デザートローズ王国。
『小さな世界』の南方に位置するその小国は、領地のほとんどが金色の砂に覆われていた。
それでもその国が国であった訳は、強大な精霊の存在である。
首都ローゼライトに住まう王族を守護する、大精霊『水晶鳥』。
かの精霊は代々国王に力を与え、王の持つ水晶の剣に応えて国を守る。
水晶鳥は水を生み、緑を生み、首都ローゼライトは砂の王国の中にあって大いに栄えた。
一方でそんな特異なこの国は、閉鎖的な文化を幾つか抱えていた――
「そろそろ時期だ。お前もそろそろ嫁が欲しくなっただろう?」
その男は。
恰幅のいい、巨大とも呼べる体をこれまた巨大な椅子に押し込めていた。
カイトはそんな男を、祖父だとは思いたくなかった。
祖父は周りに『妻』を侍らせ、彼女たちがねだるまま酒や果物を自分の皿から分け与えていた。
さながら女達は、犬。
「初孫のお前にはいいのを揃えてやりたい所だが、こればかりは行ってみないとわからんの」
黙れと怒鳴りたかった。
カイトは目を閉じ一礼して「すみませぬ、友との約束があります故に、失礼いたします」とその場を去ろうとする。
「これこれ、忘れ物じゃ」
祖父がとある『妻』を使って渡してきたものは、小さな銀の輪であった。
「リリの輪……」
指輪にしては大きく、腕輪にしては小さい。
「常に持つのが紳士の嗜みであろう? 気になる娘に出会った時、持っていませんでは済まされんぞ。なあ?」
周りの『妻』達は「そうですね」などと口々に同意を零した。
「私も老い先短い身だ。まずは一人、私の前に見せてごらん」
投げて捨ててしまおうと思ったソレを、仕方なくカイトは懐にしまいこんだ。
――こんなもの。
汚らしいものを見るように、カイトは部屋を出た。
この国の忌まわしい習慣。
胸に違和感を感じ、足早に水辺に行き、朝食に取ったものを吐いた。
全て。
搾り出すように。
胃が、喉が胃酸で焼けるようだ。
――こんなもの。
もう一度思考する。強く、強く憎む。
――どうして俺はこんな血で生まれた。
強く。
憎んで止まない。
病むほどに。
デザートローズ王国には、貴族に『女』を差し出す古くからの仕来りがあった。
それはつまり政略結婚であり、貢物であり、奴隷であった。
幼い時から、カイトはどれが自分の母なのか分からないままに生きてきた。
どの『妻』達も『夫』の機嫌をとり、妖艶に笑い、肌を露出させることしか考えていないような奴等だった。
また、鈍い吐き気。
『妻』を輩出した一家には報酬と贔屓目をかけるのが伝統であった。それを狙ってこの地域では女を産むことが好まれた。
貴族に差し出すため。
それだけのために、女は生まれ、育てられ、売られる。
ローゼライト周辺ではその仕来りもだいぶ薄れたが、今でも貴族に女を差し出そうとする村は少なくない。
「くっ……」
もう吐くものなどないのに、胸はずっと焼けたように痛い。
これから親友に会いに行くというのに。
リリの輪が。
女を縛る首輪の金具が。
カイトの心をずたずたに引き裂く戦輪のように感じられた。
いっそのこと捨てていこうかとも思ったが、見咎められても問題になる。
――思い切りが足りない。
そんな自分が本当に嫌いだ。
ふらふらとする頭と足を叱咤して、カイトは身支度を整え、外に出る。
夏の暑い陽射しは容赦を知らないようだった。
騎士学校最後の夏季休暇。何も考えずに休めるのは今年までだ。
来年からは召喚命令があればいつでも仕事に行かねばならない。
年末の入団試験に合格すれば、だが。
待ち合わせの「石ノ宮」は、ローゼライトにいくつも存在する水晶鳥を祀る施設だ。
人々はここに祈りを捧げ、魔導石を寄付する。
水晶鳥の加護が明日も続きますように、と。
外のベンチに座り、ぼんやりと空を見る。
――雲が多い。珍しい事もあったものだ。
「おーっす、お待たせっ!」
ぱたぱたと走ってきたのは、見慣れた親友であった。
スロット。
カイトの家、リヴァレッドと交友の深いランフォード家の跡取り息子。
幼少期からの付き合いで、騎士学校の同期。
いわゆる幼馴染であった。
「……」
その黄色の瞳が、細められる。
「カイト、また痩せたか?」
「え?」
「夏季休暇に入る前だから……一週間ぶりだろ? だっつーのに顔が変わりすぎだ」
「……そうか?」
「そうだよ!」
スロットはカイトの腕を引いて、大通りに出ていた露店に突き出した。
「二杯くれ! 大盛りで!」
「あいよ」
そうして彼がカイトに突きつけたのは、ガラスの器に入ったスープのようなものだった。
氷が浮かんでいて、触ると冷たい。
「……これは?」
「最近東方から来た甘味だよ。ったく、それっくらい知っておけよ、もてねぇぞ」
「……」
また、胃痛。
「……本当に何があったんだよ」
二人は中央広場の噴水の近くに腰掛ける。
「あーあ、野郎二人で流行の甘味を食うってのも虚しいもんだ」
「俺、帰ろうか」
「真に受けんな、馬鹿」
匙でスープの中身をすくうと、何やら黒い真珠みたいなものが顔を出した。
「……これ、食い物なのか?」
「んあ?」
既にスロットはそれを頬張っていた。
からかう為に用意されたものではなさそうだ。
恐る恐る口に含むと甘かった。
黒い真珠のようなものは弾力があり、スープ自体は濃い紅茶と牛乳を混ぜたもののようだ。
「……」
甘い。
だが、胃はそれさえ受け入れるのを拒んでいるようだった。
「食ってねぇのか? それとも、吐いてるのか?」
スロットの静かな問いに、カイトは小さく頷く。
「どっちもだ」
