王家が姫の戴冠式を行う――
その話は一年以上前からデザートローズ王国中に知れ渡っていたが、その日が近づくにつれ、人々は皆そわそわと落ち着かなくなっていた。
――そもそも姫とは?
ローゼライト王家の跡継ぎの話は全く伏せられていた。
「そりゃあ、魔法騎士団の第一石、第二石あたりのお方なら知ってるだろうさ。しかし、僕達じゃなあ」
そう、アロンツォは笑うのだった。
カイトはそれが皮肉、あるいは疑念であることを分かっていた。
――第一石、クロウ・リヴァレッドのご子息なら知ってるんだろう?
そんな視線を手で払う。
「俺だって知らないさ」
「そうかい」
アロンツォは大欠伸して見せた。
「しかしなあ、騎士様がこんな仕事をするとはなあ」
彼が言うのは、二人の目の前に広がっている光景のことだった。
中央広場。そこで人々が「えっさほいさ」と屋台を立ち上げている。
戴冠式の日、それはつまり国を挙げての祭の日だ。
国中が熱気でひっくり返って、水晶の冠が姫の頭上に輝く瞬間を祝うのだ。
デザートローズ王国中から人が集まり、その商機を逃すまいと商人達は躍起になって商売を始める。
それはあれよあれよという間に広まり、あっという間にローゼライトは屋台の場所取りで一杯になってしまった。
もちろん王が許しているからではあるのだが、それにしても、どこもかしこも『喧しい』。
結局若い騎士達は、市井を巡回して治安維持に努めることを言い渡されていた。
聞けばどの門も人の流入がありすぎて、とうとう新米達だけでは人数が足りなくなったとかどうとか――
「かったるー」
アロンツォが堂々と欠伸をするので、カイトは目を細めた。
「しゃきっとしろ。見られてるんだぞ」
「カイトはお堅いことで」
「たるむな」
早々に今回の相棒を見離して、カイトは一人歩き始めた。
――気負いすぎてるのは分かっている。
これは祭だ。
モンスター退治でもなければ、戦でもない。
少しくらい浮かれてもいい、それが祭だ。
戴冠式の日を今か今かと待っているのは、何も商人達だけでは無い。
事実、騎士達も毎日毎日仕事をさっさと切り上げて、遊び歩いていたりする。
華やかな日になるのは今からでも手に取るように分かる。
無論、騎士達は遊んでばかりもいられない。
当日は王族達の護衛や、人々の混乱を解消する為に奮起しなければならないからだ。
しかし、今はそんなに気負わなくても、事件さえ見逃さなければそれでいい。
――分かっている。でも、それでも。
この身は騎士だ。
多くの騎士見習いを蹴落として手に入れた地位なのだ。
彼らに不甲斐ないところは見せられないし、選んでくれた人間に失礼なことはしたくない。
そうして三年間やって来た。
そして、これからも。
アロンツォは悪い奴ではない。それも、分かっているのだ。
ただ少し、考え方が違うだけだ。
「騎士様、おはようございます」
「おはようございます」
数々の挨拶に手を上げながら応える。
こうして騎士が歩いているだけでも、人々はなんとなく気を引き締める。
それがデザートローズ王国の国民性とも言えた。
「あ、カイト! あのさー」
人混みの中、手を振っていたのは同期のカーウェンだった。
小柄な彼は混雑という名の荒波に流されていて、カイトは内心慌てた。
誰も気を利かせて立ち止まってくれるわけではないところが、若手騎士の限界といったところか。
「あー」
「カーウェン! な、なんだ? 大丈夫か?」
「だいじょうぶー」
とは言いながら、彼はカイトからどんどん離れていく。
「お、おい、カーウェン! 大声で! 喋ってくれ!」
「スロットがー呼んでたよーお昼一緒にー東門ー」
「え? は、うん、わかった」
必死に呼び止められたにしては些細な話だったので、少々拍子抜けする。
「あー」
そんな出会いもごく僅か。哀れ、カーウェンは激流に流されていった。
それほどまでに、ローゼライトの大通りは人が多い。動きも多い。ついでにうるさかった。
「……」
視線を巡らせれば、あっちにもこっちにも騎士の姿がある。
毎日市井に出ているからか、彼らの顔もよく知られるようになり、たるむ者が出る一方、しっかりとしていく者も出てきた。
アロンツォは前者、カーウェンは――ああ見えて――後者だった。
カイトも後者。
では、彼を呼んでいるというスロットはどうしているだろうか?
「まあ……たるんでるよな」
顔を見なくても何となく分かった。
正午の鐘を確かめた後、東門に向かうと、それはそれは悪夢のような光景が広がっていた。
「うわあ……」
思わず声が出る。
東門は人々で『埋まっていた』。
まるで農場の芋洗い場のようだなあと人ごとのように思ってしまった。
動くこともままならず、新米騎士と上級騎士が必死になって人々を整列させているところであった。
不審者を見逃せば騎士の責任だ。しかしこれでは、必死の検問でも漏れが出るかもしれない。
とりあえず先ほどのスロットへの失礼な評価は――頭の中で――謝らなければならなかった。
「カイト! カイト!」
声をかけてきたのは先輩のボリスだった。
彼の顔は汗だくで、だというのに血の気が引いて青くなっているようにも見える。
「応援に来てくれたのか!?」
「え、いや、その」
「そうか、違うのか……」
あからさまに落胆されて、カイトはあわあわと狼狽する。
「す、すいません、先輩……」
「いやいいんだ……お前は大通りだもんな、そっちも大変だろう……」
「……こ、ここほどでは」
「そうか……ああ、そろそろ休憩の時間か……飯を食わねばやってけない」
そういう事ならばとボリスは顔を上げる。
「スロットを飯に誘いに来たのか? お前達、幼馴染みなんだってな」
「ええ。呼ばれまして……」
「あいつなら、ほら」
ボリスが指さした先は門の上であった。
街を守る石の壁の上。
そこにスロットの後ろ姿が見えていた。
「あいつ、あんなとこに」
ボリスに丁寧に礼をし、カイトは人混みを何とかかき分けて、城壁にかけられたはしごを登った。
風が、やたらに強い。
髪がかき乱され、金色の砂が目に入りそうであった。
「スロット」
その後ろ姿に声をかけても、彼は振り向こうとしなかった。
「カイト、見てみろよ」
強い風に飛ばされそうになりながら、なんとかカイトは彼の隣に並ぶ。
「……これは、すごいな」
金色の砂原に幾重もの線が描かれている。
それは人だ。このローゼライトへ向かってくる、人の連なりだ。
「ここ一週間、こんな感じだ。夜が来て門が閉じても、ローゼライトの門を目指して皆ここに来やがる」
「こんなんじゃ夜も眠れてないんだろ」
「へっへっへ、一時期のお前よりマシだ」
スロットはにやにやと笑って、「ではでは、ご足労戴いた騎士様にはこちらを」と包みを取り出した。
「なんだ、これ」
「ハルの弁当」
「は?」
「ハルの弁当」
「聞こえてる。なんでお前が持ってるんだ」
「昨日飲み過ぎて道でぶっ倒れてたら、ハルが元気出してってくれた」
「突っ込みどころは多々あるが、そ、そうか……」
「二人分あるから、ああ、そういうことかってお前を呼びつけたわけ。忙しかったか?」
「お前、この『惨状』見て忙しいですよなんて言えないだろ」
「へっへっへ」
スロットの顔をよく見ると、目の下の隈がくっきりとしていた。この分では夜も出動させられているのだろう。
「食べようぜ」
「ああ」
包みの中に入っていたのは、こんがりと焼いたパンに何枚もローストビーフを挟んだ分厚いサンドウィッチと、串に刺した羊肉のソーセージ、魔導石が入った容器に注がれたミント水であった。
「こんな凝った物を……」
「明らかにこの三年で上達してるよなあ。いいなあ、いつも食ってんだろ、ハルの料理」
「ああ」
「くっそ、嘘偽りも無くあっさり肯定されるとそれはそれでむかつく」
サンドウィッチにかぶりついたスロットは、「うっめぇ」と顔をほころばせた。
「生き返るわあ」
「うん、美味い」
「ところでカイト君。ここは人の声と風の音で滅茶苦茶うるさいんです」
「うん? あ、ああ……それが?」
「だからこういう話も出来ちまうんだよなあ」
スロットはほんの少し、声を小さくした。
「戴冠式、お前どう思ってんの?」
その言葉は、ずきりとカイトの心を刺した。
――何故?
