させたが、その笑顔を見ていると毒も抜けた。
「お加減如何ですか」
「……」
言葉は十分に彼女に伝わった。
だが、返事をするのに、少し戸惑う。
「はい」
素っ気無い答えではあったが、女はにっこりと好意を表した。
「今助祭様をお呼びいたしますね」
ぱたぱたと走っていく女性を見送る。
「……」
静かな場所だった。
あの霧の森に迷い込む前とは大違いだ。
庭園に足を踏み入れる。
裸足であったが構いやしなかった。
「花……」
故郷では見たことの無い花。
少し摘むと、芳しい香りがする。
「花を見る余裕なんてなかったから……」
花瓶に飾るよりも、地に咲いていた方が美しいだろう。
そんな花を暫く眺めた。
「助祭様ー! 助祭様ー!? どちらに行かれたのですかー!」
どうやら探している人物が見つからないらしい。
彼女は庭園の中を進む。
小さな庭園だ。それでも美しく整えてある。
上を向けば、この地方の「社」の屋根が夕闇に沈もうとしていた。
「女神教会」
まさか、そんなところに連れてこられるとは。
――いつの間にか、先程の女性はいなくなっていた。
助祭とやらを探しに行ったのだろう。
このまま逃げてしまおうか――?
いや、どうせすぐに捕まってしまうだろう。
思いなおし、花壇の縁に座った。
「……」
手を握る。
魔法を使うだけの体力は戻っていない。
魔導石も殆ど捨ててしまった。
剣を握るだけの力も無いだろう。
それだけ痛めつけられてしまった。
今は少しでも体力を取り戻さないと――
「助祭様ったら、っもう!」
そんな声に顔を上げる。
「……!」
先程の女性に引っ張られるようにして現れた男に、彼女は目を丸くした。
「助祭様」と呼称されるのだから、相応の威厳のある人物かと思っていた。
しかし、現れたのはまだまだ若い、言ってしまえば平凡な男であった。
「い、痛い! 引っ張らないでください、モニア」
「助祭様が仰ったのですよ。あの東方の女性が目覚めたら呼ぶようにと。それなのに、どうして執務室にいないんですか!」
「い、いえ、子供達がクッキーをねだるもので、台所に……」
「仕事熱心なのは結構ですがっ! 少しは座っていてくださいっ!」
何やら怒られているようだ。
早口なので正確に聞き取れたかどうかは自信がなかったが。
「では、わたくしは夕飯を一食多く作ってもらうようお伝えしに行きます」
「ありがとう、モニア」
女性が慌しく去ったあと、助祭司はふうっと溜息をついた。
「いやはや……お恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
「……」
彼女はその人物を頭の上から足元までをじろじろと見る。
女神教会。女神信仰という、この地方で力を持つ宗教を掲げる存在だ。
その助祭となれば、かなり強い"力"を持つのだろう。
今ここでやりあえば、ただではすまない。
「身体は如何ですか?」
「……」
小さく頷くと「良かった」と男ははにかんだ。
「……」
しかし彼女は視線を和らげない。
それをどう思ったのか、「ああっ」と大袈裟に慌て始めた。
「そうですね、言葉が難しいですか?」
「大丈夫……分かる。貴方の言葉は聞き取りやすい」
「良かった」
彼は、では何が気に入らないのかと少し悩む素振りを見せる。
「あ、そうですね。僕が何者か、分からないと不安ですよね」
と、一人で頷いた。
「ここの助祭でカジといいます」
「カジ」
懐かしい響きだ。
彼女の故郷、アメノチの発音に近い。
「私は、ナギ。冒険者」
正直に名乗った。偽名に意味は無い。
「ナギさんですね」
カジと名乗った聖職者は、それ以上彼女のことを尋ねようとはしなかった。
ただ笑って「何も出来ませんが、どうか心安らかに」と言うだけだ。
傷だらけになっていた理由も、東方から来た理由も、何一つ聞こうとはしなかった。
助けた恩を押し付けるようなこともなかった。
ただ「夜は冷えます。食事はあの部屋にお持ちしますね」と笑っただけだった。
「ねぇ」
彼の去り際に声をかけてみる。
でも何を言いたいわけでもない。
「え? ……あ、タオルですね。すぐ持ってきますよ」
気の回る男だった。
「ありがとう」
と言うと、彼は微笑んで「お気になさらず」と礼をした。
差し出された盆の上には、パンと芋のスープが乗っていた。
「水はこちらに」
そう水差しを持ってきたカジからは、甘い匂いがした。
「……お菓子?」
「ああ、ばれましたか」
彼は懐から袋に入ったクッキーを取り出してナギに渡した。
「孤児院を併設しておりまして、そこの子供達がどうしてもというので」
「貴方が?」
「ええ。よかったらこれもどうぞ」
そう言うと、彼は椅子を引き寄せて、彼女と同じ卓に着いた。
「……」
「あ、僕を気にせず食べてください」
「一人でも食べられるわ」
「分かっていますよ」
彼はくすくすと笑う。
「ただ、貴方の身体を心配しているんですよ。僕には助けた者の義務がある」
「……神主みたいなことを言うのね」
「え? かん、……ん?」
「神主。神仕える者のこと」
「ああ。僕は聖職者ですからね。神に仕えていますよ」
そう言って、彼は本を開いた。
説法でも始めるのかと思いきや、ただ読み始めただけで特に何も言わない。
「……」
おとなしく食事をとることにした。
しかし――
「……」
手を伸ばし、躊躇い、手を引っ込め。
そんなことを、何回か繰り返した。
「分かります。貴女が受けた仕打ち、想像がつきますから」
突然の声に、ナギはびくりと肩を震わせる。
「食べられないなら、どうぞそのままに。強制するつもりなんて無いんですから」
「……私は」
俯く。
「いいんですよ、本当に気にしなくて」
ナギは首を横に振った。
カジの目を見ないままに。
「貴方は、女神教会の聖職者」
「……ええ。間違いありません」
彼は胸元の首飾りを握った。
二重の輪の中に魔導石の嵌ったそれが、《女神信仰》のシンボルであることは知っていた。
この地域に居れば嫌でも思い知るし、それを掲げて皆彼女を恐れた。
「信仰の下に生まれ、教会で育ち、今はこの教会の司祭の代理を務める、疑いようもなく神の僕です」
「貴方も世を乱す魔女を信じるのね」
カジは目を細めた。
「……ええ。いるんでしょう。この世界のどこかには」
「目の前にいるわ」
「はて」
そこで何故か彼は笑った。
「僕の目の前には、東方から来ただろう、この土地に不慣れなお客様しかいませんが」
「本気でそんなことを?」
「嘘だと思うんでしたら」
クッキーを一枚、カジは口に含んだ。