「実家に戻って何があったっつーんだよ、馬鹿」
「何もないから、というか。……祖父がな」
「あー」
スロットは早くも食べ終わっていて、匙を器の中でからからと回した。
「見合いか?」
「……これを渡された」
リリの輪を見せられたスロットは「うわあ」と頬を引きつらせた。
「お前の家、熱心だからな……古い貴族ってのは大変だ」
「お前の所だってそう変わらないじゃないか」
「馬鹿言えよ」
スロットは目を細める。
「俺の家は……お前の家の影だからな。大っぴらにはうごかねぇよ」
「……」
「後、俺はまだ伴侶とかいいや」
羨ましいと思えた。
その、自由さと思い切りのよさが。
「家にいると、祖父と父の『妻』ばかりで……寄宿舎が恋しいよ」
「重症だな」
「しかも、今度はそれを俺にしろという」
器の中身を煽った。
胃に、爛れたような痛みを感じる。
「で、食ってないし、食っても吐いてるのか」
「……」
無言の肯定に、スロットは「はあ」と溜息を吐いた。
「受け入れちまえば楽なんじゃねぇか?」
「それが出来れば苦労しない」
「だよな。お前にそんな事が出来るとは思えねぇよ」
スロットは「お前、今まで女に声かけられてもかるーくあしらってたもんな」と笑った。
「魔法騎士になるのにそんな面倒なことに巻き込まれたくない」
「色恋を面倒とか言うなよ……楽しいぜ? 喜ばしたり、好きだって言ってもらえたりな」
「……」
それを、きっと愛されてるというのだろう。
しかし今はその単語に、あの『妻』達が重なって見えてしまう。
「っ悪い、……厠に……」
「おいおい!」
――結局、半分以上を吐いてしまった。
しかし、スロットの気遣いは確かに心を少しだけ晴らしてくれた。
器と匙を屋台に返却し、さて本来の目的である大図書館へ行こうとした時、大通りが騒がしい事に気づいた。
それに、不穏な空気を感じる。
「何だ……何か見世物でもあったか?」
とりあえず野次馬根性で二人は大通りへと向かった。
人混みの中からは「ああ、騎士様」だとか「お姿を拝見できるとは」だといった声が波のように広がっていた。
「騎士……誰だ?」
人垣の向こう側をスロットが覗き、「あれ……」と表情を真剣なものに変えた。
「あれって……クロウ様じゃないか」
「父上……?」
カイトも慌てて人垣を掻き分けた。
――もう半年以上、その姿を見ていなかった。
「……父上」
多くの騎士を引き連れて大通りを往くのは、紛れもなくカイトの父だった。
――同じ顔だ。
カイトは思わずそう思った。
間違いなく、あれは自分の父親なのだ。
たとえ母親が誰か分からなくても。
騎士の一団は真っ直ぐに前を見つめ、どこにも視線を動かさず、大通りを過ぎていった。
後には「一体何があったのか」というざわめきだけが残される。
「クロウ様、随分見てなかったが、何かあったのか?」
スロットの問いに、カイトは小さく首を横に振る。
「半年以上前から見てなかった……重大な任務があるから、と」
「でも今、王宮の方から来たよな? ……何か、あったのかね」
「……」
おそらく、誰もが不安になっただろう。
それだけ、クロウの表情は厳しいものであった。
「……家に戻るか?」
「いや」
スロットの提案を断り、カイトは踵を返す。
「先に調べ物を済ませよう。騎士試験、落ちるわけにはいかないからな」
「……おう」
一度だけ、父親の去った方向を見た。
何もありはしないのだが、足跡に黒い澱みが溜まっているような気がしてならなかった。
スロットとは幼い頃からの親友だ。
二つの家はローゼライト王家に使える騎士家系で、互いに密接な関わりを持っていた。
光と影。
しかし、スロットはその関係を笑い飛ばす。
関係ないと。
使命があると言うなら、己が自覚するまで知った事ではない、と。
目の前で本を捲って唸る彼を見ながら、カイトは思考する。
――スロットが居なければ、きっとこの澱みに気づく事もなかったのに。
多分、知らない方が幸せだったのだ。
『妻』の歪みに。
「魔法、魔法ね……うん……魔導石……試験での対策……うん……」
スロットはぶつぶつと呟きながら、眉間に皺を深くしている。
――デザートローズは魔法の国だ。
他の国とは違い、魔法の才を持った人間が多いのだ。
その割合は、ほぼ全員。
故に、魔法の使えないものは差別の対象である。
貴族に『それ』が生まれようものなら、その家自体の存続が危ぶまれるほどに。
その人生を逆転するには、唯一つ。
『妻』になり、庇護を受けることだ。
貴族は弱いものを守らなければならない――そんな、建前があるからだ。
実際には、使い潰しの効く道具に過ぎない。
彼女達は貴族に媚び、精神をすり減らし、身体を酷使し、ぼろぼろになる。
祖父にもそんな『妻』が何人も居た。
「実技の方はどうでもなるだろう。お前の腕なら」
あまりにも唸っているので助言してやると、「ばっかいうなよ……」と睨まれる。
「お前と違って俺はそんなに魔法得意じゃねぇの! 苦手な魔導石しか配置されなかった時の場合を考えて、こう、な!?」
「まあそれは……そうなんだろうな」
「くっそだからこの天才は!」
スロットはカイトの鼻先に指を突きつける。
「あのな、お前みたいに多種多様な魔法を放てる《核》なんて世の中にそんなねぇの! だからみぃんなこうやって勉強してんだよ、分かるな? な? はい、は?」
「は、はい」
「よし!」
一人で話して、一人で満足されてしまった。
――二人は騎士学校の校舎に併設された図書館に篭っていた。