しかしカイトにはこの痛みが何処からやって来たものなのか分からない。
「どう、って……正直、大変だな、と」
震える声で告げる。
「大変って?」
「これだけの人、だろう? これから喧嘩やいざこざもあるだろうし、いざって時にちゃんと動けるか、な、と」
「……ふうん」
カイトの答えに、スロットはあからさまな不満を見せていた。
「ハルの事は心配じゃねぇのかよ」
また、重い痛み。
「ハル、が、どうして?」
「……いや。何でもねぇ」
ミント水を煽りながら、スロットの顔は険しくなっていく。
「当日はどうすんの?」
「……俺は大通りの仕事、が」
「ハルは? 当日は一緒にいねぇのか?」
「どうし、て? ハルが」
「ふー……」
長く、重い、溜息。
「当日は、一緒に楽しめよ。な? 守ってやれよ」
「守る? 守るって、なん、で」
「弁当の礼だ。お前の仕事全部受け持ってやるから」
「そんな」
「いいんだよ。俺だってハルが心配だ。親父殿達は高をくくってるが、正直俺は、当日『何が起こるかわかんねぇ』」
また、痛み。だが今度は理由がはっきりしていた。
――ハルに、何か起こるかも知れない。
何故姫の戴冠式にハルがどうこうという話になるのかは全く分からなかったが、それでも。
――ハルを、守らなければならない。
「この国がどうなろうと知ったこっちゃねぇ」
「スロット」
「でも、お前とハルは――絶対、絶対だ」
話は終わったとばかりに、スロットは立ち上がった。
「呼び出して悪かったな。ハルに飯の礼を言っといてくれ」
「あ、ああ」
「じゃ、俺はまたここから人間を眺める作業に戻りますよっと」
そう言うスロットの横顔は、ここに来る前までよりも随分厳しいものになっていた。
ローゼライト王家の姫、とは?
騎士試験に受かった者ならば、王と王妃に謁見したことがあるはずだ。
騎士の資格を授与されるその日、カイトも確かにその人を見た。
王、オスニエル・ディ・ローゼライト。
王妃、キーラディア・ディ・ローゼライト。
王の纏う空気はまるで鉛の天幕ようであった。光を通さず、靡かず、全てを弾き返す、圧倒的な存在感。
その口から紡がれる言葉も、黒や灰色のような色をしているように思われた。
――正直、その空気に飲み込まれて息も出来ず、王からの祝いの言葉は何一つ頭に入ってこなかった。
対して王妃は、こう言ってはなんだが、地味な方であった。
華やかな白と金のドレスを纏っていたが、表情は暗く、言葉を発することも無かった。
その場に姫はいなかった。お二人の間に子がいることも知らなかった。
容姿も、名前も、何一つ分からないまま、戴冠式の日は迫っていた。
その疲れからだったのだろうか――変な夢を見てしまった。
砂鯨の背に乗っている夢だ。
しかし、そこはローゼライトではなかった。
青い砂の敷き詰められた『海』だった。
何処までも、青くて、きらきら、きらきらとしている。
美しい。
どこかから流れてきたのは、白い花びらだった。
それはゆらゆら、ゆらゆらと風の中で踊っている。
その向こう――カイトの隣に、ハルがいた。
いや、ハルじゃない。ハルだが、ハルではない。
仕事の為だと言って定期的に肩までで切っている髪は、腰まで艶やかに伸びていた。
風に煽られる白いドレスは、誰かと同じ金に彩られている。
「カイト」
そう言って笑う彼女の首に、紫の魔導石は無かった。
――自分の耳にも、ない。
「カイト」
ハルのような、ハルじゃない、声。
「カイト」
これは、ハルじゃない。
ハルじゃない。ハルは、違う。
「カイト」
これは、誰だ?
ハルの顔をして、ハルの夢を叶えてるのは、誰だ。
「カイト」
――その顔で、俺の名前を、呼ぶな。
俺が、隣にいなきゃいけないのは、お前じゃない。
「カイト」
――うるさい!
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!
消えろ!
――お前は、ハルじゃない!
首を絞められたかのような苦しさで目が覚めた。
「うなされていたよ、カイト」
はっと隣を見ると、心配そうなハルの顔があった。
その首には、あの紫の魔導石が揺れている。
「……」
額から汗がだらだらと出ていた。
暑さを感じているのに、猛烈な寒気がする。
「カイト、熱があるんじゃ……?」
ハルがさっと寝床から抜け出し、手早く濡れタオルを持ってきてくれた。
「熱は……ないのかな? 大丈夫?」
「……ああ」
自分を心配してくれるハルを見ていると、心配させまいと心が奮起し、幾分落ち着いた。
「変な夢のせいさ」
「夢?」
「うん。そんな顔しないでくれ」
ハルの頭をくしゃくしゃと撫で、笑ってみせる。
彼女も少し笑って、俯きながらも「分かった」と頷いた。
「おめでたい日だもの。そんな日に倒れてたら、もったいないよね」
――そう、今日は。
「戴冠式だもんな」
寝台から起きだし、気を引き締める。
「今、何時だ?」
「空が明るくなる前だよ」
「そうか。遅くなる前に支度をしないと」
深呼吸をして、「ハル、朝食を。牛乳と、蒸しパンがあれば、それで」と努めて冷静に告げた。
「うん」
「一緒に食べよう」
「うん!」
ハルが嬉しそうに部屋を飛び出していくのを見て、カイトはようやく夢の内容を整理することが出来た。
「……本当に、変な夢だったな」
ハルは髪を伸ばしたことなど無かった。出会ってから今日まで、ずっと肩の上までしか伸ばしたことはない。
でもきっと、伸ばしたら美しいのだろう。似合うに決まっている。
だから自分の妄想が、こんな馬鹿げた夢を作り上げたのだろう。
『そうに決まっている』。
――さあ、今日の予定を決めなければならない。
カイトは『黒靴』に任命されていた。
黒靴とは、騎士が制服を脱ぎ、一般人に紛れ込んで不法行為を取り締まる者を指す。
スロットが言ったように、カイトは今日、仕事でありながらハルと共にいられることになったのだ。
何故、と思う。しかしそれ以上に、ハルと離れてはいけないような気がした。
スロットに言われたからその気になったのか。それとも――
「おまたせ、カイト!」
颯爽と戻ってきたハルは、何やら機嫌が良さそうだった。
思えば、『黒靴』になったと説明してから、ずっとこの調子だ。
――そんなに嬉しかったのだろうか?