「あっ」
止める間もなく。
しばらくもぐもぐと咀嚼していたが、そのうち彼は肩を竦めた。
「僕にはこれくらいしか潔白を証明する手立てが有りません」
「……貴方、お人よしね」
「よく言われます」
ナギは漸く食事に手をつけた。
スープは冷めていたが美味しかった。
パンを千切りながら、ふとカジを見ると、彼は静かに本を読んでいる。
しかし、気配はしっかり感じ取っているようで、「何かありましたか?」とすぐに顔を上げた。
「美味しいわ」
「ありがとうございます。あの子達も喜びます」
パンは香ばしく焼かれていて美味しかった。
「……」
さて、クッキー。
それはマーブル模様のごくごく単純な物だった。
香辛料がきいているのか、いい匂いがする。
「ん」
甘さ控えめで美味しかった。
「お気に召してよかった」
彼は静かに本を閉じ、「それでは、ゆっくりお休みください」と立ち上がった。
「でも」
「傷は治ったでしょうが、丸一日寝ていたんですよ。身体に何かあったら大変ですから」
ナギは身を縮めた。
「……感謝するわ」
「いいえ。全ては神の御心のままに。それが人の生きる定めなのですから」
それは不思議な考えだった。
でも、彼の口から出ると、それはあまりに自然な言葉に聞こえる。
「おやすみなさい。良い夢を」
その背中を、「おやすみなさい」と見送った。
「狐の子」
ナギははっと顔を上げた。
――懐かしい言葉だった。
「狐の子」
また声が飛ぶ。
悪意と畏怖とを伴って。
ナギはぐるりと辺りを見回した。
西方では滅多に見かけない、竹の林の中。
黒い影が彼女を取り囲み、「狐の子」と呼んでいる。
――ああ、夢か。
ナギは目を細めて、「退きなさい」と腕を払った。
影は悲鳴に似た高い音を上げながら、何処かへと去った。
――狐の子供だといわれて幼少期を過ごした。
ナギは自分の手を見る。
幼い手。
ここは思い出の中なのだと、正しく理解する。
――狐だと云われる父親の顔は見たことが無い。はずだ。
一度だけ、九つの尾を持つ金色の狐が彼女の前に現れた事があった。
ただ、それが父親かどうかは分からず仕舞い。
最も、彼女自身自分が狐の子であるとは信じていなかったのだが。
静かになった林の中を、思い出に沿って歩き出す。
――母親は神社の巫女だった。狐の妻として恐れられていたが、神社を健気に守っていた。
「お母さん」
闇に呼びかける。
返事はない。
「お母さん」
足元を見れば、母の着物が落ちていた。
――母親は、ある日、林の中で死んでいた。
衰弱死だった。
神に身を捧げたのだと、村人は噂した。
「狐の子」
また、声。
「お前が母親を呪い殺した」
「不吉な子め」
強い悪意。
守り手を失った神社は、既に彼女の居場所ではなくなっていた。
「狐の子」
「うるさい」
ナギは腕を振り上げた。
また、悲鳴。
――そうだ、こうして私は村を出た。
ナギの中の冷静さが、回想を始める。
――幼き身ながら、彼女の魔法の才能は抜きん出ていた。
どんな小さな魔導石からでも強大な力を引き出すことができた。
彼女は自分に敵意を向けるものに容赦がなかった。
だから、あの村は――その半分を炎で失った。
――ああ、その時だ。自分の力が怖くなったのは。
ナギは思い出の中を走る。
『金色の狐となって』。
誰も追いかけては来ないというのに、一刻も早く逃げなければと焦っていた。
「誰か」
――誰か?
その続きが、今のナギには分からない。
何を求めていたのか、思い出せない。
「誰も、私を、知らないところへ」
思い直す。
ナギを誰も知らない地で、自分で自分の地位を手に入れたい。
その思いが、孤独な彼女を西方へと走らせた。
「でも」
彼女はふと、立ち止まる。
剣が鞘から抜かれる音と、感じた事のない異質な魔力が彼女を取り囲んでいた。
女神教会。黒杖同盟。
この西方で地位を持つものが彼女を睨んでいる。
「魔女め」
声が飛ぶ。
悪意と畏怖とを伴って。
――ああ。そうだ、何処に居たって、同じ事。
また、彼女は自分の力を振るうしかなかった。
自分を守る為に。
彼女は"東方から来た魔女"とされ、追われ、剣と魔法で追い詰められた。
あの霧立ち込める森に。
身体にも心にも傷を負いながら、それでもまだ、生きている。
「滑稽じゃない」
嗤う。
――夢にまで見て、こんなに、辛い。
「こんなことなら」
――死んだほうが、楽ではないか。
彼女は狐の身体を丸めて死を待つ。
この身は既に、終わりを欲している――
「そんな顔しないで」
柔らかい声に、顔を上げる。
見上げれば、そこにはあの助祭の姿があった。
「……滑稽じゃない」
鼻先を向ける。
「僕は、敵じゃないですよ」
助祭はナギの額を撫でた。
――ああ、これは。
自分が助祭に拾われた時のことなのだと、なんとなく理解した。
「大丈夫。……傷つけたり、しませんから」
助祭は、笑った。
次の朝目覚めると、外から忙しそうな声が聞こえてきた。
どうやらミサと呼ばれる行事があるらしく、ナギは興味を覚えて外に出た。
「ああっ、東方のお客様」
扉から出るなり紺色の服を着た女性とぶつかりそうになる。
「慌しくて申し訳有りません」
「いえ、いいの」
朝食はもう少し後で、と言い残して、彼女は足音を大きくして何処かへと駈けていった。
「……」
人の流れを注意深く観察する。
「やっぱり、あれか」
白い屋根の建物。
自然と足が向いた。
綺麗な音が流れていたが、琴でも笛でもないその音がいったい何なのかは分からなかった。
二重の輪が掲げられた大きな扉を、音を立てないように開ける。
中には荘厳な空気と共に、少年少女達と数人の聖職者らしき大人が椅子に座っていた。
皆一様に俯いて、二重の輪を握り締めている。
一番奥にはカジがいて、何か難しいことを話していた。
だが、それ以上にナギの意識をひきつけたのは、座っている子供達だった。
そこに宿る魔力に彼女は敏感に反応する。
何か。
悪いものではないが、聖なるものではないものがここに集まってる気がした。
その違和感を、彼女はすぐに知った。
「……さあ、皆さん顔を上げてください」
カジが一声かけると、少年少女の明るい顔が見えた。
しかし、その額には角があったり、目に紋様が浮かんでいたり、頬に鱗が生えていたりと、『普通』ではなかった。
異形だ。
この世界は昔、もっと大きかったらしい。
そこでは『亜人』が人間と世界の覇権を争っていた。
しかし亜人達は人間に負け、今は人間達の血の中にひっそりと潜むだけになった。
そんな過去の宿敵の影を、人間は未だに恐れている。