年末の騎士試験の為に調べ物をしに来たのだが、回りの席は同じような考えの騎士候補生で埋まっている。
「お前だけ受かって、俺が受からなかったら何にもならねぇんだっつーの」
「でも」
カイトは目を細めて笑う。
「長距離武器戦闘でお前と当たったら、俺だけ落ちるかもしれないな」
「ばーか」
スロットはこちらを見ない。俯いて、本を読みながら少しだけ口元を緩ませただけだ。
「俺に弓で勝てるわけねぇだろ」
「うん」
くるくると彼の手の中で羽ペンが踊る。
「……心配してねぇよ、お前のことは。だから俺にさっさとこの問題の答えを教えろ」
「はいはい」
騎士試験に落ちたら、二人の価値はなくなる。
いや、二人だけではない。
どの騎士候補生達も、落ちたらそれまでだ。
彼らは家に戻り、疎まれながら細々と仕事に従事する事になるだろう。
それは不幸だ。家にとっても、自分にとっても。
だから必死に学び、実践するのだ。
「――カイトさん、ですか?」
夕日が差し込む頃、不意に史書から声をかけられた。
「はい」
「あ、あの……騎士クロウ様の使者と言う方がいらっしゃっています……」
「……」
ちらりスロットを見る。
彼は厳しい表情で「待たせたらわりぃだろ?」と顎で入り口を示した。
「悪いな」
「いいって。何かあったら埋め合わせさせてやる」
「ああ」
荷物を手早く攫って、出口に急ぐ。
待っていたのは見たことのない痩躯の男だった。
「クロウ様のご子息様ですね。お顔がそっくりでいらっしゃる」
彼は驚きにも似た表情でカイトに話しかけた。
「それで――」
「はい。早急にお屋敷にお戻りください、クロウ様がお待ちです」
「俺、を?」
「はい」
彼はさっと右手で小型馬車を差す。
「お急ぎを」
「……」
拒否権はない。
父親である以上に、権力者なのだ。
カイトは座席に身を滑り込ませる。
痩躯の男の動きは速く、カイトが座った次の瞬間には車輪が回り始めていた。
――まるで死者を乗せて往く夜の車のようだ。
そう思わずにはいられなかった。
クロウ・リヴァレッド。
ローゼライト魔法騎士の位は第一石。
隣国トルパゾとの魔導石を奪い合った戦争で相手国の司令官の首を取り、名を上げた。
カイトの実の父。
リヴァレット家の次の頭首。
そんな男が、目の前の豪奢な椅子に座っていた。
「まあ座れ、カイト」
カイトは言われるがまま、無言で向かいの椅子に座った。
「半年振りか。痩せたようだが、具合でも?」
「いえ……」
「ならいい。任せたいことがある」
クロウは青みがかった紫色の瞳をカイトに真っ直ぐに向ける。
「南のマクルは知っているか?」
「え、いや……知りません。浅学非才ですみません」
「いい。寂れた小さな村だ、知らぬのもしかたあるまい」
彼はふっと指を宙に躍らせた。
「ここがローゼライトだとすれば、マクルはここらへんだ」
「はい。……、その村がいかがしましたか?」
「うむ」
クロウはあからさまに、深刻さを滲ませた溜息を吐いた。
「お前に視察を頼みたい」
「……なんですって? 視察? それを、俺に?」
「ああ」
騎士の言う視察とは、村や町がどれほど発展しているか、何かに困っていないか、災害や疫病が発生してはいないか、そういうものを調べるものを指す。
騎士の主な仕事だ。それを、カイトにやれと第一石の騎士は言う。
「恐れながら、まだ俺は騎士ではありません。しがない候補生でしかないんですよ」
「重々承知だ。しかしこれは、騎士に頼めんのだよ」
「何故」
「『聞きたいか?』」
その言葉は重かった。
拒否を孕んだ、静かな迫力。
カイトは「いいえ」と呟くのが精一杯だった。
「となれば、危険な事は身内にさせるしかあるまい?」
「なるほど」
――危険。
騎士とはそういったものを部下にさせるのは恥だ。
命の賭ける物こそ、自分でやる。
でなければ『失格』の烙印を押されるだろう。
「視察だ。それ以上のことはしなくていい。やり方くらいは学校で習ったな?」
「ええ」
「お前が巻き込んでもいいと思える人間がいるなら頼むといい。最も、ランフォードのせがれくらいだろうがな」
「お見通しですね」
「伊達に十数年『親』をやっておらんよ」
クロウは話題を切るように、組んでいた足の左右を変えた。
「時間が惜しい。頼まれてくれるな」
「武器は何を」
「ははは……」
クロウは先ほどまでの厳しい様子が嘘のように、穏やかに笑う。
「視察だよ。モンスター退治じゃあない。見栄えのいいものでも持っていくといいさ」
「しかし、危険、と」
「危険さ。でも、武器は関係ないな」
「……」
父親の意図がまったく掴めなかった。
「本当なら、今からでも行って欲しいんだが」
「い、今から?」
カイトは思わず窓を見た。
夕闇は既に街に降りていて、今にも全てをすっぽりと包んでしまいそうだった。
「夏とはいえ夜は冷える。コートを出させよう」
「……はい」
拒否は許されそうになかった。
カイトは退出しようと立ち上がったが、「ああ、そうだ」と引きとめられる。
「リリの輪は持っているか」
「……父上まで何を言い出すのです」
「持っているのかどうか、だ」
「持っています」
「そうか。大事にしろ、ただ渡す時は雰囲気を重視することだ。甘い事は悪い事ではない」
「善処します」
目を逸らし、カイトは今度こそ立ち去る。
胃がむかむかと不調を主張していた。
「スロットを呼ばないと」
今何処にいるのだろうか。
まだ図書館にいるとは考えにくかった。彼は飽きっぽい。
自分の屋敷に帰っているだろうか?