「さ、食べよ」
銀の盆に乗せられた朝食を二人で頬張りながら、窓から差し込む光が強くなるのを見ていた。
「きょ、今日はどうするの?」
「うん?」
「何処に行くのかな、って……えっと、決まってるんでしょう? 仕事なんだもんね」
「ああ。俺は大通り担当だから。悪いが、裏道までは行かない」
「そ、そっか」
「行きたい場所があったのか?」
そういえばハルは熱心に父の『妻』と情報を交換していたような気がする。
珍しい店がたくさん出る予定なのだから、一つや二つ、欲しいものがあるに違いなかった。
もっとも、カイトは自由があるとはいえ仕事の身だ。
希望には添えないかもしれない。しかし、出来れば叶えてやりたかった。
「何処に行きたいんだ」
「……何処、って、訳じゃ無くて」
「うん?」
「……一緒に買い物、できれば、なんて。騎士候補生の時、みたいに」
「……」
カイトは納得した。
騎士になって数年、もはや候補生の時ほど余裕はなく、スロットはともかく、ハルと出かけることなどなくなっていた。
彼女と最後に出かけたのはいつだっただろうか。
前は、そう、一緒に出かけることが多かった。
まるで『彼女の騎士』であるかのように。
そう、振る舞っていた。
――ずっと続くはずのない夢を見ていた気がする。
「歩き回らないといけないから、ゆっくりは出来ないが……それでも、できるだけ、一緒にいよう」
「……うん!」
彼女の手を取る。
――夢の中では絶対にとれなかった、手。
「さあ、着替えて、行こう」
――夢の中では絶対に言えなかった、言葉。
「カイト」
疑いようもなく、それはハルの声であった。
「ありがとう」
嬉しそうに微笑んだ彼女の首には、あの日贈った紫の石が揺れている。
ローゼライト王家の姫の戴冠式は、その期待を表すかのように派手な号砲から始まった。
人々は朝の挨拶に「おめでとう」を言い添え、誰もが明るく浮き足立っている。
「うわあ!」
ハルは通りに出るなり声を弾ませた。
まず目に入るのは、数えるのが不可能な程の店の列だった。
そこから飛び出す商人達の声は、皆客を取られまいと明るいながらも必死であった。ただ、そんな心配がないほどに人という人であふれかえっているのだが。
ふと上に視線を移せば、魔法の火がともされた街灯が、昼間だというのに煌びやかに灯っていた。
行き交う人々は手に様々なものを抱えながら、この祭を存分に楽しんでいるように思える。
時たま顔を覗かせる騎士達も何処か浮き足だって楽しそうだ。
飛び交う精霊達も、今日はどうしたのか落ち着きがない。
――それほどまでに今日は『特別』なのだろう。
「ハル、俺から離れるな」
「う、うん。ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃないんだ。ただ、はぐれたら大変だろ?」
手を繋ごうとして、やめた。
ただ、ハルが寄り添ってきたので肩を抱く。
「何処に行きたい?」
「あ、と、え、っと……き、生地とか、見たいかな。クロウ様の『妻』が、新しい服を作ってくれるって」
「よし、そうしよう。きっと珍しい柄が見れるぞ」
カイトは彼女を伴って歩き始める。
といっても、人が多すぎて少しずつしか移動できなかった。
「すごいねぇ」
ハルがあっけにとられた様子で辺りをきょろきょろと見ている。
カイトと違い、彼女の身長は高くない。カーウェンのように流されていってもおかしくないのだ。
「……カイト。カイト」
「うん?」
「剣、持ってるんだね」
彼女の呟きを掬い上げる。
「ああ。暴徒が出たら俺も出る」
そっと剣の柄に触れた。
名工ラミーが作った剣は、何度も自分の仕事を助けてくれた。
たった数年前から使っているというのに、ずっと昔から使い込んできた気すらする。
「お仕事中なんだよね。忘れそうになるよ」
カイトは小さく笑った。
「なら、俺とスロットの夕食の事を考えてみたらどうだ?」
「あっ、なるほど! きっと、食材のお店だってあるよね」
「……すまない、冗談だ。今日はお前も仕事を忘れて、買い物を楽しんでくれ」
「うーん?」
何だか納得いかない――そんな顔をされてしまった。
「よう、ご両人! 今日はおデートですかな!」
二人に背中から抱きついた声を、カイトもハルもよく知っている。
「スロット!」
「ふぉっふぉっふぉ、何をお探しかね? ブローチ? ネックレス? それとも結婚指輪かな?」
「馬鹿――」
「あのね、生地探してるの。洋服の」
「……生地ぃ? 色気も素っ気もないな」
そこでようやく、スロットは二人の前に現れた。
「うわあ」
スロットは銀の鎧と白いマントという、ローゼライト騎士の正装をしていた。
「かっこいいね、スロット!」
「おう、ありがとよ。俺は朝休憩が終わり、これからこの服で門の上で熱風を浴びながら人間を観察する仕事をするのです」
「う、うん……大変そうだね……」
彼の顔は既にくたくたで、今にも倒れそうであった。
「カイト、お前は約束通り楽しんでくれや」
「その顔で言われると罪悪感しかなくなるんだが」
「気にしてくれるな! 俺は! 自分の魔法が! こういうのに役立つのを! 後悔している!」
「後悔してるのか……」
「お前みたいにいろいろできりゃ良かったんだけどな」
そんなスロットは「じゃーな、夜食くらいは一緒にくおうや」と無理矢理作った笑顔で人混みへと消えていった。
よく見れば――
周りにはそうした騎士達の姿がちらほらとあり、なおかつカイトには『黒靴』の姿も見えていた。
厳戒態勢という言葉がぴったりである。
戴冠式は夕刻。太陽が砂漠に沈む時刻に行われる。その時間には、カイトも遊んでいるわけにはいかない。
自由なのは今しかないのだ。
「さあ、ハル。行こう」
「う、うん。スロットは……」
「仕事に行ったんだ。俺も、仕事をしないとな」
ハルを促し、カイトは人波に乗る。
「しかし、生地屋か……」
カイトは辺りを見回す。
大通りに店を持てた商人達は、皆派手な商品を売っていた。
魔導石や宝石、貴金属はもちろん、絵画や壺などの骨董品、あげくには魔工組合の人間が魔工を販売している。
そういったものに、ハルは興味を持たない。もちろん、スロットに言われたような品も辞退するだろう。
生地が良いというのだから、それを探した方がいいのだ。
――と、横を歩くハルの足が微かに遅くなった。
「うん?」
彼女の視線は、一つの店に注がれていた。
なるほど、そこは生地屋だ。ただ、売り物の布は普段着にはとてもではないが似つかわしくない物であった。
宝石蚕の絹。
その昔、貴族達の間で大流行したものだった。
宝石蚕の絹は魔法との相性が良く、糸自体も強くしなやかで、社交界のドレスや魔法使い達のマント、舞台衣装などで使われた。
養蚕業は大いに盛り上がったらしいが、結果偽物が大いに出回り、やがて品質と信頼を落とした宝石蚕の絹は廃れてしまった。宝石蚕も今では殆ど飼われていないらしい。
ここに並んでいるのが本物かどうかカイトには分からなかったが、本物であればかなりの骨董品――しかも高価だ。
「気になるのか?」
「え? あ、うん」
もじもじとし始めたハルを、半ば持ち上げるようにして、カイトはその店に近寄った。
「こんにちは、店主」
「え? あ、ああ! どうぞ! ご覧ください」
カイトは内心「ううむ」と唸った。
目の前の布が、高価であるとか、偽物かどうか、ではない。
店主の様子がおかしいからだ。
もし何か『やっかいごと』を抱えているのであれば、騎士として見逃すわけにはいかなかった。
「わあ、すごいね、カイト」
ハルが眺めていたのは、流れるように美しい白い絹であった。
――『夢』を思い出して、ずきりと心臓が痛んだ。
「触ってみてください、お嬢さん」
「いいんですか?」
「ええ。その方が、あの子達も喜びます」
ハルはそっと白い絹を触る。
「……ふわあ」
「どうだ?」
「柔らかくてすべすべしてる……」
「触っても?」
「是非!」
それに触れる。
偽物かどうかはこの距離でも分からない。しかし――
「おお……すごいな」
「ありがとうございます! あの子達も喜びます」