――この子達は、ナギと同じだ。
「さ、皆さん今日はお休みにしますからゆっくり休んでくださいね」
「はーい!」
口々に子供達は返事をし、外に飛び出していった。
「それでは助祭様、私達も――」
「ええ。本当に、すみません」
「いいえ。祭司様と貴方様のおかげです」
大人達も去った後、カジはナギに一礼した。
「……」
彼女は、ステンドグラスから落ちる光に向かって歩を進めた。
助祭は何も言わず、女神像の前に膝を折った。
女神ノッテ。その神聖さをナギは感じることが出来ない。
彼女は近くの椅子に座り、カジの後ろ姿を見つめる。
長い間、そうしていた。
「……お守りください。どうか、どうか」
長い静寂の後、カジは思わずと言った様子で口にし、立ち上がった。
「!」
そしてナギの存在に驚き、「い、今までずっとここに?」と上ずった声で尋ねた。
「ええ」
「……静かでした。いつの日よりも」
「そう」
彼女は首を傾げる。
「貴方、本当にお人よし」
「え?」
「異形の子、ね?」
「……」
カジは目を伏せた。
「多くは司祭の下に届けられた子達です」
「貴方の上司?」
「そうです」
二人は連れ立って外に出た。
庭園で追いかけっこでもしているのだろう、子供たちが走っている。
「カーレル司祭は、女神教会の監察官の目を盗んで彼らを育てています。僕は、賛同しているに過ぎません」
「……」
「まあ。僕も、そうなんですけれど」
「貴方も?」
「ええ。僕の身体に何かあったわけではないですが……ここで育ったのは、彼らと同じですよ」
「……」
思わず、その手に触れる。
彼はびくりと肩を震わせたが、抵抗はしなかった。
「私は」
「はい」
「貴方の雰囲気……嫌いじゃない」
「え? ……え?」
「あの子達も、同じ。嫌いじゃないわ」
そう告げると、カジは笑って「そんな風に言っていただけると、救われます」と言った。
「それにしても……」
ナギは自分より大きな手を握った。
「綺麗な手じゃないわ」
「え?」
「……貴方、もしかして」
しかし、その続きは子供達の声に遮られた。
「あー! 助祭様があの女の人連れてる!」
「ほんとだ! やっぱりカノジョだったんだ!」
「なんっ――」
ぱっと手が離れる。
「何を言うんですか、いきなり!」
「だって、ほんとのことだろ?」
「い、いい加減になさいエンデス! この方は東方からのお客様で――」
「そんな美人さん、助祭司様には似合わないぞー!」
「マルチェロ!」
やーい等と言いながら、少年達は走っていく。
「まったく。……彼らは僕が貴女を連れてきてたのを見ていましたからね」
「そう」
子供というのはどこも似たようなものだ。
「気を悪くしないでください」
「何でそんなことを?」
「……」
カジは首を横に振る。
「何でもありません」
食事にしましょうと、彼は肩を竦めた。
出された食事は昨晩と同じく、ごくごく簡素なものであった。
カジもまた同じように、ナギの部屋で時を過ごす。
「……」
ナギは、聖書に視線を落とすその聖職者の横顔を眺める。
昨日とは違い、彼はナギの視線に気づく事は無かった。
乾いたページが捲られる音もしない。
彼はただ、文字を見ているだけだ――
「カジ」
呼びかけると、彼ははっとしたように視線を上げた。
「は、はい……どうかしましたか?」
「どうかしてるのは、貴方」
言葉を捜した。
「神経が過敏になってる?」
「……え? えーっと……」
「……何て、伝えればいいの」
ナギは唇を噛む。
「言葉が……。そう、だから……」
「……」
静寂が横たわった。
カジは、静かに彼女の言葉を待っている。
彼の表情は、見透かされるのを恐れているようにも見えた。
「……震えているの?」
「っ……」
カジは彼女から目を逸らしたが、「そうですね」とやはり静かに肯定した。
「それが正しいんでしょう」
聖書を閉じ、カジは手で顔を覆った。
ナギの視線から逃げるように。
「……違和感がある。急いでいるのね、カジ」
「そこまで、分かりますか」
ナギは頷き、「魔女だから」と目を細める。
「何があるの?」
「……」
カジは長い間の後、ナギを真っ直ぐに見つめた。
彼の赤い瞳が、彼女の青い瞳を射抜く。
「明日にでも、ここに街の女神教会の人間がやってきます。恐らく、《霊石騎士団》に名を連ねるものが」
「なっ」
ナギの身が緊張する。
「そんなことになったら」
「はい。異形の子達も、僕達も、異端ですから。おそらく、良くないことになるでしょう」
「……私が、ここに来たせい?」
「まさか」
カジは首を横に振った。
「これは、我が父であり、上司であり、司祭であるカーレルの遺志ですから」
「……遺志」
「あなたを助けた日です。カーレル司祭が街の教会で死んだということを知ったのは」
カジは瞼をきゅっと強く閉じた。
怒りを抑えるように。
「僕はその話を聞いて、馬を走らせた。そして――時間が残されていないことを知ったんです」
「……」
「あなたと会ったのは、まったくの偶然です」
「偶然」
ナギはただ繰り返す。
「ただの会議だと言っていたのに――カーレル司祭は、殺されてしまった。そして、教会は動き始めている。ここを狙って」
ナギが何事か言う前に「ですから、僕は」とカジは言い放つ。
「貴女に――冒険者だという、貴女に、依頼を出したい」
「い、依頼……?」
「あの子達を、修道女達と一緒にヴェダという街まで、送っていってください」
カジは深く、頭を垂れた。
「ま、待って。そんな、急に」
「腕の立つ冒険者なのでしょう、ナギさんは。なら」
「そうじゃない!」
思わず声を荒げた。
「どういうことなの? 順に説明して、私に分かるように、易しく」
「……はい」
カジは壁際に丸めて立てかけられていた羊皮紙の束から一本を取り出し、机に広げた。
精巧な地図。
「ここが、僕達の居る場所イルムガルデ――こちらが、問題の街、ルービーニ。馬を急がせれば二日で往復が可能です」
「……」
なるほど、とナギは目を細める。
思わず、ナギは自分がどの辺りで力尽きたかを計算した。
ルービーニなる街は東にある。対して彼女は南下を続けてきた。
「ヴェダは、ここです」カジの指が、西に滑る。「ここなら、また少しの間姿を隠すことが出来る」
「……」
さほど遠い距離ではないが、きっと子供達の足を考えればこの辺りが妥当なのだろう。
「すぐに次の場所が必要になるわよ」
「手引きは済ませてありますから」
「そう……」
ナギはざっと考える。
子供の数、修道女の数、自分の体の回復――安請け合いは出来ない。
