遠い東の国の懇願の形に、土下座、というものがある。
地面に這いつくばって頭を地面にこすりつける――これは本来の形から見れば大いに間違いなのだが、込められた強い懇願だけは良く伝わった。
「ほんっとうに申し訳ない!」
彼女がこんな事を言うのは本当に珍しい。初めてかもしれない。
「もう五回もハズレを引いて――成果がなくて、その、えっと、なんと言いますか……」
「……言って、メーヴェ。話が進まないわ」
「あの、はい、冒険者ナギ様……あの、昨日の発掘の件、報酬が払えない状態でして、あの……」
「……」
ナギは溜息をついた。
「メーヴェ。私はね、あなたにお金で雇われているの。分かるわね?」
「ハイ……」
「払えないってことはね、契約を打ち切るってことになるのよ。分かるわね?」
「ハイ……! で、でも次は必ず、あ、当たるから! 当ててみせるから!」
「……そう言って六回目も失敗するんじゃないの?」
「うわあああああ」
おいおいと泣き始めたメーヴェに、もう一度ナギは溜息をついた。
「家に戻ればお金あるんでしょうに」
「そりゃあるけど……い、今は払えないのは変わりはなくて、その、次の目星もついてて、は、発掘は早い者勝ちなのよ!」
「分かるけど」
「お、お願い、あと一回!」
「……」
「お願いしますぅううううう」
ぐりぐりと頭を地面にこすりつける彼女を見ながら、「あなたがカジの妹じゃなかったら断ってるんだから」とやはり溜息をついた。
「兄さんには感謝しきりですぅううう」
「よろしい。その兄を誑かしてる自覚を持ちなさい。あの人、あなたのためなら後二回くらいはただ働きするでしょう。その善意を踏みにじらないで」
「う、う、う、義姉(ねえ)さん、厳しい……」
――つまりは、こうだ。
メーヴェは魔工組合に属している発掘屋である前に、一人の商人であった。
メーヴェ・イェルザルイム。イェルザルイム家の若き当主。
帝国ラーヴァに本拠地を置き、数々の素晴らしい取引の功績を持ち、数々の国家に名前を知られる大商人。
だがその実博打が好き。即ち、魔工の発掘で一儲けしたがるきらいがあった。
こうして仕事を優秀な部下――クラースと言ったか? 会った事は無い――に任せて道化に耽っているというわけだ。
そして、今は負け続け。
雇っている冒険者二人にとうとう報酬が払えなくなったというわけだ。
もちろん自分の家に、もっと言えば自分の勢力圏に戻れば金などいくらでも調達できるだろうが、生憎『今すぐお金がないと契約を打ち切るという宣告』まで来てしまった。
今まではどうとでもなるが、前回の失敗が痛かった。
同業者――魔工組合の連中と揉めたのが発端だ。
メーヴェは有名な『道楽者』だ。
金に糸目をつけず、次々と発掘をこなし、高価な物を奪い取っていく――というイメージが横行しているのだ。
実際は負けの方が多い。しかも、大体それが続く。
彼女は負けず嫌いで、金に糸目をつけないのではなく無茶して金を作っている。自分の懐以外は使わない。発掘は趣味なのだ。
対して必死な魔工組合の連中は、それこそ借金をして掘っている者もいる。
同じ立場で有りながら、社会的地位のある人間はそれだけで疎まれる。
結局、多勢に無勢。メーヴェは目をつけていた発掘場所を奪われてしまった。
次に行った発掘は、準備不足もあって全く当たらなかった。魔導石の粒が数個出ただけだ。
だが、とナギは一人唸る。
この事件はあった方が都合が良かったかもしれない。
相棒のカジが言うのだ。
あの場所は≪核≫に障る、と。
人にはそれぞれ≪核≫がある。そしてそれには相性や得手不得手がある。
ナギが察知できなかった何らかの不穏を、カジの≪核≫が感じたというのであれば、どんな凄い遺物だろうと避けて通るべきだと思えた。
雇い主が行けと言えば行くしかない冒険者としては、あの厄介事は願ってもみない幸運であったといえよう。
「お話はまだ終わってませんか?」
噂をすれば影がさす、二人が話すテーブルに顔を出したのはカジだ。
「終わったと言っていいでしょう。ね、雇い主様?」
「ううっ、はい、すいません……」
「ナギ、あまりいじめないでください。これでも僕の妹なんですから」
「そういうところよ」