ハルは見ているだけでも楽しいのか、にこにこと並べられた布を見ている。
「宝石蚕の絹ですか」
「はっ! わ、分かりますか?」
「私も噂で聞いたことがあるだけですが……」
「ええ……流行ったのは昔の話ですから、今の若い方は見たこともないでしょう」
店主は大きな溜息をついた。
「悪い噂もありましたし、あの子達もめっきり数が減りました。なんとかこうして大通りに店を出せましたが、出店料が払えるかどうか……」
カイトはこの店主の様子に合点がいった。
そうだ、この店は誰も人が立ち寄っていない。
ローゼライトは今や魔法合糸の時代であり、蚕の絹は古き良きドレスで見ることしかないだろう。
『わざわざ買うもの』ではなくなっているのだ。
「ちなみに、いくらですか」
「……」
「いや、黙られると、不安になるのだが」
「……」
店主は恐る恐る値札を差し出した。
「……あー」
カイトは天を仰ぐ。
「店主、失礼だが。これは貴族に連絡を取って直接売り込んだ方がいい値段だ。大通りに集まる人々は、基本的に庶民だから、その……高価すぎる」
「は、はあ……そうですか……」
一般的な家庭の二ヶ月分の給与では流石に売れないだろう。
――でも、カイトには買えない値段ではない。
ましてや、贈り物であれば。
「一つ貰おう」
「は……い、今なんと」
「彼女に似合いの布を探していた。一枚貰おう。店主の目で、彼女に似合いの色を選んで欲しい」
「はっ……!?」
絶句する店主に、「あ、あの!」とハルは慌てだした。
「こ、こ、こ、こんな高価なもの、わ、私には……それに、この布は、えっと、なんていうか、知り合いじゃ縫えないし……」
「…………」
店主は何も答えず、女神に祈るかのように天を仰いでいたが、急に目を見開いて天幕の後ろへと消えた。
ややあって戻ってきた店主の手には、赤い絹――否、赤いドレスが携えられていた。
「お嬢さんにでしたら、こちらが似合いかと思います」
「これは……?」
「是非、お手にお取りください」
言われて、カイトはそれを受け取る。
美しい赤が冴える布地であった。
「長い話になりますが、どうかお聞きください」
店主は一度頭を下げた。
「これは、私の宝石蚕の中でも一番の糸を紡いでくれた『虹組』の糸で編み上げたドレスです。もう『虹組』の子孫はいません。最後の『虹組』は数年前に役目を終えました。この最後の糸を、魔法で女性用ドレスに仕立ててくださった方がいました。その人が言ったのです。『貴方が困った時、快く絹を買ってくれる人が現れるから、その時はこのドレスをお出ししなさい』と。それが、あなた方なのでしょう」
カイトは話を聞きながら、そのドレスを広げる。
ふんわりとした絹だが、しっとりと手に馴染むようだった。
≪核≫がざわつく感覚から、このドレスが魔法で仕立てられた際に、防護の魔法がかけられているのだろうと推測できた。
これであれば、傷つけられたり燃えたり、そういった危険からハルを守れるかもしれない。
「いくらだ。言い値で貰う」
「カ、カイト! い、いいよ、高いもん……」
ハルを片手で制した。
彼女がなんと言おうと、このドレスを贈ることに決めたのだ。
このドレスは彼女に似合う。彼女のために編まれたのだという、確信すらあった。
「先ほど提示した値段分、いただきます」
「冗談だろう? これはただの布じゃ……」
「いえ。いいのです」
「……なら、そこの靴も貰う。赤いやつだ。ついでに天幕の後ろを貸してくれ、着替えさせる」
「カ、カイト!」
「では……」
あわあわとするハルを天幕の後ろへ追いやり、カイトは自分の財布から提示額を払った。
「カイト・リヴァレッドと言う。家の名前を出せば、少しは箔がつくと思う。何かあれば、迷わず使ってくれ」
「ひっ、そ、そんな、貴族様……! そこまでしていただくつもりは」
「いいんだ。ほら、」
天幕の裏から出てきたハルは「に、に、に、似合う……?」と顔を真っ赤にしていた。
鮮やかな赤は、確信していた通り、彼女によく似合った。
「ああ」店主は感動のあまりか顔を覆った。「お美しいお嬢さん……よく、お似合いですよ。まるでお伽噺の姫のようだ。絶対王オーベロンの妻、妖精妃オシロイ、グロリオーサの娘達……それにひけを取りません」
「そ、そんな、お、恐れ多いです……」
ハルはカイトの背にさっと隠れた。
「こんなに似合う物をくれた。礼を尽くさないと、家の名に傷がつく」
「……」
店主は深々と頭を下げた。
「あ、あのさ、カイト……ほ、ほんとにこれ、いいの……?」
「もう払った」
「ひえ……」
ハルが何かしら言い続けようとしていたが、その後ろで店主はなんと店じまいを始めていた。
「リヴァレッド様。出直して参ります。次は、貴方様に似合いの布をご用意できるようにいたします」
「しかし、宝石蚕はもう」
「『虹組』はもういませんが、まだ、少しおります。あの子達も、誰かのためという目標があったほうがいいでしょう。……笑いますか?」
「いや。楽しみにしていよう。似合うような男になってなければな」
「ご武運をお祈りいたします」
「ありがとう。貴方も、女神のご加護がありますように」
二人は丁寧に礼をして店を後にした。
ハルがまだ顔を赤くしているので「気に入らなかったのか?」と問うと、ぶんぶんと勢いよく左右に首が振られた。
「こんな高いのを……良かったの?」
「似合ってる。それに、今年の誕生日もまだ祝ってなかった」
「……ありがとう。大事に着るね」
「いや、どちらかというと毎日着て欲しいくらいだ」
「う、うーん、分かったよ」
何だか、今日はハルを納得させられない日だな、と何となく感じた。
――いや、今日は始まったばかりだ。今からいくらでも楽しませればいい。
カイトは気を引き締めた。
――まずは、このドレスに似合いの外套を買おう。背中が開いたドレスでは、この時期といえども寒い。
砂漠の風が熱い。
スロットは汗を拭いながら、「何で正装なんだよ」と幾度目かの口を呟いた。
「しっかたねぇよなあ、俺達騎士だもん」
同じく正装のアロンツォが大欠伸をする。
二人の背中には弓矢があり、矢筒にはみっしりと矢が準備されていた。
門の上に配属された二人に与えられた任務は、不審な人間に警告し、止まらなければ撃つ、というものであった。
スロットはその命令に躊躇したりしない。
ただ、本当に居たい場所は、ここではないだけだ。
倒すべきなのは国の敵ではない――
「スロットさぁん」
アロンツォが「飽きた」と言わんばかりにスロットの名前を呼んだ。
「サボるならてめぇだけにしろよな」
「俺も水瓶通りで女の子とアイスクリーム食べてぇなぁ」
「彼女もいねぇくせに」
「スロットだっていねぇだろって」
「俺はいいの」
――数年前に付き合っていた彼女と別れてから、新しいパートナーを見つける気にはなれなかった。
彼女が恋しいなどというわけではない。
偏に、自分の役目のためだ。
「下の奴らの方がやばそうなんだから我慢しようぜ」
「真面目くさー」
「うるせぇな」
ちらりと下を覗く。
先輩のボリスは人々に疲れた顔を見せまいと奮起しており、いっそ輝いて見えるようであった。
人々はそんな騎士の姿など目に入らず、一目散に雪崩れ込んでいるところが空しい。
「この分じゃさぁ、昼には大通りと言わず水草通りまで溢れるんじゃねぇかなぁ?」
「だろうな……」
スロットは街の中に目を移し、すっと目を細めて≪核≫の魔法を発動させる。
――ハルが見えた。
カイトに買って貰ったのだろう、大輪の花のような鮮やかな赤いドレスが人混みの中でもよく冴えていた。
それはまるで、昔読んだお伽噺の妖精の女王のようにも思えた。
一方カイトといえば、仕事中とはいえ、随分穏やかな表情でハルの肩を抱いている。
よしよしと内心頷いた。
――二人はあれでいいのだ。
正直あの人混みでは楽しむ物も楽しめないかもしれないが、そこは仕事中なのだから我慢して貰おう。
「戴冠式ってさあ」
隣のアロンツォがまた欠伸をする。
「何で晩餐会の直前にすんのか、知ってる?」
「いや、しらねぇけど……?」
「第二石のお父様に教えて貰わなかったわけ?」
「そんなつっかかんなよ、めんどくせぇな」