「……いいわ。貴方に、報酬が払えるなら」
「修道女達に持たせます。無事に着いたら受け取ってください」
「分かった」
ナギは頷く。
「受ける」
「っ! ありがとう、ございます……」
カジは立ち上がり「修道女達と話してきます。本当に、ありがとうございます」とやはり深く礼をし、立ち去った。
止める間もなく。
「……」
聞きたい事がいくつもあったのに。
しかし、ここに長居出来ないとなれば、ナギにも準備がある。
敗走の際に持ち物のほとんどは捨ててしまった。
だが――
「準備を怠る冒険者は、死ぬ」
部屋に置かれた血まみれの荷物袋を漁った。
夜。
半分の月に、ナギは手を翳す。
「……ん」
一晩で力の回復を肌で感じられた。
この地の清らかな空気が、彼女の回復を手助けしてるとしか思えなかった。
ナギは小屋の屋上で月光浴をする。
不思議と、この地の月は蒼く見えた。
故郷の地では金に見えていたというのに。
「……」
――そろそろ出発の時間だ。
ナギは「社」を見る。
闇に紛れて逃げる。
明日になれば、女神教会の者がやってきてしまう。だから、その前に。
――少しでも魔力を。
冷たい空気が、彼女の肺を満たす。
「っ!」
微かな物音に顔を上げた。
闇の中、動くモノがある。
「カジ……?」
彼は音を発てないようにしながら、森の中へと消えた。
―― 一体何の用があって?
「ナギ様!」
ナギは声につられて下を向いた。
そこにはモニアと呼ばれた修道女が「ああっ、そんなところにいらっしゃると落ちてしまいますよ!」とはらはらとナギを見上げていた。
「大丈夫よ。……それで?」
「こちらの準備は整いました。ので、そろそろ出発しようかと思いまして」
「分かった」
ナギは懐の魔導石から風の力を引き出し、屋根からふわりと飛び降りた。
「……カジは? 先ほど、何処かへ行ったようだったけれど」
「え? ああ、助祭様は、見回りにと」
「そう。早く戻るといいわね」
「……あの?」
「ん?」
モニアの顔を見て、悟る。
会話が噛み合っていない。
「待って」言葉を整理する。「出発って、子供達と、貴方と、私と――」
「その通りです」
「カジ、は」
「……助祭様は、残ります。お聞きになられていなかったのですか?」
「なんっ」
言葉に詰まる。
「そんな、何故」
――聞き返さなくても分かる。ただ、先に言葉が出てしまっただけだ。
「……っ!」
刹那、背筋が凍る。
強い魔力が、風に乗って彼女の身を刺した。
たまらず、ナギはその方向に身を翻す。
「ナギ様!」
「直ぐ戻る、いつでも行けるようにして!」
走る。
走る。
魔力の強くなる方角へと。
強烈な力だ、方向を間違えようもない。
「……!」
その先、月の影、佇んでいたのはカジ。
思わず息を止める。
彼は剣を持っていた。
表情は闇に隠れ、ただ鋭い呼吸音が彼の全てを物語っていた。
――やっぱり。
ナギは確信に目を細める。
彼の手は、戦う者のそれであった。
モンスターや、時には人間相手に剣を振るってきたのだろうと予測させるには十分な手。
誰にも知られないように、自らの求める平和のために汚された手。
「カジ」
たまらず、呟くように呼びかけた。
か細い声であったはずなのに、彼は勢いよくナギを振り返る。
「……ナギ、さん」
「血の臭いがするわ」
「くっ……」
カジは足を草むらに摺った。
月下に黒く、それは映る。
「見られたくなかったのですが……」
暗闇に転がるものを凝視する。
皮鎧を着た何者かが、真っ二つに斬られて血溜まりに沈んでいた。
「斥候ね」
「そうでしょうね。時間がない」
カジは未だ魔力を身に纏いながら、ナギを見る。
「さあ、行ってください。この闇を使うしか、逃げる道はありません」
「貴方も」
「……僕は、残ります」
「どうして」
ナギは駆け寄り、カジの手を取る。
「何故」
「うん?」
「何故、そんなことを」
「……」
カジは答えなかった。
「馬鹿な事を、考えているのね」
カジはきょとんとしてから、「そうですね」と寂しそうに笑った。
「それが、僕の責務ですから。僕まで姿を消したら、子供達が追われてしまう」
「だからって」
「ナギさん」
助祭はナギの言葉を遮り、笑った。
「巻き込んでごめんなさい。でも、貴方が僕を心配する必要なんてないんですから」
「……」
「それとも、こう言った方がいいですか――」
彼は赤い瞳を鋭くして、彼女に言い放つ。
「"魔女"の力は欲しくない」
「……っ!?」
「約束だけ守っていればいいんだ、貴女は。他の事に、首を突っ込まれても困る」
「……!」
ナギは唇を噛む。
カジは何も言わない。
――何か言って欲しかったんだろうか。
逃げ出して、ナギは一人思う。
――何が私をそんな思いにさせるのだろう。
静寂が耳に痛かった。
――他人なのに。
そして、それを自分で否定する。
――命の恩人だ。
その命を救おうとする気持ちは、どこも変ではない、はずだ。
――もう一度話そう。
そう足を戻しかけた時、彼女の《核》に"力"の気配が触れた。
「……!」
息を呑む。
――恐らく明日にでも。
「そう言ってたじゃない……!」
まだ距離は遠いが、確実に近づいてくる巨大な人の群れ。
「くっ……」
一瞬の迷いの後、子供達の方へ急ぐ。
「社」には不安そうな子供達と修道女達が身を寄せ合っていた。
「ナギ様!」
「出るわよ」
意識を外に向ける。
幸い、脱出する方向には人の気配を感じない。
群れが向かう方向にいるのは、カジだ。
「……」
――分かっていて、『そこ』に立ったのだろう。
ナギは俯き、奥歯を噛む。
今は――
「さあ」
思いを払って、子供達を導く。
それが、出来る事なのだから。
足早に暗い森を進む。
子供達の怯えが、後ろを行くナギにははっきりと分かった。
「……怖いの?」
近くの少女に声をかけると、彼女は『複眼』をぱちぱちと瞬かせて「怖い」と震えた。
「……うん」
ナギは懐から小さな魔導石を取り出す。
「さて、これは何だ?」
「え?」
ナギはそれにふっと息を吹きかけた。
石から微かな魔力の放出があり、一瞬の後、一匹の青い狐に変化した。
「わぁっ!」
少女は驚いて、手をパタパタと動かす。
「もう一匹」
次に出たのは赤い狐だった。
「さ、あの狐を追いかけて」
「わあい!」
少女がぱっと駆け出すと、周りの子供達もつられて狐を追い始めた。
何の力も持たない小さな精霊を封じていたのだが、思わぬところで役に立った。
これで少しは子供達の気が紛れるだろう。