ナギは頭を抱える振りをして、笑った。
「ところで、はい。これをどうぞ」
カジが差し出したのは真っ赤な林檎であった。
「どうしたの、これ」
「そこの道でお婆さんが荷車を引いていたので、ちょっと手伝ったら頂きました」
「本当に、そういうところよ、あなたのいいところは」
林檎を受け取り、かじる。
思ったよりも甘かった。
「に、兄さん、その、私には……?」
「メーヴェ。僕は僕達の食い扶持を探してきたんですよ、お金を払ってくれない雇い主様の食事は持ってこないでしょう、普通」
「ぐああああ」
トドメを刺されたメーヴェは床に転がるしかなかった。
結局、結果だけ言えば六回目の発掘は移動費を稼ぐのに精一杯であった。
メーヴェは心底落ち込んで、小型馬車の中で小さくなっている。
「何処まで予測していました?」
カジはナギの隣で苦く笑う。
「五回目で揉めた後、慌てて六回目の発掘現場を下見に行った時から」
「そうですか」
「あなたは?」
「僕は、その、一回目にツルハシを入れた時に……何となくあるじゃないですか、違うなあって感覚が」
「ふふふ、流石歴戦の冒険者ね」
「からかわないでください」
「三年も生きてれば十分歴戦よ」
「じゃあナギは伝説ですね……」
「よしてよ、まだドラゴンもこの目で見ていないのに」
二人は極めて穏やかに話しているつもりだったが、どうもそれがメーヴェの心を逆なでしたらしい。
「ううううう、いいわねぇ、お二人さんは仲睦まじくて……うう、うおおおおん」
「……まあ、僕とナギはメーヴェとの付き合いより長いですからね」
「私に付き合いの長い奴なんていないのよぉ、羨ましいよぉ……皆敵よ、敵!」
「クラースって人がいるって言ったじゃない」
ぴくりとメーヴェは動きを止める。
「あいつは、その、幼馴染みで……仕事のパートナーよ。私よりも頭がいいしね。そりゃあ、私より才があるとは言えないけど? だって堅実すぎるのよ。商売はそれだけじゃやってけないの、時には損を見込んだって投資をしなきゃならないんだから」
「冒険者みたいですね」
「そうよ! そうなのよ!!」
がばっとメーヴェは立ち上がる。
「私は商人(あきんど)の冒険者なのよ! 道なき道を行き、未知の物を手に入れ、そして財を成すの!! 『ご結婚はいつですか?』とか『うちの息子を跡取りに』とかいいの、私には関係ないの! そうよ、私は冒険者! 夢を追うの!! 目指すは古代飛行艇の発掘よ!! そうなのよ!!」
「おー……」
カジが小さく拍手をし、ナギはにやりと口の端を持ち上げた。
「いいんじゃない? お金さえ払ってくれれば、私達は地の底にだってついてってあげる」
「……そ、そうだった。いや! だからこそ! 嫌々向かってるんじゃないのよ……」
メーヴェが見つめる先――馬車が向かう先は、帝国ラーヴァの影響下の小国コペト。
そこまで行けば、メーヴェの家と連絡を取ることが出来るし、何なら滞っていた彼女の商人としての仕事も進むと言うことで、前回の発掘の稼ぎを全て費やして移動しているというわけだ。
基本的に、メーヴェは相乗りの馬車を使わない。余計なトラブルに巻き込まれたくないからだ。
今回も少し多めに金を出して小型とは言え立派な馬車を自分達だけで借りている。
御者も信頼できる人物からの紹介という徹底ぶりだ。
「やだなあ、気が滅入るわ……」
馬車の外から景色を見ながら、メーヴェは嘆く。
「あー、コペトかあ、クラースが言ってたわね……影法師の石の輸入が滞ってなきゃいいけど……あと、なんだっけ、あの香辛料……ああ、この前連絡してたダウ峠のルートどうなったか聞いとかなきゃ……やだなあ……メッシェの船は冒険者と仲良くやってるかしら……」
ぶつぶつと何事か考えはじめた彼女を見て、カジは目を瞑った。
「ああなると長いですよね……先に少し休みます」
「待って。使いにやった精霊が帰ってきた。話を聞くから、休むのはその後にして」
「……?」
カジは怪訝な顔を隠さなかった。そもそもナギが精霊を使役することなど希だ。
「一つ前の、メーヴェが揉めた発掘場あったでしょう」
「ああ、はい」
「ちょっと、気になってね。精霊を残しておいたの。それが、帰ってくる」