そう思いながら長い廊下を歩く。
窓の外はもう暗く、厚い雲に覆われ始めていた。
使者を送って連絡をつけると、返って来た答えは「いいぜ」だった。
装備を整えて迎えに行った時、スロットは可愛らしい女性と別れのキスを交わしていた。
「わりぃ、待たせた」
「いいのか? 彼女……」
「いいよ。それに、お前の頼みを断るわけねぇだろ」
「すまない」
「あやまんなよ」
スロットはけらけら笑って、「俺もクロウ様の依頼は気になる」と頬をかいた。
「一体何が起きてんだよ? だって、俺達騎士じゃあないんだぜ?」
「それは俺も聞いたよ」
話しながらも二人は厩(うまや)に急ぐ。
――カイトの愛馬は青毛、スロットは栗毛だ。
カイトも乗馬には心得はあるが、それでもスロットの方が上手く乗る。
ひらり飛び乗った彼は「先導してくれよな」と笑った。
「ああ。……行くぞ」
闇夜を駆ける。
太陽の恩恵を受けられなくなった大地は、ひんやりとしていてまるで蛇の肌のようだった。
二頭の蹄が砂を巻き上げる。
――父上は一体何を抱え込んでいるのか。
――そしてそれの何処を、自分に分け与えたのか。
考えは尽きない。
それでも、この依頼を完遂しなくてはと幼くも思っていた。
「なぁ!」後ろから声が飛んでくる。「何処に向かってるんだっけ!?」
「マクルって村だ!」
風の音に負けないように声を張り上げた。
「知らないな……何があるんだって!?」
「俺も知らない!」
「何だよそれ!?」
「とにかく行けと、そういう話だ!」
「クロウ様、何考えてんだろうな……!」
風は冷たく、肌を切るようだった。
それでも、胸の中の不安と疑念は熱を持って、ぐるぐると心臓の中で周っている気がする。
――どれほど走っただろうか。
「……見えた!」
最初に声をあげたのはスロットだった。
「ど、何処だ?」
「この方角でいい、間違ってねぇ!」
スロットの《核》の魔法の力なのだと悟る。
彼の魔法は、遠くの物や小さな物を『視る』ものなのだ。
「でも……灯りはあっても人の気配が『視』えねぇな。暴動とかじゃなさそうだぜ!」
「暴動だったら俺達の手には負えないだろ……いや、でも警戒しろ!」
「了解!」
油断してはいけない――何が起きているのか、分からないのだから。
二人は村の入り口で馬を止めた。
闇夜に沈む村は静かだ。しかし、異常には見えない。
皆家で寝る前の祈りでも捧げている時間だ。
「……」
二人は顔を見合わせ、とりあえず徒歩で村に足を踏み入れる。
「踏み入るのは誰ぞ」
門番の声が響いたが、その姿は闇に紛れて見えない。
「カイト・リヴァレッド、騎士候補生である」
「スロット・ランフォード。右に同じ」
「なんと」
門番の声は動揺を孕んだ。
「そこでお待ちを、貴族様――」
何者かが立ち去る音がし、とたんに村全体が騒がしくなる。
「おいおい……異変はどちらかというと、俺達じゃねぇか?」
「……奇遇だな、俺もそう思った」
「何が起きてるんだっつーの……」
家々の扉が開き、中から村人達が顔を出していた。
皆口々に「貴族様」「ローゼライトから?」等と噂している。
――居心地が悪い。
ややあって灯石(あかりいし)を携えながら現われたのは、軽鎧を纏った老人であった。
「失礼いたした。村長がお会いになりまする」
「夜分にすまない……」
「構いませぬ。むしろ、こちらこそ夜分に申し訳ない、と」
「……?」
意図が掴めない。
二人は流されるようにして、門番の老人に案内され、村長の家へと招き入れられた。
質素な家だ。ローゼライトからすれば、この村は貧困に喘いでいるに違いない。
「ようこそおいでくださいました、貴族様」
「カイトと申します。こちらはスロット」
「ども」
壮年の村長と軽く挨拶を交わし、ちらりと顔を見合わせた。
――普通、だ。悪事を働いている人間には見えなかった。
「視察なのでしょうね」
「は?」
「いえいえ、隠さなくても――嬉しく思いまする」
――視察は不安に思われる事はあっても、喜ばれるものではないと記憶しているのだが。
「あんさ、こんな夜分に迷惑だっただろう?」
「とんでもない!」
スロットの言葉に、村長は手と首をぶんぶんと振った。
「いつお呼びするかと迷っていたところなのですよ」
「……すまない、一体何があると言うんですか」
「ええ、ええ! ご案内いたします」
村長は浮き足立った様子で「さあ!」と二人を促した。
カイトとスロットは困惑しきりだ。
それでも村長が近くにいる以上、相談する事も憚られる。
仕方なく、促されるままに二人は夜の村を歩いた。
どの家からも村人達が顔を出し、二人を興味深そうに見つめている。
「……」
そして、カイトは気づく。
そこに女が居ない事に。
他の村ではやれ「私を妻に」だ、「家族が大変なんです」だと声をかけられるものなのに。
ここではあの悪しき風習がないのだろうか。
「一体何処に連れてくんだよ」
「ああ、すみません、わしとしたことが……」
彼は「孤児院をご紹介いたします」と二人に告げる。
「孤児院……?」
村の一番奥に建てられていたそれは、かなり大きな建物だった。
ようやくそこで女の姿を見た。
孤児院の職員だろう彼女達は、修道女のような身なりをしていた。
「お待ち申し上げておりました」
カイトの背中に汗が伝う。
不気味な予感が芽吹いた。
でも、もはや逃げることなどできず。
「さあ、どうぞ」
カイトは中に入るなり、言葉を詰まらせた。
そこには。
女ばかりが。
礼儀よく、美しく笑い、カイトに視線を向けている。
その数、カイトの頭では考えられないほど多く。
「……っ」
あまりのことに、おさまっていたはずの吐き気が胸をついた。
「これ、は」
「はい」
職員女性が答えた。
「身内をなくした子達です。それでも逞しく、健気に生きているんですよ」
逞しく、健気に?
カイトは思わず職員女性を睨みつけた。
違う。そうじゃない。
彼女達は、まず、生きていない。
これは、生きているといわない。
「いったい、ここで、何を……」
「はい。皆、淑女としての教育を熱心にしております」
皆一様に笑い、丁寧に礼をした。
それは、孤児院で行う教育の賜物なんだろう。
でもそれは。
女として、どう貴族に選ばれるかを重要視していて。
彼女達は、同じ表情でカイトを見つめている。
まるで量産された「何か」のように。
「すまない――」
『妻』にしてくださいという、明るい、無邪気な願望。
ヒトを歪ませる毒を注がれた女達。
それに、耐えられない。
見られたくない。
「お、おい、カイト」
スロットが先に我に返り、気遣ってくれる。
しかし――限界であった。
「少し、一人にしてくれ」
まあっと感嘆の声と「カイト!」というスロットの叫びを無視して、カイトは外へ出た。
――吐ける物を全て吐いて、隠れるように岩場に座り込んだ。
もう何も、誰にも会いたくない気分だった。
自分の存在全てが嫌になっていた。
やがて空は泣き始め、あっという間にずぶ濡れになってしまう。
それでも、動く気はしなかった。
遠くから誰かを探している声が聞こえてくるが、応える気もしない。
――全てを放り出して、このまま何処かへ行ってしまおうか?