「すみません、ナギ様……本当は我々が子供達を慰めなければならないのに」
「気にしないで」
ナギはぷらぷらと手を振った。
――本当に気を紛らわせたいのは自分なのだと言い出せなかった。
後ろが気になって仕方がなかった。
強い魔力が飛び交って、ナギの精神を穢す。
魔酔いに近い、不快な浮遊感。
彼女の《核》は敏感に魔力を感じ取り、カジらしき力を識別することが出来た。
まだ生きている。それを何度も繰り返す。
やがて、朝日が昇るのと同時に感知できる距離を抜けてしまい、ナギの精神はざわめいた。
――あの人はどうなってしまったのか。
「おねーちゃん、大丈夫?」
「え?」
ナギはいつの間にか、子供達に囲まれていた。
彼らは皆一様にナギを心配する。
「疲れちゃった?」
「護衛って大変だって助祭様が言ってたよ」
「休む?」
「……いいの、大丈夫よ」
焦りが伝わってしまった事を恥じた。
「さあ」
前に進むように伝える。
「おねーちゃん、助祭様を心配してるんだね」
「……」
ナギは目を見開く。
――そこまで、見抜かれてしまうとは。
「そうでしょ?」
「そうね」
だから、素直に告げる。
「やっぱりカノジョなんだ!」
「……それはよく分からないけれど」
「助祭様のところ、行く? 行きたい?」
「……ええ。行きたい」
「だよね。モニアねーちゃん!」
少年達は修道女を呼びつける。
「もういいよね?」
「いいよね?」
その瞳は、誰も彼もきらきらとしていて。
「……はい」
誰も抗うことが出来そうになかった。
修道女は荷物からナギに、少なくない金額の硬貨を渡す。
「報酬です。ありがとうございます」
「受け取れない」
「えっ」
「だって、送り届けたわけじゃない。それに、私が契約を一方的に破棄した。こちらから払わなければいけないくらい」
ナギは二匹の狐に命じる。
「あの子達が最後まで送るわ。絶対に、守る」
「ありがとう、おねーちゃん!」
子供達は無邪気に笑う。
それが、ナギに戻る力をくれた。
「元気で」
それだけ告げて、今来た道を走る。
風の力を行使してまで。
森は静かだった。
誰も居ない。
分かっていながら、ナギは走る。
走って、走って。
「……ああ、もうっ!」
苛立ち、己の《核》から魔法を引き出した。
一瞬にして彼女の姿は九本の尾を持つ金色の姿へと変化する。
――亜人を祖とする力。
彼女の血のどこかに旧き血が入っているのは明白だった。
しかし、そんな物今は関係がない。
風の力を行使しながら、彼女は走る。
カジの魔力はもう感じることは出来なかった。
その事実に焦るが、諦めることは出来ない。
むせ返るほどの血の臭いを越えて、昨晩カジが居たはずの場所にたどり着く。
「うあ……」
思わず声が漏れた。
森をべったりと汚す、赤。
散らばった矛や槌、折れた矢。
さながら戦場のようであった。
草木は赤く塗りつぶされ、一歩踏み出せばぬるりと足が滑る。
生々しい臭いが彼女の精神を逆撫でる。
「カジ……」
しかしそこには誰も居ない。
血は流されているが、遺体は何処にもない。
もちろん、カジの姿もなかった。
おそらく、連れて行かれたのだろうと予測できた。
――奴らは、見せしめが好きだ。
「……あ」
ナギは血の池の中から、一本の剣を見つけた。
片手では持てぬほどの大剣。
昨晩カジが振るっていた、青銀の両手剣。
「……」
ナギは東の空を仰ぐ。
ふと意識が浮上した時、そこはもう街の大聖堂だった。
蝋燭の明かりが、カジを取り囲む大勢の人間に影を作っている。
「話が出来るか?」
目の前の高い席に座る者から声がかかった。
――どうやら意識を封じられていたらしい。
記憶を探っても、数人斬り伏せた後からが曖昧になっていた。
長く歩いたようにも馬に乗せられたような気もするし、痛めつけられたような気もするが今は特に怪我は無かった。
「はい」
目は合わせない。
「ここに呼ばれた理由は分かるな」
――連れて来られたの間違いだろう。
そう思ったが静かに「はい」と答えるに留めた。
「カーレルの穢れた遺志を継ぎ、異形の者を保護した。間違いないな」
「はい」
淡々と答える。
「それが異端の行いだということ、知らないわけが無かろう?」
「はい」
「お前は《霊石騎士団》に身を置く立場だろう。罪の意識はなかったのか?」
「はい」
「何か申し開きはあるか」
「ありません」
そこで初めて、顔を上げる。
赤い瞳に、髭の蓄えた「らしい」人物が見えた。
「……」
人々の小さな声が波のように聞こえる。
カジがあまりにも冷静だからか。
「静かにせよ。神の御前だぞ」
その声は明らかに苛立ちを孕んでいた。
「話は終わりだ。持って参れ」
二人の使徒によって恭しく運ばれてきたのは、人差し指ほどの大きさの瓶であった。
聖水の瓶ではない。形状は香水の瓶のように艶やかなものだった。
「お前の行いが正しいかどうかは神が裁いてくれよう。異存は無いな」
「はい」
その中身が何であるか、カジは正しく理解していた。
「女神ノッテの采配を」
瓶を手に取り、蓋を開ける。
やたら甘い匂いがした。
「……」
深く息を吸い、飲む。
冷たい液体が喉を滑り落ちていくだけで、何の味もしなかった。
「……」
思わず、喉に手を当てる。
「神の審判を待つことにしよう」
そして、影達が動き出し、大聖堂から消えてゆく。
その数の多さにカジは思わず眉を顰めた。
――これでは証人ではなく、ただ野次馬だ。
「お前も下がれ。神の許しを得られることを願っているよ」
「はい」
両脇を屈強な聖騎士に挟まれた状態で案内されたのは、やたら豪華な部屋だった。
階段を長く歩いたことを考えると、かなり高いところにある部屋らしい。
「それではまた朝にお伺いいたします」
扉が閉められ、鍵の掛かる重い音がした。
「……会うつもりなんてないんでしょうがね」
一人呟き、服を改める。
着ていた物が違うのはともかくとして、二重の輪まで取られていることに憤りを感じた。
大きく開かれた窓に目を向けると、日が沈みそうな美しい空の下に街が広がっていた。
「……ふう」
思わず声が漏れる。
あの日から何日経ったのかも分からない。
――恐らくカーレル司祭もこの部屋に通されたのだろう。
そう思いながら、天蓋のついた優雅なベッドに横になった。
今のこの状況を悲観する気になれない。
女神が与えた運命というのなら、それもいいだろう。
願うことは、あの子供達がこれから先、少しでも長く生きられることだ。
――もう眠ってしまおうか。
しかし微かな気配を感じて、カジははっと身を起こした。