アロンツォが「太陽がさ、」と続ける。
「砂漠に沈む瞬間が、水晶鳥サマの力が一番弱まるからなんだってよ」
「……弱まる、から?」
「っそ。スロットさぁんは知らないだろうけど、戴冠式で王から姫に渡されんのは『水晶の剣』って話さ」
――水晶の剣。
この国を守る精霊、水晶鳥が、ローゼライト王家と契約した際にもたらされた長剣。
その姿を王族以外が見ることは叶わない。
剣は水晶鳥と交信する触媒となり、強大な魔法の触媒でもあるという。
それが、王から姫に渡される。
しかも、『水晶鳥の力が一番弱まる時間に』。
「俺の親父から聞いた話だけど、……あ、俺の親父は石位は貰ってないからな、分かってる?」
「いいから続けろって」
「噂じゃ、剣の受け渡しは一番力の弱い時間じゃないとやべぇらしんだよね。水晶鳥サマの力が強すぎて、そういう魔力的に弱い作業は昼間や夜じゃ難しいって話」
「……なるほどな」
あくまでも噂ですぅとアロンツォはにやりとした。
大方、スロットの知らない知識を披露できて嬉しかったのだろう。
――そういった『危険な噂』は、上級騎士の息子達は知らないことが多い。
スロットは口元を手で覆って、表情を隠した。
戴冠式が――どういうわけか――危険なものであるのは、父親や周りの騎士の緊張具合から分かっていた。だからこそ、カイトをハルの側にいられるように上司にかけあったのだ。
それでもなお、黒い不安が胸の中で暴れる。
――自分はここに突っ立っていていいのか?
「……スロット」
アロンツォの声が緊張したので、思考を即座に中断する。
隣の彼が見ていたのは、地上、ボリスと話している人物であった。
黒いローブの男。フードを目深にかぶり、顔を見ることはできない。
しかしそのローブには『黒杖同盟』の紋が大きく描かれており、スロットは少しだけ緊張をといた。
ローゼライトと黒杖同盟は仲が良い。
魔法を主とする国家は、魔法の発展を精力的に行う、かの組織と密接な関わりがあった。
おそらく、女神教会よりも。
だからこそ、女神教会はローゼライトでの地位を高めようとしてスロットの怪我の治癒を偽ったに違いないのだ。
「何かあったかね」
「……」
スロットはボリスの口元を見る。
――たいかん、じかん、もん、しめ、かくにん、にし、もうしわけない、れい、きけん、よろしく。
「戴冠式の時間に門を閉めるっぽいな。西門が知らなかったからこっちまで確認に来たってかんじか」
「なんつーんだっけ、そういうの。口盗み?」
「教えてやったんだから感謝しろ」
「ありがとさんでしたぁ」
アロンツォはまたにやにやしはじめた。
「あれ、王のお抱え魔術師だよなあ。黒杖同盟から呼び込んだお偉いさん。このぶんじゃ、実態はただのパシリっぽいけど」
「ふうむ……」
ちらりとローブの男が上を見た。
スロットは小さく騎士の挨拶をし――その人物の顔を少しだけ見た。
その深い青い瞳は、スロットの知るどんな色とも違った。
ハルはきなり色の上着の裾を摘まんで、「どんどん豪華になっていくんだけど……」と苦く笑った。
「いいじゃないか、今日は祭だぞ」
「でもー!」
彼女はちらちらと周りを見る。
貴族の女達はハルと同じような格好をしているが、遠くから来た人々は土で汚れている者も多い。
自分の立場を考えれば、こんな服を着ていてはいけない、などと思っているのだろう。
「なら、俺の『妻』だと考えればいいさ」
「都合の良い時だけ『妻』扱いするぅ」
「そういう気分ってことだ。それとも」
カイトは笑って、手を差し伸べる。
「お姫様扱いの方がいいか?」
「……まあ、私も、女の子、だからね」
「お手をどうぞ、私のお姫様」
「そういうのは、照れる」
そう言いながらも、ハルはようやく微笑んで、カイトの手を取った。
「人混みじゃかっこつかないよなあ」
今度はカイトが苦笑いすることになってしまった。
ハルはくすくすと笑い「いいんだよ、本物のお姫様じゃないんだもん」と肩をすくめた。
「どこに行ってもすごい人。まるでデザートローズ王国全ての人が集まっているみたい」
「それは誇張だろうが、似たようなものだろうな」
皆、戴冠式の後にお出ましになるだろう姫を一目見ようと集まってきているのだ。
なにせ生涯に一度と言っても良いイベントであるし、姫は今まで隠されていて全く情報がない。
いち早く情報を手に入れて故郷への土産話にする――そんな感じだろう。
「お仕事の方は順調?」
「いや、正直、忘れてた」
「もー、いいの?」
「騒がしいが、皆喧嘩もなく仲良くやってるじゃないか。大通りだから、かもしれないがな……」
大通りをずうっと行けば、そこは王城の正門に繋がっている。
『王の目と鼻の先』で諍いを起こしてはならない――そんな教育がデザートローズにはあるのだ。
「他の通りに行く?」
「いや、俺はここでいいんだ。心配してくれてありがとう、ハル」
「ううん、お礼を言われることじゃないよ」
ハルは、しかし表情を曇らせて「でも、流石に戴冠式の時間には、行っちゃうんでしょ?」と呟いた。
「……戴冠式じゃないが、その後の晩餐会の時間には門の警備に行くことになってる」
「そう、だよね。私、その時にはお屋敷に帰るね」
「ああ……」
この祭にも終わりが来ることを確認し――であれば、と、カイトは気を持ち直す。
「さあ、時間がない。俺が行ってしまう前に、ハルにはもっと楽しんで貰わないとな」
「もっ、もう十分お姫様気分だったけどな……」
「であれば、次はお食事でもいかがですか、私のお姫様」
「か、からかわないで!」
「大通りの端までいけば、人が多くても何とか食べられるものもあるだろ。さあ、行こう」
手を繋ぐ。
ハルの手は、何故か先ほどまでよりも少し冷たかった。
「寒いのか?」
「……え? ううん、暖かいよ」
「そう、か」
カイトは彼女の小さな手を包み込むようにして、しっかりと握った。
――何故か、嫌な予感がした。
ハルの手の冷たさが、どうも、不吉な――
昔、昔の話です。
デザートローズ王国は、砂ばかりの国でした。
食べ物も、水も、草木も、花も、何もありません。
豊かなものは砂ばかり。
毎日毎日辛くて涙を流す人々を見とがめたのは、大きな大きな鳥の精霊でした。
「もしもし、どうしてそんなに泣くんですか?」
「ここには何もないからです」
「ふむふむ、確かにここには砂ばかり。よろしい、私がここを守護しましょう」
その優しい申し出に、デザートローズ王国の人々は喜びました。
「これをお持ちなさい」
精霊は自分の身体から水晶でできた剣を造り、人々の長に渡しました。
「これを持つ者を王とします。王にはこの剣を通して私の力を与えましょう。ただし、約束してください。王は民を平安に導くこと。そして、私の力を補う為、石ノ宮を作り魔導石を捧げること」
精霊『水晶鳥』は、ローゼライトという街を造り、王はそこに住まうことになりました。
デザートローズ王国は、首都ローゼライトを中心にして、豊かな国となったのです。
それ以来ずっと、『水晶鳥』はローゼライトの王城に住んでいるといいます。
王城の石ノ宮を眼下に眺めながら、クロウ・リヴァレッドは目を細めた。
ふと空に目をやれば、太陽は赤く傾き始めている。
「時間か……」
黒い騎士のマントを翻し、クロウは歩き始める。
「クロウ様」
側にやって来たのは部下の上級騎士であった。
「本当に戴冠式にお出にならないのですか?」
「ああ。私は城門を守る」
「しかし、第一石のあなた様が……」
「戴冠式に必要なのは、王と姫、そしてそれを証明する為の目である貴族共だけで良い」
「クロウ様……」
「何故そんな顔をする」
「……」
部下は苦々しく顔を歪めた。
「最近我らが王は、黒杖同盟から来た怪しい男を信用しすぎです」
「『黒梟』殿か」
「本当ならば、王の隣にはあなた様が」
「別に何も問題あるまい。同じように女神教会のヴァード殿も居るのだし」
「……」
「行くぞ」
「はい……」
――このように不満を持っているのは何もこの騎士だけではない。
クロウは歩きながら思考を巡らせる。
戴冠式を巡る政治的な駆け引きは、この国に悪さをもたらすのか?