カイトはその考えを自嘲的に笑うことで振り払った。
そんな勇気、ないくせに。
「……っ!」
何かが動く音がして、カイトは思わず身構えた。
土を踏む音。
濡れた大気を転がす音。
息の音がし始めたとき、ようやくその姿を捉えることができた。
愛馬を引いた、少女の姿。
「なっ……」
思わず声を失う。
彼女は雨具も調えず、寝巻きも同然の姿で彼の前に現れた。
ふんわりとした桃色の髪。
しかし前髪から透けて見える彼女の青い瞳は、あの孤児院の女達と同じだった。
「……」
鼓動が早くなる。
それは己が畏怖しているようにも思えたし、歓喜しているようにも思えた。
とにかく、正体不明の深い感嘆がカイトの胸に沸いていた。
しばし無言の谷があり、馬の呼吸だけがやけに大きく聞こえる中、二人は互いに見つめあった。
「……」
「……あの」
少女が先に、ぽつりと呟く。
「村を出るなら今ですよ」
「……は?」
それは予想の範疇を超えた言葉だった。
「……何を、言ってる?」
「?」
少女は首をかしげた。
「先ほどお見かけした時、帰りたそうにしていた気がして」
「……」
それは良く見ていたと褒めるべき所なのか。
「それで、馬を?」
「はい」
「……それで機嫌をとったつもりか?」
少女はまた、よく分からないといった顔でカイトを見る。
「貴族の方が一番喜ぶことをしなさいと、親に教わったので」
「……親? 親がいるのか?」
「流行り病で亡くなりました」
「……今は孤児院に?」
「はい。そこで一年ほど暮らしています」
「そう、か」
また、沈黙が落ちる。
「……お前は、何も言わないのか?」
「はい?」
「『妻』にしてくれ……とかな」
「……」
彼女は肩をすくめて、微かに笑った。
「私は、迎えを待っている立場ですから。私から言えることなんて、何もないです」
「……」
「普通の生活をすればいいと、母が言っていましたから」
「……」
聡明な母であったと、思った。
その教えを守り、彼女は生きているのだろう。
なんて――普通の。
「さ、お早く。お連れ様も逃げているはずです」
「スロット……!」
「あなた方を帰したくないんですよ。きっとこの場で、妻を選ばせたがってるんです」
「……」
カイトは彼女の手から手綱を受け取り、その濡れた背に飛び乗る。
「じゃあ、何故お前は俺を帰す」
「貴方がそれを望んでいるように思ったから。ただ、それだけ」
彼女は、笑った。
それが演技なのか、本心なのかは分からない。
媚びているのか。
でも、カイトは聞かずにはいられなかった。
「名前は?」
「私の?」
「他に誰がいるっていうんだ」
「――ハルです」
「ハル」
カイトはようやくそこで微笑むことができた。
「助かった。風邪を引かないようにしろ」
「貴族様こそ」
カイトは応えず、そのまま馬を走らせる。
村人達が「いたぞ!」などと叫ぶ間を駆けて、カイトは村の出入り口に急ぐ。
「おお、カイト!」
スロットはやはり、そこに居た。
「馬がいねぇし、来ないかと思ったぞ」
「助けてくれた人がいた」
「何ぃ……?」
「貴族様、お待ちを!」
引きとめようとする村人達をカイトはきっと睨みつける。
「悪いな、今日は帰らせてもらう――報告はまた今度に!」
二人は馬を走らせた。
――村を出てしばらくしてから、一度だけ振り返った。
もう彼女の姿は見えないが、脳裏に彼女の姿は鮮明に残っていた。
彼女は咎められたりしなかっただろうか。
そう思うと胸がずきりと痛んだ。
「はぁああ……一体なんなんだよあの村はっ!」
スロットが叫ぶ。
「孤児院ってあれじゃ奴隷院だっ! お、女をなんだと思ってるんだ……!」
「……それだけあの村が貧しいんだろう」
「だからって! だからって、あれは……!」
「分かってる!」
許されるものではない。
これが『女神教会』に知られたら、おそらくお咎めがあるだろう。
人の尊厳を踏み躙る行為だ。
風習や慣習では抑えきれない、人間の欲深い業だ。
「どうすんだよ……? クロウ様、きっとこれをお前に見せるために頼んだんだぞ」
「……報告をする。とにかく、真実と、俺がどう思ったか、と。それ以上は俺達の手に余るよ」
「おう……そうだな。それしかない、よな」
二人は朝が近くなるにつれて強くなる雨の中を、家路へと急いだ。
「お帰りなさいませ」
家に戻れば、父親の『妻』の一人がカイトを出迎えた。
「こんなに濡れて――今お召し物を」
「いい」
その手を振り払う。
彼女は愕然とした表情を見せた。
そう、これだ。
貴族から心無い言葉をかけられた時、女はこういう表情をするのだ。
しかし――『彼女』は目を丸くするのみであった。
それが、新鮮だった。
「父上は?」
「あ、はい……自室でお待ちです」
「分かった」
自室で手早く着替えて、父親の部屋へと向かう。
――クロウはカイトの姿を見るなり、「どうだった」と目を細めた。
どうやら眠らずに待っていたようだ。
「……知っていたのですね」
「まあ、な。本当かどうか――見て来たのだろう?」
「はい」
カイトは村の様子を事細かに話した。
クロウの眉間に皺が寄る。
「……そう、そうか。ふむ」
それは期待が裏切られた、という表情に見えた。
「何か――」
「うん? うん……いや、何でもない」
クロウは眉間を揉む。
「……対応せねばならんな。今回の件、よくこなしてくれた」
「はい」
「疲れただろう。今日は休め。……また何か頼むかもしれんが」
「はい」
カイトは父親の落胆に疑問を感じながら。しかし疲労から何も尋ねる事が出来なかった。
自室に引き上げ、窓の外を眺める。
休めなかった分、身体も心もぼんやりしていた。
身体の為に少しは寝なければならない。しかし、それには心が昂ぶっている。
椅子に座り、ふと懐のリリの輪を取り出し、眺めた。
小さな銀の輪。
指輪にしては大きく、腕輪にしては小さい。
――これを、渡されるために、女達は笑うのか。
――これを、渡されるために、村人は子を成すのか。
こんなものが。
くるり、朝陽にかざすと、それは美しく輝いた。
「……」
脳裏に『彼女』の顔が過ぎった。
『彼女』もまた、そのうち『妻』の立場を望むようになるのだろうか。
雨に濡れて、『無気力』な瞳で笑う彼女。
『彼女』は犠牲者なのだ。
この社会を回す悪意の。傲慢の。汚れたものの。
その中で、逞しく、健気に生きている。
――でもそれが全部自分の気を惹くための演技ではないのか?