「いい動きね。やっぱり、貴方はそういう人、か」
彼女は、窓の内側に居た。
「ナギ、さ……!? な、なん――いやどうして、ここに」
「"魔女"だから。こんなの、簡単」
彼女がふっと指輪の嵌った指を上げると、窓は見えない手に導かれるように開閉を繰り返した。
そのあまりの手際のよさに、「あ、はい」と答えるしかなかった。
「苦労したわ。こちらから攻撃したくても出来ないし、貴方は一人にならない。やっとここまで来た」
「……ここ、随分高いですよ」
「飛ぶ魔法は流石に使えなかったから……」
彼女は窓の外を指差す。
なるほど、丈夫そうなロープと金具が見えた。
「すごいですね」
「助けに来たわ。逃げましょう」
カジは驚きながら、それでも笑む。
「心配してくれたんですね、ありがとうございます。僕は大丈夫ですから、貴方は逃げてください。前も言いましたが"魔女"の力は」
「追い払いたいのね、私を」
彼女の言葉に、カジが肩を震わす。
「……分かりますか」
「分かる」
「ええ、そう。追い払いたいんですよ。貴方を僕の死に巻き込みたくない」
「……」
ナギはカジに詰め寄った。
「逃げましょう。逃げるのが嫌だったら、私が盗んだことにする」
「いや、もう逃げられないので、本当にいいんです」
「貴方の治療で私の力も大分戻った。追っ手なんていくらでも倒すわ」
「いえ……」
カジは困ったように、喉を摩った。
そんな煮え切らない様子を見てか、ナギは彼を睨みつける。
「あいつらに殺される前に、早く――」
「女神が僕を許すかどうか、それを確かめる方法があるんですよ。分かりますか?」
「そんなこと、今は」
「聖別された毒を飲むことです」
「……は?」
ナギは何を言っているんだといわんばかりに、間抜けな声を上げる。
「神が人を許すなら、その毒を体内から消し去ってくれるでしょう。許さないのであれば、死して神の下に逝き、正式に審判を受けることになるのです。女神ノッテは、そうやって人を見てきた」
「ま、まさか、貴方……」
「飲みました」
事も無げに告げる。
「馬鹿げたことを……! ヤツらは貴方を生かす気なんて、ない!」
「そう思います」
「だったら何で飲んだ!」
彼女の言葉が荒くなる。
「……どうしてでしょうね。多分僕が、女神を信じているから、ですかね」
「……」
瞬間、右頬に痛みが走った。
「……え」
平手を受けたのだとすぐに分かったが、反応が出来ない。
「貴方の神を非難する気にはなれない。でも、その神に貴方を渡す気にもなれない」
「……ナギさん」長い間の後ようやく言葉を出せるようになった。「僕に恩を感じているのかもしれませんが、本当にそこまでしてもらわなくてもいいんですよ」
「分かってない」
ナギはカジをぎろりと睨んだ。
「貴方の意思なんてどうでもいい。私が、そうしたいだけ」
「……貴方、意外と強引ですね」
「私は」
ナギの細い手がカジの手を取る。
「この手でもっと、私の様な人間を、救って欲しいと願っている。貴方の人格が、この社会で私の光になった。だから、生きて欲しいと願ってる。神じゃない、貴方が救って欲しいと願ってる。わがままなのよ」
「……僕だって」
ナギの手を握り返す。
「もっと人々を救いたいと思っていますよ。でも、その時間はもう残されていないんです」
「お人よしと自己犠牲は違う。達観と諦めも違う」
彼女はカジの手を引いた。
「行こう」
「何処へ」
「解毒できる方法が、絶対にある。ここから南にいけば、大都市のエイメリィにいけると聞いた」
「しかし、そこまで何日掛かると」
「諦めたくない」
彼女は強く言い放つ。
「絶対に、この世界から、貴方を失いたくない」
「貴方は今、熱に浮かされている状態なんですよ。きっと僕を助けること、後で後悔しますよ」
そう言う聖職者の腕を引く。
何を言っても無駄なのだから、行動で示すことにした。
「こっち」
乱暴に腕を引くと、「ま、待ってください」と留められた。
その力が強くて、やはり男なのだと今更感じられる。
「こんな目立つ道、通ったらさすがに」
「大丈夫」
彼女はついと前を指差す。
その先にはぐったりと壁に寄りかかる聖騎士が幾人も居た。
「ま、まさ」
「殺してはいない。カジ、貴方魔法は」
「多少使えるくらいですよ。《核》から引き出せるほどではありません」
「そう」
ナギは右手の小指の指輪を見せた。
「昏睡の魔法は、高価だけど広く使える」
カジは納得したように苦笑する。
「だとしても、こんな広範囲を気づかれずにやってのけるとは……」
「褒めても何も出ない……」
ナギは先に進む。
「熱にうかされてるのは貴方」
「……」
「信仰という熱に、正しい事を奪われている」
「言いますね」
「言うわ、何度でも」
繋いだカジの手が熱い。
「ナギさんは……魔法が、得意なんですよね?」
「魔導師として恥ずかしくない力を持っていると思っている」
顔を見ずに笑って返す。
「冒険者として随分仕事をしてきたから」
「……ふふ、冒険者、か」
カジの笑い声に、ナギは思わず振り返った。
「いいかもしれません」
「何?」
「冒険者生活というのも。自由気ままな身の方が、誰かを救うには丁度いい」
「……」
その顔が、赤かった。
「貴方、熱が」
「……行きましょう。ここで倒れても見っとも無いだけですから」
「え、ええ……」
ナギの背中に冷たい物が滑り落ちる。
――本当に飲んだのか。
慌てて時間を計算する。
制限時間は、恐らく日の出まで。
あともう何時間もない。
二人は町を抜け、南へ急ぐ。
眼前に広がっていたのはまたしても森であった。
「馬がいれば良かったけれど」
足を踏み入れる。
ナギは油断なく辺りを伺うが、《核》に触る魔力は感じられなかった。
おそらく、女神教会の手から逃げ出すものなど居ないのだろう。
故に、逃走者向けの罠などは見当たらない。
「……」
荒い息が後方から漏れ聞こえる。
カジは悟られまいとしているようだが、堪えきれる物ではないのだろう。
――早く。
間に合わないと分かっていても。
無言のまま、二人は歩き続ける。
草を踏み鳴らす音と夜鷹の声だけが響いていた。
そうしてどれほど歩いたのか。
「待って、ナギさん……」
腕が引かれ、彼女ははっとして後ろを見る。
カジは口を押さえて咳き込んでいた。
抑えた手から赤い物が滴って――
「カジ!」
ナギは彼に縋る。
咳から飛んだ赤い血が、二人を汚した。
「……」
引き離そうとする力に抗った。
まだ月が朝に傾いていないのに症状が顕著に現れたのは、先を急いだからなのか?