答えは、否だ。
なぜならば、この国は『水晶鳥』が全てだからだ。
外部の人間の思惑が差し込まれようとも、『水晶鳥』の力に寄りかかって生きているこの国が、水晶鳥以外の何かを信じて生きていくことなどできない。
『たとえ、かの精霊が石ノ宮から既に居なくなっていたとしても』。
クロウは部下に顔を見られないように俯いて、少し笑った。
――しかも、多くの部下は黒杖同盟の黒梟を信用してはいない。
おそらく、第二石のゴード・ランフォードですら。
しかし、クロウは黒梟を信じていた。
あの黒杖同盟の男は、必ずや姫の重要な支えとなってくれるだろう、と。
「クロウ様、お待ちしておりました」
「うむ」
門の前には、既に何人もの騎士達が待っていた。
「……カイトはまだか」
「ご子息と何かお約束が?」
「いや。遅刻すれば腹立たしい、とな」
内心クロウは満足げに頷く。
――もし、愚息が隠された姫の側を離れなければ、王家の呪が強固である証拠ではないか!
来ない方が都合が良いのだが、ここは上司としては叱らねばならない。
「さあ、全員気を引き締めろ。そろそろ戴冠式が始まるぞ」
砂漠に太陽が赤く焼け落ちそうになるのを、スロットは眺めていた。
周りはすっかり疲れ切っていて、皆ぼんやりと戴冠式が行われている王城の方を見つめている。
門はとっくに固く閉ざされ、入りきれなかった者達は文句と落胆を口々に言い合っていた。
スロットもまた酷く疲れていたので、「ああ、何か美味いものでも食いてぇな」等と思うばかりで、行われているだろう儀式のことはこれっぽっちも頭にない。
ちらりと眼下に目をやると、姫の姿は明日辺りにお披露目になるだろうと言う意見と、晩餐会前にお出ましになるのではないかという意見とがぶつかり合っていた。
――どうでもいい。
スロットはとうとう大欠伸をする。
――カイトとハルが無事であれば、それでいい。
二人は今、何やらいい雰囲気になっているようなので、覗き見などという悪趣味は控えるつもりだった。
晩餐会が始まれば、カイトは王城の護衛へ駆り出されてしまう。
そうなれば、こんな門の護衛は放り出して、ハルと合流するのがいいだろう。
――カイトが居ない間は、俺が守らなければ。
「スロット」
その声にはっとした。それどころか、冷や汗まで出てくる始末だ。
「……親父」
わざわざ門の上まで、ローゼライト魔法騎士団の第二石はやってきていた。
銀の鎧と、白いマント。
同じ物を纏っていながら、しかし、ゴード・ランフォードの威圧感はスロット・ランフォードの比ではなかった。
第二石は憧憬のような色を浮かべた瞳で、スロットを見ている。
「一体、なんだってここに? 戴冠式の時間だぜ」
「戴冠式にもとより呼ばれておらんよ」
「ふうん……」
『そうですか、興味がありません』という嘘を混ぜ込んだ素っ気ない相槌を打つ。
「お前に、これを渡しに来た」
戦士故に無数の傷がついた手が差し出したのは、傷一つない真白な円柱――
「魔工?」
「分かるか」
「分かる。だって、これは、あまりにも」
「……ふふ」
ゴードは笑った。子供に玩具を与えて満足する親のように。
「こいつをやる。大事にしろ」
「これは」
「アイボリー・ノート。ランフォード家の弓だ」
「……」
受け取ると、それは見た目に反して随分軽かった。
ぐるりと全体を見回すと、黒い魔導石がきらりと光る。
ちらり、上目遣いで父親を見た。
「こいつは魔力を矢に変換する。精神の続く限り、無尽蔵に打てる代物だ。しかも魔力で物質を包めば石だろうが水だろうが何でも射られる――らしい。まあ、俺はとんと使えなかったが、お前なら役立てるだろう」
「随分と買ってくれるぜ」
不敵に笑った口元を、直ぐに引き締める。
「で、どうしろと」
「俺は、王家も、クロウも、信じてはいるが、新しい姫とその周りはそうじゃない」
「……何ぃ?」
「仕える人間を誤るな。俺も、王家ではなく今の王に仕えることにする」
「新しい姫に……何があるってんだ」
「知らん。会った事もない人間を信じよと言われる方が何かある」
――本当に会った事が無いのか。
「クロウ様は、何と」
「信じよと」
「……」
「では、俺も持ち場に戻る。お前は、その使命、必ず果たしてみせよ」
「……ああ」
白いマントが翻る。
その背中が、どうにも『やりきれなさ』を滲ませているような気がした。
赤いドレスの裾が翻る。
ハルは頬を桃色にして、華やかに笑って見せた。
「ありがとう、カイト。とても楽しかった」
「そうか。良かった」
小さな彼女。
華奢な彼女。
愛おしい、自分の仮初めの『妻』。
それとは関係ない、自分の、大切な人。
そして、失ってはならない、この国の――
「……」
何かが軋む音。
考えてはいけないと、本能が告げる。
「カイト、どうかした?」
「いや」
「顔が青いよ。疲れた? ごめんね、はしゃぎすぎて迷惑かけたかな」
「いや、違うんだ。本当に。俺も楽しかった」
その髪を撫でる。
「そろそろ行かなきゃいけない。遅れたら第一石に叱られてしまうから」
「うん……」
ハルは心配そうな顔をしていた。
いつも、笑顔で送り迎えをしてくれる彼女が。
そんなに楽しかったのだろうか?
そんなに門の護衛の仕事が心配なのだろうか?