そんな考えがぐるぐると脳内を掻き回し、また吐き気をもよおさせる。
でも。
頭から彼女が離れない。
どうしても。
「――カイトッ!」
まどろんでいた意識に、慌てた様子のクロウの声が飛び込んできた。
「父上が、マクルに向かったぞ!」
「……は?」
何を言われているか理解が出来なかった。
「我々の話を『妻』から聞いたのだ……! 貴族の慈悲と申して、馬車で向かった!」
「……!」
新しい『妻』を娶りに行ったのだ。
――まずい。
また、彼女の顔が浮かんだ。
祖父に目をつけられたら――
「カイトッ!」
クロウの怒鳴り声が、カイトの意思を覚まさせる。
「お前、このままで良いのか!」
「……!」
――何故とか、どうしてとか、そういう感情が沸いた。
だがそれ以上に、時間がないことが分かっていた。
カイトは逸る気持ちをそのままに、一目散に向かった。
額に汗が浮かぼうとも、それを拭う事すらできないまま。
愛馬は疲れているだろうにカイトを健気に待っていた。
飛び乗り、駆ける。
突き動かされる衝動のまま。
――祖父は、孤児院の前にいた。
すんでのところで間に合ったことを悟ると、カイトはその巨体の前に躍り出て膝を着く。
「どうかっ、お待ちをっ!」
緊張と酸素の不足で息が跳ねた。
祖父は訝しげにカイトを見ていたが、そのあまりの迫力に何も言わない。
「私に、お情けを。どうか、先に、選ばせていただきたい……!」
「……ははは、何事かと思えばそんなことか!」
祖父は大げさに笑った。
「よいよい。かわいい孫のためだ、いくらでも譲ろう」
その言葉をもらうや否や、カイトは孤児院の扉を開け放った。
「貴族様……!」
感嘆の言葉が漏れる。
それはどの女からも口々に溢れ「我こそは」と顔を引き締めていた。
だが、カイトはそんなものに見向きもしない。
――どこにいる。
女達をかき分け――その度に落胆の声が響いた――カイトは歩く。
彼女は女達の中にいなかった。
壁際で遠巻きにそれを見ていたのだ。
カイトは駆け寄る。
周りでは「え?」とか「何で?」とかいう声が漏れた。
きっと彼女はそういう意味で目立たない女だったのだろう。
「ハル」
彼女は何も言わなかった。
ただ驚いて、カイトの顔を見つめるだけだ。
「迎えに来た」
結局祖父は二人を連れて屋敷に戻ってきた。
それはとびきりの美人二人で、確かに比べてしまえばハルは地味な少女だったかもしれない。
でも彼女たちの笑顔を見た時、やはり吐き気を抑えられなかった。
何度見ても、慣れそうにない。
そう思っていると、自室の扉が遠慮がちに叩かれた。
「どうぞ」
これまた慎重に入ってきたのはハルである。
しかしその出で立ちは先ほどまでのものとは大きく違った。
金と銀とが織られたドレス。
湯と香の匂いが離れていても分かった。
父の『妻』達にあれよあれよというまに整えられたに違いない。
「……どうだった?」
「どうって――」
ハルは困ったようにドレスの裾を持ち上げる。
「重いです」
「……そこは、こう、もっと。そう、貴族になった気分、という感想は?」
「いえ、あんまり」
本当に変わっている。
カイトは肩をすくめて、部屋の真ん中にある大きな卓の席に彼女を座らせる。
「食事にしよう」
「……」
彼女は身を小さくした。
「? どうした……」
「……」
彼女は右手を上げようとして、やめた。
「……ああ」
カイトは思わず、顔を背けて笑った。
「いいよ。気にしないで。汚そうが何しようが」
「気にします」
ハルは不満そうに食事を見つめた。
「美味しそうですが、美味しそうに食べれる気がしません」
「親父の『妻』なんかは、それはもう飛びつくように食べていたが?」
「……」
彼女は言われたとおり、飛びついて食べようとして――やはり、やめた。
「重いです」
「……嫌に冷静だな」
カイトはパンを千切って――それこそ大嫌いな祖父のように――彼女の口元に運んでみる。
「……」
よほどお腹が空いていたのだろう、彼女はそれを何の躊躇いもなく食べた。
「犬か」
思わず心の声を外に出してしまった。
「似たようなものでは?」
「……まいったな」
なかなかどうして。
「……例えばの話だが」
「はい」
「俺が、犬みたいにしろって言えば、するのか?」
「ええ。それがお望みでしたら」
そう言い放った彼女の瞳の色にカイトは身構えた。
あの瞳だ。
均一化された、貴族の『妻』の目。
――そんな顔をさせたいわけじゃない。
「……すまない。そうさせたいわけじゃないんだ」
「そうですか」
彼女は小さく頷いた。
「まだ、妻ではありませんからね」
「……そうだ」
カイトはちらりと窓際に設置された小さな机の上を見る。
そこには革できた「首輪」があった。
リリの輪と合わせて彼女に巻けば、『妻』になる。
そういうこと。
「何が食べたい?」
「……」
「遠慮は要らない。俺の手を煩わせることは考えなくていい」
「……じゃあ」彼女は少し、身を軽くした。「その、果物を」
カイトは柑橘類らしきそれをフォークで彼女の口元に運んだ。
遠慮がちに、しかし大胆に彼女はそれを食べる。
もぐもぐと口を動かす様子は、何かの小動物のようだった。
「美味しいです」
その微笑に、カイトは満足する。
「……貴方様は食べないんですか」
「ああ……今はいい」
今の笑顔だけで良かった。
「……」
ハルは急に立ちあがって、卓から離れる。
「? おい……」
するり、衣擦れの音。
彼女は胸元のリボンを外し、その下の革紐を解いた。
すると何をお節介な話か、彼女の身を覆っていた煌びやかなドレスはすとんと床に落ちる。
「――は?」
思わず目を疑っていると、彼女は少しも羞恥心を見せずに言い放った。