「ナギさん」
カジの目が彼女に離れるように訴えていた。
仕方なくその通りにすると、彼は後ろ向いて嘔吐を繰り返した。
血の臭いが強い。
ナギは焦りを押し殺しながら、そんなカジの背中を擦った。
「ご、ごめんなさい……急かしてる?」
「いえ」
口元を袖で拭いながら、カジは横に首を振った。
「今のですっきりしました。もう少し、行きましょうか」
「……ええ」
心なしか、カジの表情は落ち着いているように見えた。
ナギは彼の手を引くのをやめ、少し先を歩くだけに留めた。
「僕は」
そんな彼女の背中に声がかかる。
「許されない存在なんですよ」
「……」
話したいのだろう。
ナギは彼に頷いて、続きを促した。
「聖職者なのに剣を振って、おかしいと思ったでしょう?」
「少し」
「僕は――《霊石騎士団》の一人です」
「……」
ナギは奥歯を噛んだ。
《霊石騎士団》といえば、女神教会が保有する最強の騎士団の名前だ。
各地に拠点を持ち、強い力と権力でモンスターや異教徒を殺している。
ナギを追っていたのもその騎士団だったはずだ。
「僕はどうしたわけか、戦うことが怖くなくて。モンスターの襲撃の時には、カーレル司祭と共に戦いました」
「……」
「人も、殺しました。一人や二人じゃありません。神の名の下に、何人も何人も」
「……」
「カーレル司祭には恩を感じていましたから、全てその通りに。《霊石騎士団》の入団試験もあっさりと通過して。でも、ある日気づいてしまった。それは、僕の意思じゃないと」
「うん?」
「僕が剣を振るう理由は、僕の信じるものではなく、誰かの信じるもののため。それは……聖職者失格だなって」
「……そう」
「でもその後も、聖職者も、モンスターも、異教徒も、亡霊も、異形の者も、何人も斬りました。剣が捨てられなかった。――でも、最近になって長い休みを取ることにしたんです。どうしても離れたくて」
「私は神じゃないわよ。懺悔されても困る」
「……すみません」
カジは目を伏せ、微かに笑う。
冷たい自嘲。
「軽蔑しますか?」
「愚問ね。冒険者は、自由なのだから」
「……そうですか。そうなんですね」
「私に、言える事があるとすれば」
ナギはカジを真っ直ぐに見つめた。
月の影が、彼女の表情を隠している。
「私が貴方に出会えたのは、神の采配だと思っている」
「……!」
カジは穏やかに笑った。
それは救われたようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「ありがとうございます、ナギさん」
「礼を言われることじゃ――」
「関係ありません、僕が嬉しいんですから」
そして、「ほら、ここからだと月が綺麗ですよ」と上を向いた。
なるほど、丁度揺れる木々との間に見え隠れする月は美しかった。
「ここで休ませてくれませんか」
「……はい」
その意味を図れないほど、ナギは愚かではなかった。
大きな木の陰に、並んで座る。
冷たい風を感じて、ナギは思わずカジにぴったりと寄り添った。
「夜は怖いわ」
「貴女でもそう思うんですか」
「どういう意味?」
カジの喉から漏れる、深い息の音。
――意識して呼吸しなければいけないほどに、彼の息は細くなっているのか。
「貴女には月が似合うなと、思っていましたから」
「……。夜は、怖い。全部、黒くしてしまう。それの中で、月は、美しいから」
自分の心臓の音が激しくなるのを止められなかった。
――照れているのか?