そんなに戴冠式が恐ろしいモノなのか?
離れがたい。
離れてはいけない。
失うわけにはいかないのだ。
守り通さなければならないのだ。
――頭痛がする。
彼女は自分のものじゃない。
分かっている、自分のものじゃない。
彼女は遠い存在で自分のものじゃない。
いつ遠くに行ってしまってもおかしくない。
それを繋ぎ止めているのが自分である、ただそれだけ。
だから、離れてはいけないが、手に入れてもいけない。
分かっている。分かろうとしている。分かったつもりになっている。
――でも、分かっていても、なお。
カイトは、ハルの事が好きだった。
「ハル」
繋いでいた手を離すまいと、もう一度強く握った。
「……?」
不思議そうにしているハルを引き寄せる。
「ふえっ」
小さな身体を抱きしめた。
壊さないようにしながら、強く。
「カ、カイト……?」
「少し、このまま……少しだけだ。我慢してくれ」
ハルは一人の女だ。そこには意志があり、気持ちがあり、嫌悪がある。
カイトはそれを『妻』というレッテルを貼り付けて、尽くしてくれるように押さえつけているだけなのだ。
だからこれは甘えだ。
彼女が自分を振り払えないと分かっていて、こうして彼女を抱きしめている。
『唾棄されるべき行為』。
でも、どうしても。
軽蔑されようとも、恨まれようとも、どうしても。
彼女に一番近い場所に居たかった。
『何故か胸が張り裂けそうで、重い頭痛がしても』、どうしても。
「カイト」
ハルの柔らかい声と共に、細い腕がカイトの背中に回された。
「っ……」
申し訳なさで一杯になる。
「ごめんな」
「う、ううん。わ、私も……ずっと、こうしていたい……」
「……」
――ああ、こんなことまで言わせるほどだっただろうか。
「ごめんな」
彼女の青い瞳を見つめる。
――俺は、どうしようもなく、彼女が好きだ。初めて会った、その時から。
カイトが急に抱きしめるものだから、ハルの胸の内はパニックであった。
――何故? どうして?
「カ、カイト……?」
「少し、このまま……少しだけだ。我慢してくれ」
カイトの長身が、小柄なハルを隠してしまうほどに包んでいる。
――何だか、少し、震えている?
もしかしたら、大きな仕事の前に不安を感じているのかもしれない。
突然の事だったが、そう考えるとハルの気持ちはだんだん落ち着いてきた。
頼ってくれたことが嬉しかった。
抱きしめられるのが嬉しかった。
カイトは、貴族だ。
私は、仮初めの『妻』だ。
いつかカイトは本当に素敵な人と出会ってしまうのだろう。
もしかしたら、出世してお姫様の伴侶になってしまうかもしれない。
本来ならば、遠い遠い、こうして触れることすらできない存在なのだ。
だから今、カイトが抱きしめてくれたことが、ただただ嬉しかった。
「カイト」
だから、勇気を出して、自分も彼の背中に腕を回した。
「っ……」
やっぱり、震えているように思えた。
何が彼をそんなに不安にさせるのだろう?
「ごめんな」
「う、ううん。わ、私も……ずっと、こうしていたい……」
突然の謝罪に、思わず本音をぶつけてしまった。
これはとんでもなく恥ずかしい。
「……」
カイトは少し黙った後、「ごめんな」と呟いた。
彼の紫色の瞳が、まっすぐ自分を見ている。
――私は、どうしようもなく、彼が好きだ。初めて話した、その時から。
「あっ……」
これはもしかして、勇気を出すところなのではないだろうか?
『何故か胸が張り裂けそうで、重い頭痛がしても』、今しかないのではないか。
「カイト」
彼に顔を近づける。
少し高いところにあるその顔――唇に、唇を寄せる。
それはほんの少しの奇跡に過ぎなかった。
――ああ、何だか、随分長い時間こうしていたような気がする。
夢のような、幻のような。
しかし、それを現実に引き戻したのは、突然の「ギィイヤアアアアアア」という『絶叫』であった。
「え、え、え?」
その、絶叫は。
何処からと問われれば、空からとしか言いようがなかった。
まさに、昔『大きな世界』を引き裂いたという轟音のような、女神の嘆きと怒号のような。
「一体何だ」
一度は離れた距離が、カイトがハルの肩を抱いたことで再び縮まる。
――純粋な恐怖が二人を、否、地上を取り巻いていた。
「……空」
ハルは顔を上げ、つられてカイトが顔を上げる。
「……あれ、は?」
夕暮れの空を覆っていたのは、影であった。
何――とは言えない。
『その影はあまりにも大きすぎて、どんな形をしているかなどまるで見当が付かなかったからだ』。
「何だ、何が来た……!? ドラゴンでもあんな大きさはしていないぞ!?」
カイトの動揺がはっきりと伝わってくる。
「はっ……はっ……」
恐怖からだろうか、胸がつっかえる。
心臓がばくばくと音を立てて、今にも飛び出してきそうな。
「怖い」
目をぎゅっと瞑って、感情を口に出す。
そんな彼女を、カイトはしっかりと抱きしめてくれた。
――怖いのは同じだろうに。
ハルは目を開けて、カイトの顔を、そしてその先を、空を見た。
「……きらきらしてる」
「何?」
「ほら、あそこ」
ハルが指さした先は、確かにきらきらと輝いている。
まるで夜空の星のように、無数に。
しかしそれが瞬時に地上に墜落した瞬間、そんなロマンチックなものではないことを知る。
それは、火球であった。
魔法使いや魔導師達が行使する炎――それに似ている。
「ハル、それに近づくな!」
カイトの声は悲鳴にも似ていた。
「駄目だ、それは……『駄目だ』!」
恐らくそれは、ハルの感じることの出来ない魔法使いとしての本能からの忌避であったのだろう。
ハルは不思議とそれに恐怖を感じなかった。
否、『親しみすら覚えていた』。
事実、熱くない。触れればきっと冷たいのだと確信があった。
火球は赤くごうごうと風を巻き込みながら、まるで地面に水が染みるように広がり始めた。
そんな動きは、魔法の炎でしかありえない。
これは誰かの大規模な魔法なのだと、魔法の使えないハルでもはっきりと理解できていた。
炎が揺らめき、舐めるように手近な家屋を燃やし始めるのを非現実のように眺めていた。
「逃げるぞ」
カイトがハルの手を引く。
「ど、何処へ?」
「何処へって……」
じりじりと後退しながら、カイトは表情を苦々しい物に変えた。
夜空の星のようだった無数の炎達は、今やローゼライト中に落下していた。
人々の悲鳴が、まるで地から立ち上る雨のようにけたたましかった。
それだけで、理解(わか)る。
ローゼライトの何もかもが、燃えていることを。
「……門だ、東門へ行く!」
カイトは強く言い放ち、ハルの手を引いた。
迷っていられないほど、二人に炎は近づいていたのだ。
カイトはその炎に恐怖していた。
これは魔法由来の炎であるが、構成している魔力の量が尋常ではない。
人が触れようものなら、一瞬で消し炭に出来る能力があるのだ。
それが、どれほどこの街に落ちたのか。
誰が、どうして、何をしたくて――
「っ!」
カイトはハルに覆い被さった。
「むぐ」
苦しそうな彼女の声を無視する。
右手の店が燃えていた。
その中に、人だったものが見えていたから、ハルの目から隠したかった。
「カ、カイト?」
「……」
炎が、来る。
炎が、来ている。
どの建物もぼうぼうと燃え、人々は慌てふためき、ローゼライトを出ようと門を目指している。
だというのに、『走るだけの余裕がある』。
――あんなに人がいたというのに!