「こういうことでしたか?」
「……いや、はぁ?」
思考がついていかない。
「貴族様の望むことを、と教えられてきましたから」
ハルはコルセットを外しながら、何の淀みもなく言う。
あっという間に一糸纏わぬ姿になった彼女を見て、ようやくカイトはその体から目を逸らした。
「なっ、何を言ってるんだお前は!?」
「食事でなければこういうことかと思いまして」
「服を着ろ!」
「はい」
また、衣擦れの音。
「違ったんですね」
「大間違いだ」
しばらく目を逸らしていたが、衣擦れの音がずっと続いているのに違和感を持った。
「……大丈夫か?」
無言の時間が続いたが、ようやく諦めたようにハルの声が小さく響いた。
「着れなくなってしまいました」
「はぁ?」
恐る恐るそちらを向くと、なるほど、彼女は床のドレスに埋まるようにしてしゃがんでいた。
「これ、よく考えたら三人で着た服でした」
「……」
仕方ない。
カイトは自分の衣装棚から厚手のローブを取り出して彼女に渡した。
「これを着ろ」
「はい」
彼女はいそいそとそれを身に纏う。
「……軽いです」
「良かった。それで自由に飯を食えるな?」
「はい」
彼女は嬉しそうに食事に手をつけた。
本当はずっと食べたかったに違いないのだから。
カイトは彼女の視界から離れることにした。
まだ暖かいハルのドレスを部屋の脇に寄せて、気づく。
――この便りを見ているということは、お前もとうとう妻と契りを交わしたということだろう。
布の間に挟まったそれは、祖父の字をしていた。
中身を最後まで読む前にそれを魔法を使って燃やす。
一瞬だけ、まるで花火のようにそれは輝いた。
とりあえず、落ち着くために大きく息を吸う。
「――あの、貴族様?」
無言のまま、カイトはハルを振り返った。
「美味しい食事でした。ありがとうございます」
「そうか」
カイトは彼女の前の席に戻る。
ハルの緊張――らしきもの――もずいぶんと影を見せなくなっていた。
「まず、一つ」
その言葉に、彼女はまた緊張した様子を見せる。
「俺のことをカイトと呼んでくれ」
「カイト様?」
「違う」
「……カイト」
「そうだ。遠慮はいらない」
「……貴方がそう言うなら反対はしません」
「よし」
次だ。
「もう一つ。普通に話せ」
「え?」
「そんな堅苦しい言葉で、一年前まで過ごしてきたわけがないだろ?」
「……失礼になりますよ」
「俺がそれでいいと言った。何を遠慮することがある」
「では」
ハルは一度視線を逸らしてため息をついてから、改めてカイトを見た。
「他に私にして欲しいことは?」
「ああ、もう一つだけ」
これで最後だ。
「俺の言葉を待つな」
「どういう、意味……?」
「そのままだ。ハルの好きに話せ」
「それが、カイトの望み? 私に何をさせたいの?」
「人間の当たり前のことだ」
言い放つ。
『妻』などに成り下がって欲しくなかった。
そのままの、ハルでいて欲しいと願っていることを伝えた。
それが、彼女に伝わったかどうかは分からないのだが。
「よく分からないな」
「一年前までの生活と同じでいい。それを、俺も望んでいる」
「そう? そっか」
ハルは――そこで、誰にでも分かるように、満面の笑みを浮かべた。
「優しいんだね」
「俺が?」
「他に誰がいるの」
「ごもっとも」
カイトも和やかに笑った。
「もっといろんなことやらされると思った」
彼女は指を折りながら数える。
「掃除、片付け、湯焚き、水汲み、夜の供、術の実験台、見世物――」
「おい、後半は何だ」
「私の独断と偏見。孤児院の子達に言ったら笑われたけど」
「嫌に現実的だな」
否定することもできなかったが。
「俺はそんなことしないよ」
「そっか」
「昨日、馬を引いてきてくれたお前だったからこそここに呼んだのだから」
ハルは首を傾げたが、何も言わなかった。
「……あの」
「うん?」
「……」
彼女は何も言わず、カイトの傍に歩み寄って肩を寄せた。
「……久しぶり、に、ああ……人間といるんだな、って、思う」
「ハル?」
「本当に久しぶり……うっ、うう……」
泣いていた。
表情のなかった、彼女が。
大粒の涙を流して。
「寂しかった……誰も、私のことなんて、見ても、考えてもくれなかった、から……!!」
それは、彼女の本心だったに違いない。
彼女の瞳に色が宿っている。
紛れもなくそれは、人間の輝きであった。
「ハル……」
そこでようやく悟った。
同じ思いをしてきたのだと。
人格の有無ではなく、立場――貴族と、女という些細な違い――の有無で苦しんできた。
どちらがより辛いなどという話ではない。
同じ苦しみだけが、そこに横たわっている。
ハルの小さな体を抱き寄せた。
「……辛かったな」
泣きながらハルは頷いた。
「怖かった、選ばれた時……何をされるのか、本当に分からなかった」
「うん」
「どうせ、私のことなんて、選ぶわけがないって思ってたのに……カイトが選ぶから、怖かった……!」
「うん」
小さな体を、強く抱きしめる。
「私、私は……ただの、女なのに……カイトがっ、選ぶから……!」
「うん」
「うああああ――っ!」
声を枯らすように、ハルは泣いた。
全部、曝け出して。
カイトはそれを受け止めた。
ハル自身の人生を呪った言葉に、相槌を少し入れただけ。
二人きりの世界。
「お前を呼んでよかった」
心から、そう思った。
「私なんかでいいの……?」
ハルは顔を上げない。
「さっきも言ったぞ。お前だから、ここに呼んだ」
「私……カイトに尽くせるような人間じゃない」
「俺は召使が欲しいんじゃない」
「きっと我侭ばかり言うよ」
「それは言われた時に対処する」