自問してみるが、答えはない。
「夜は――……僕も、怖いです。どうせ、逝くなら……朝の方が、一人じゃないように、思えて……」
「……」
何も言えない。
このままでは、朝までもたないことをナギも悟っていたからだ。
だから、その手を握る。
「え……?」
「一人じゃないわ」
「……」
言葉を紡ぐのは苦しいのだろう。彼は目を細めて笑う。
そして、冷えた指先で彼女の手を強く握った。
折れてしまいそうに、痛いほどに。
でもそれが、まだ彼が生きている証だった。
「……」
指を絡ませて、絶対に離さないようにする。
一人にさせないために。
「ふふっ」
微かな笑い声。
それっきりだった。
夢を見ていた。
揺れる馬車の中。
自分は剣を抱いていた。
――彼女の手には余る、両手剣。
「返さなきゃ」
ナギはうわ言の様に呟く。
「返さなきゃ、返さなきゃ、返さなきゃ」
自身に言い聞かせるように。
「……だから、」
顔を上げる。
「逝かないで」
そこに座る人物は、よく分からなかった。
母のようにも、まだ見ぬ父のようにも、冒険者仲間のようにも見えた。
「逝かないで」
しかし、今彼女が呼ぶのはたった一人。
「逝かないで……!」
自然と涙が流れた。
でも、それを拭ってくれる者などいない。
――ほら、いつでも私は一人だったから。
「貴方が、私の命を助けたんじゃない! 私が、先に、一人で! 死ぬはずだったのにっ!!」
声を荒げる。
「何で、何でそれで、死んじゃうのよ……逝かないでよ、私を、一人にしなかったくせに、一人にしないでよ!」
縋りたいのを何とか抑える。
触ったら、きっと壊れてしまうのだから。
「お願い、逝かないで……逝かないで、……」
――その名前を、呼ばなくては。
目を覚ました時、最初に感じたのは気恥ずかしさだった。
――夢とはいえ、騒ぎ散らしてしまうとは。
頭上から降り注ぐ木漏れ日が、次の日の朝がやって来た事を告げていた。
「……カジ」
指は離れていなかった。
ナギは指の先から、腕、胸、そして顔と視線を滑らせる。
そして。
「……!」
その閉じられた瞼が動くのを見た。
「カジっ!」
叫びにも似た呼び声が、森に響く。
「……ん」
微かな呻き声と共に、彼の顔がナギを向いた。
「カジ」
「ん……」
そして、緩慢な動きで目が開いた。
夕日の色の瞳。
「……ナギさん?」
「……!」
名前を呼ばれた。
それがただ嬉しくて、自然とナギの瞳からは涙がこぼれていた。
「生きてた」
「ええ」
「生きてた」
「はい」
「……」
絡んだままの指を、もう片方の手でも包む。
「良かった」
「……はい」
「良かった……!」
ぽろぽろと落ちる雫を、カジの手が拭う。
「……泣かないでください。僕の為に」
「うるさいっ!」
ナギの激昂に、カジはびくりと身を震わせた。
「どう泣くか、なんて、私の、自由、でしょう!?」
ついに耐え切れず、嗚咽が漏れた。
言葉が跳ねて、上手く繋がらない。
――単純なことだ。
もう一人になりたくないと思ってしまったから、カジに逝くなと言ったのだ。
自分のわがままでしかないそれを、しかし、強く願ってしまった。
現実が、彼女の微笑みかける。
「はい。貴女の自由です」
カジはそんな彼女の身体を引き寄せる。
「……生きていて、良かった」
それは、自然な温かさに満ちていた。
「うんっ……うんっ……」
「神に、感謝しなければ。……いや、ナギさん、貴女が、呼んでくれたんですね」
「えっ!」
ぱっと顔を上げ、カジを見つめる。
「夢で、貴女が呼んでいました」
「……馬車の中で?」
「あ、いいえ。何処か、暗い場所で。知らない場所で」
「……」
偶然か、とナギはほっとする。
夢に作用するような魔力を持っているつもりはなかった。
あったとすれば、それは危険な力のように思える。
「……貴方の神が許したんでしょう」
目を瞑ってカジの胸に顔を埋める。
悪いとは思ったが、涙を拭う為に離れるのが嫌だった。
「どうでしょうかね……」
カジはあまり嬉しそうではなかった。
「もう少し苦しめということかもしれませんよ」
「何とでも言えるわ」
「ええ。僕達は、神の声を聞くことができませんからね」
カジはナギの身体を支えながら立ち上がった。
そして「ちょっと寒いかな……」と言い、血で汚れた上着を脱ぐ。
「燃やしてください。出来ますか?」
「いいの?」
「ええ」
女神教会の印が縫われた上着。
しかしあっさりと、カジはそれを手放した。
「止めてしまうの? 信じる事を」
「そんなことしませんよ。上着なんて、何処でも手に入りますから」
「……そう」
杞憂だったようだ。
ナギが炎の魔法でそれを焼いてしまっている間、カジは自分の身を改めて検分していた。
「カーレル司祭から頂いた二重の輪を取られてしまったのが痛手でしたね」
「それこそ、貴方が信じていれば何処でだって手に入ると思うけど」
「あれは治療の石が嵌まった高価なものだったんです! 」
「ああ……」
くすり、ナギは笑う。
そして、魔導石を発動させて「隠しておいた物」を手元に召喚した。
「はい」
空間を裂いて現れたのは、両手剣。
「それは」
「期待している、貴方の腕を」
恭しく、それを渡す。
日の下で見れば、それは無骨ながらも青味がかった美しい銀色の剣であった。
受け取り、カジは「わざわざ持っていてくれたんですね」と笑んだ。
「お任せください。これ以上無様なところは見せられませんから」
「うん」
そして――
「もう、一人にしませんからね」
カジは笑った。
「うがっ」
鈍い悲鳴が響いた。
「ちょっと、大丈夫?」
後ろを振り向くと、カジが頭を押さえている
「ああ、はい……」
二人は狭い洞窟に入り込んでいた。
ナギはランプを灯していたが、天井が急に低くなっていて後ろを歩くカジは見事に頭をぶつけたのだ。
――彼は割と抜けているところがあるのだ、とナギは思う。
「あ、血が」
ランプの光を向けると、カジ顔に血が一筋流れているのが見えた。
「えっ!?」
「あーあ。ぱっくり切れてるわよ」
「うーん……目に入ると厄介ですね……」
カジは強く傷を拭い、改めて傷口に手を当てた。
とたん、白く柔らかい光の粒が傷口を照らし、あっという間に塞いでしまった。
ナギは安心して小さく笑う。
――あの日から、カジは己の《核》から魔法を引きだせるようになっていた。
しかもそれが大変珍しい――女神教会が欲しがって止まない――癒しの法であった。
神の奇跡にも近いそれを、カジはあの日から使いこなしている。
ただし教会に知れたら《核》目当てに殺されかねないので、表向きは『二重の輪の魔導石』を使う聖職者としての立場を守っていた。
「こんな所でもたもた出来ませんね……ただでさえメーヴェはせっかちなんですから」
「此処のところハズレばかりでいらいらしてるものねぇ、あの子」
「我が妹ながら……まったく忙しない事です」
――確かに似てない、とナギは表情を影に隠す。
「まあ、雇い主様に違いはないわけだから。さっさと進みましょうか、カジ」
「ええ。行きましょうか、ナギ」
二人は気を取り直して歩き始める。
「そういえば、あの頃に比べたらナギはこちらの言葉が流暢になりましたね」
「突然どうしたの」
「ああ、いえ……魔法を使ったら思い出しただけですよ」
彼は「随分一緒にいる気がしていますが、意外と短い期間なんですよね」等としみじみしている。
「貴方だってアメノチの言葉が話せるようになったくせに、一方的ねぇ」
「気に障ったならすみません」
「そういうことじゃなくて」
ナギは笑って、彼を見る。
「一緒に居て、一緒に歩いて、同じ言葉を話して、幸せよ」
「……照れます」
「ふふっ」
しかし彼女は表情を引き締め「さあ、依頼を達成しましょう。さしあたっては、この奥の調査から」と歩みを進める。
「はい」
二人は暗闇の奥へと潜っていった――