一体どれほどの炎が、一体どれほどの人々を飲み込んでしまったのだろうか?
炎に焼かれれば、何も残らない。
何も、だ。
身体も、核も、生きた証さえ。
「ハル、背中に来てくれ。背負う」
「えっ、えっ」
「このままだと炎に巻かれる。お前を死なすわけにはいかない」
彼女は少しの逡巡のあと、「うん」と小さく頷いた。
カイトは即座に背負いあげ、炎を咄嗟に避けて走り出す。
――東へ、とにかく東へ。
人とぶつかりそうになりながら、炎の動きを読みながら、カイトは東門を目指した。
きっとそこから街の外へ出れば何かが変わる――
しかし、その希望は絶望へと変わった。
『門は開いていなかった』。
人が殺到し、炎が近づいていながら、しかし門は閉まったままだったのだ。
「どうして!」
悲鳴、悲鳴、悲鳴。
「何故、誰も門を開けないんだ」
「開かねぇんだよ!」
その怒号に、カイトは驚きと同時に途方もない安堵を感じた。
「スロットぉ」
ハルが心底安心した様子で彼を見ていた。
「無事で良かった」
「そりゃこっちの台詞だ。よくあの炎を抜けてきたな」
「でも、門が」
「ああ……」
スロットは奥歯を噛んだ。
「確かに戴冠式前には閉めた。でも! どうして開かねぇんだ! 今騎士連中が仕掛けを動かしてるが、ちっとも動かねぇ!」
「……」
カイトは『何かに呪われている』とすら思った。
――だとすれば、一体、何が?
水晶鳥の加護をはねのけるほどの何かがこの世界には在るというのか?
「カイト!」
ハルの声にはっとする。
既に炎は目前に迫っていた。
「……一応聞くが、カイト。お前の氷の魔法でなんとかは、できねぇのか」
「出来たらとっくにやってるさ!」
「そうだよな、わざわざ聞いて悪かったな」
スロットは少し笑って、腰の剣を引き抜く。
それは昔、ラミーに打ってもらった剣に違いなかった。
「じゃあ、これしかねぇな!」
彼が続いて取り出したのは、真白の魔工――
「起きろ、アイボリー・ノート!」
それは甲高く鳥の声を奏でながら、黒い短弓へと変じた。
黒い魔導石がらんらんと輝き、強い魔力を放っている。
スロットはそれに、矢ではなく自らの剣をつがえた。
「お前っ」
「ラミーには謝っておくさ――お互い、生き残ってればなぁっ!」
剣は強い意志と共に放たれる。
魔工の弓だ。今までもスロットが放つ弓は強力だったが、今はそれを遙かに凌駕する力を持っていた。
矢となる剣も、また魔工だ。放たれた瞬間に纏った魔力は、あの名工ラミーの名にふさわしい出力であった。
ローゼライトの門は厳重な魔法防護がかけられているが、剣という物理攻撃の前には無力である。
ましてや、流星の如き速度であればなおのことだ。
「きゃあっ!」
ハルの甲高い悲鳴、弾け飛ぶ木材と石材と金属の音、門が破壊されたといち早く気づき駆け出す者の雄叫び。
激しい魔法の閃光に目を瞑っていたカイトの手を掴んだのはスロットだった。
「行くぞ! お前らを失うわけにいかねぇんだからな!」
「それはこっちの――」
「うるせぇ! 黙ってついてこい!」
上官も、市民も、何もかも振り切るようにして、三人はバラバラになった門を乗り越え砂漠へと転がり出る。
「ああ……」
不意に振り向いた先は、既に炎そのものであった。
砂漠の国デザートローズ、その奇跡の都ローゼライト。
その全てが、炎と成って消えていく。
城も、街も、家も、人も――
父はどうなった? 王は? 姫は?
何もかもが分からない。
何が起きたのかも、何がこの先待っているかも。
――我知らず、立ち止まっていた。
だが、炎は砂には燃え移らない。
『ローゼライトだけが燃えている』。
それは、ただひたすらに無情であった。
「……う、」
背中のハルが小さくうめいた。
「ジョアン、アラベラ、ヘザ、サンム……!」
それは、人の名前だ。
クロウの妻の名前だ。
「み、皆、どうなったの……」
逃げることで精一杯だった。だからこそ、今、彼女は思い出してしまった。
ローゼライトには、デザートローズ全土から集まった人間達がいたことを。
「クロウ様は? ラミーは? 八百屋のおじさんは? このドレスを売ってくれたおじさんは?」
「ハル……」
「皆、どうなってしまったの……!」
――泣いている。世界で一番泣かせたくない女が、泣いている。
「ハル」
背中から下ろし、抱きしめる。
その時、自分の手が震えているのに気づいた。
恐怖していた。
何もかも、炎に飲み込まれてしまったから。
「……」
傍らに立つスロットが、ぼんやりと焼ける空を見ている。
彼は悲壮な顔こそしていなかったが、やはり、恐怖を瞳に宿していた。
炎が、怖い。
人間が文明を持つ上で、最初の魔法は炎だった。
生肉を焼き、家を暖め、文明を動かす燃料を燃やした。
だから炎とは、付き合っていかなければならないものだ。
でも、恐ろしい。
目に焼き付いて離れない。
逃げ出せた幸運な誰も彼もがそうだろう。
炎が、怖い。
――ちりんと、鈴の鳴る音がした。
「……?」
座り込んだハルが、小さな鞄からそれを取り出す。
「ラミーから貰った、あの子の鈴……」
ちりん、ちりん。
砂漠の風を受けてなのか、ハルの手の中で転がる鈴。
自然と、三人の視線はそれに集まった。
ちりん、ちりん。
不思議と、心が落ち着く。
「魔法だ」
カイトはひやりと思う。
「この音は、魔導石が発動している音だ!」
分かったが、しかし、対処は出来なかった。
ちりん、ちりん。
その音に聞き惚れて、動けない。
「やべぇ魔法か?」
スロットの焦りを含んだ声。
「いや……違う、と、思う」
ちりん、ちりん。
ちりん、ちりん、ちりん。
ちりん。
「……」
長い静寂があった。
まだ、炎は燃え続けているというのに、静かだった。
とても、とても。
「……あ」
最初に気づいたのは意外にも――いや、至極当然というべきか――ハルだった。
「怖くない」
「え?」
「怖くない……」
ハルの青い瞳に、ローゼライトを焼く炎が映っていた。
「……悲しい、けど、怖くは、ない」
「……」
カイトとスロットが顔を合わせる。
「……怖くない」
「まじだ」
「これは、何だ……精神作用の魔法? そんな魔法が、こんな小さな石で、存在するのか……」
ハルの手の中の鈴はそれに応えるように鳴り、刹那ひび割れてその役目を終えた。
「……ラミーさん……」
ハルは顔をドレスの袖で拭い、しかしもう涙は見せなかった。
「無事だって思うのは、自由、だよね?」
「……ああ」
彼女が気丈に振る舞うから、騎士二人もそれに倣った。
まるでハルが、悲劇から立ち上がろうとする亡国の姫に見えていた。
――ならば、それに付き従うまで。
「いつ炎が砂に移るか分からねぇ……行こう。とにかく、人が居るところへ」
「うん」
三人は、歩き出す。
ハルが一度だけ振り向いたのが分かったが、カイトは振り返らなかった。
炎が消えた後の街を見てしまったら、もう二度と立ち上がれない気がしたからだ。
こうして、砂漠の国デザートローズ王国の首都、ローゼライトは滅んだ。
そこに住まうという水晶鳥の行方も、それを従えていたはずの王族の行方も知れなかった。
炎が消え去った後には、灰も残らなかったから。