「隣に置いたって綺麗じゃないよ」
「十分だろ」
「でも」
「言い訳は良い」
カイトはハルの目に溜まった涙を指で拭う。
「ここにいてくれ」
「……」
彼女はこくりと頷き、少しだけ笑った。
「『妻』になるんだね」
「……いや、その……」
「?」
「俺は、その……そういう、ものが欲しいんじゃなくて……」
「……?」
ハルは頭一杯に疑問符を並べている。
「だから……その……なんだろうな、うん」
立ち上がり、窓際のそれを手に取ろうとする。
「リリの輪に縛られるお前を見たくない」
「……『妻』として呼んだんじゃないの?」
「そう、じゃなくて。その……なんだ……うーんと……」
何と言ったらいいか分からなかった。
そして、手に取ろうとした『首輪』にはっとする。
リリの輪を嵌めるべき場所に、美しい紫色の魔導石が下がっていた。
それどころか、その隣に同じ魔導石をあしらった耳飾まで置いてある。
「これは……?」
石に触れてみても、一体この石が何の魔法を内包しているか『見えない』。
どうやら元々は一つの魔導石を二つに分けたものだろうということだけは分かった。
――父上が用意したのだろうか。
「なあに、それ」
ハルがこちらに近づいて不思議そうに見えていた。
「さあ……? ああ、でも」
カイトはそれを手に取った。
「これなら、きっと似合う」
ハルを引き寄せ、それを首に巻いた。
「あっ……」
彼女は顔を真っ赤にして、小さく震えている。
緊張と、恥じらいとが、拮抗しているように見えた。
「……うん。似合ってる」
きらきらと光る紫は、彼女の白い肌に良く似合う。
「……あ、あり、ありがとう……」
「うん」
彼女は赤い顔のまま、「カ、カイトにもつけてあげるね」と耳飾を手に取った。
「しゃがんで」
「……ああ」
彼女の身長にあわせて、カイトは屈んだ。
ハルの小さな手が、左耳にかかる。
「……出来た!」
満足げな声に、左耳を触る。
紫が揺れていた。
「おそろいだね。……あう」
まだ、ハルの顔は赤い。
「……ハル」
「う、うん?」
「そうやって、隣にいてくれればいいんだ。『妻』じゃなくて、俺の傍に……居てくれれば、それで、俺はいいんだ」
「……??」
「今度、親友を紹介するよ。ローゼライトの中も案内する。その時に、『妻』としてじゃなくて……ハルとして、傍に居てくれ」
「……」
ハルは「分からない」という顔をしたが、「分かった」と小さく頷いた。
「さし当たって、やりたい事があるんだが……一緒に来てくれるか?」
「いいよ!」
彼女は笑って、「あ、でも服……」ともじもじし始めた。
「あ、そうか……」
仕方なくもう一度クロウの『妻』にお願いしようと侍女室を訪ねると、祖父の『妻』達がきゃっきゃと服を合わせているところだった。
「……カイト、大丈夫?」
ハルが小さく尋ねてきて、ようやく自分の顔が歪んでいることに気づいた。
「大丈夫。……後で飯にも行こう。ローゼライトは輸入品がいっぱいある」
「うん」
クロウの『妻』にお願いして、彼女に服を見繕ってもらう。
「あら、カイト様ったら大胆な」
「そうじゃない……」
否定して、侍女室の外で待つ。
ややあって現われたハルは、黒い布に銀の糸があしらわれたワンピースを纏っていた。
「よし」
先ほどの豪華なドレスよりもずっといい。
ハルはまだもじもじしていたが、厩でカイトの愛馬と会うと「わあ」と顔を綻ばせた。
「この子に乗せてくれるの?」
「ああ。前にな」
「わあ……!」
そうして、二人はローゼライトの外へ出る。
砂は微かな風に煽られて、まるで金粉のように日光の下で輝いていた。
――ろくなもののない土地だ。それでも、ここで生きていくのだ。
カイトは懐からリリの輪を取り出す。
「……それは」
「ああ。見ててくれ」
カイトはそれを、全力で放り投げた。
「あっ!」
ハルの悲鳴。
銀色の輪はちらりと輝いて、遠くの砂の中に落ちた。
これではおそらく、もう見つかる事はないだろう。
「カイト」
「あれはいらない。……そんなもので、俺を図りたくないし、ハルを図りたくない」
女を縛る銀の輪。
それよりも、今ハルの首にある紫色の石の方がずっと綺麗だ。
「さあ、戻ろう。俺の親友から教えてもらった美味いものがある。一緒に食べよう」
「……」
ハルはもう一度だけ砂丘を眺めたが、やがて何か理解したように「うん!」と眩しく笑った。
「適合は上手く行ったようですね」
「カイトが手ぶらで帰ってきた時には肝が冷えた……失敗したのかとな」
「王の魔法が失敗するはずがありますまい」
「それでも愚息の何も変わらぬ顔を見れば、な」
ころり、グラスの中で氷が回る。
「ベイター夫妻が死んだと聞いた時も同じように思ったな。ハロウディア様がどうなったかと」
「行方知れずになって一年――無事見つかり、しかもカイト殿と適合も上手く行った。良き事です」
「うむ」
こんこんと戸を叩く音がし、「入れ」と声をかけると一人の若者が緊張気味に入室してきた。
「スロット、参上いたしました」
「気を楽に、スロット。大きくなったな」
「いえ、その……恐縮です、クロウ様」
スロットは慌てて騎士流の礼をした。
「それで、親父殿……」
スロットはちらり、クロウと向かい合って酒を飲んでいた男を見やる。
「何の御用でしょうか」
「お前に、命じる事がある」
「俺に?」
「ああ――これは我が血、ランフォードに課せられた使命よ」
空気が緊張する。
「我がローゼライト王家の隠された姫ハロウディア様の秘密と、その封印の要であるカイト殿についてだ」
「!」
スロットは息を呑んだ。
この日、この瞬間、自分もこの『くそったれな国』に絡めとられているのだと、はっきりと理解した。