「気になること……?」
ナギが人差し指を伸ばすと、そこに止まったのは小さな蜂の姿をした精霊だった。
「……ふうん、やっぱりね」
彼女は目を細めた。
「『出た』、らしいわ」
「魔工――」
「いえ、そうではなく。もっと、恐ろしいもの」
「大型モンスターですか?」
「その類いのようね。私とあなたでは対処できなかったかもしれない」
「……ふむ」
ナギは精霊の使役を得意としていない。この小さな精霊ですら、単純な使い魔とするのは骨が折れたことだろう。
それでもこなした意味を、カジは察していた。
「被害は」
「……詳しくは聞けないけど、大分出たみたいね」
「そうですか……」
カジが「これが冒険者の悪運なのかもしれませんね」と目を閉じた。
その小さな馬車を追う者が、一人。
コペト国の境界の町、グレに到着するなり、「じゃ、兄さん宿よろしく」とカジは早々に追いやられてしまった。
ナギはといえば、「護衛よろしくね」ということで、一軒の商家に案内された。
「ごめんくださいな」
「はいはい」
出てきたのは人の良さそうな老婆であった。被った帽子には、黒い石があしらわれている。
「どちら様ですか」
「メーヴェ・イェルザルイム」
「……はっ!?」
その名前を聞いただけで慌てふためく様子は、まさにメーヴェの地位を表していた。
「イ、イェルザルイム家の当主様が、こ、こんなところに……!」
「番号、サファイア、ロード、ウォーター、キャンディ。どう?」
「……! ほ、本物……!」
老婆は震えた声で「ど、どうされたのです、イェルザルイム様」と尋ねた。
「遠話の魔工借りたいんだけど、ある?」
「はっ、ございます。イェルザルイム家からお借りしたものです」
「ありがとう」
メーヴェはこの店をまるで自分の物のように扱いはじめ、「ナギ、あなたは椅子に座っていて。長くはかけないわ」と老婆を連れだって奥へと行ってしまった。
仕方なく、ナギは窓際に置かれた踏み台と思しき古い椅子に腰掛ける。
――グレの町は何ら特徴のない町であった。
当たり前のように家が有り、当たり前のように商店が有り、当たり前のように宿があり――しかしだからといって面白い物は何も無さそうであった。
例えば、遺跡とか。例えば、娯楽施設だとか。
質素に生活することを強いられている今なのだから、好都合と考えることにした。
出来れば今日くらいゆっくり柔らかいベッドで寝たい――
「なぁんですってぇ!?」
その怒号でナギの沈みかけていた意識は浮上した。
ふわりと立ち上がり、ナギはメーヴェが消えた扉を開けて身を滑り込ませた。
そこにいたのは、不格好な遠話の魔工の前で顔を赤くしているメーヴェと、おろおろとする老婆。
そして、金髪碧眼の何者か。
歳はナギと同じくらい。老婆の孫というには、少し顔が整いすぎているような気もした。
「私は帰らない!」
「ですが、メーヴェ様」
「うるさい! あんたこそ帰りなさい!」
――なるほど。
ナギは瞬時に理解した。
「あなたが、クラース、さん?」
そうナギが声をかけると、メーヴェはばっとこちらを振り向き、青くなった。
では金髪碧眼の何者かはというと、「はい。わたくしはクラースで間違いありません」と丁寧に礼をする。
「失礼ですが、あなたは」
「ナギ。冒険者。メーヴェの護衛と発掘要員よ」
「ああ、はい、ナギ様。……カジ様はいらっしゃらないのですか?」
こちらの素性を知っている――ということは、メーヴェが連絡を取り合っていたクラースに間違いないだろう。
「宿にいるわ」
「そうなのですね。いつも我らが当主がお世話になっております」
「……いえ」
随分出来た人間だなと、ナギは苦く笑った。
「和やかに話してんじゃないわよ」
メーヴェの低い声。
「大体、クラース! あんた、何でこんなところに」
「コペトの石の情報――それを聞いたら、メーヴェ様はここに来ると思いました」
「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあ、何? 待ってたの?」
「はい」
「どれくらい待ってたわけ?」
「二週間程、お待ちしておりました」
何とも気長な話だ。
――しかしこのクラースという男、よっぽどメーヴェの思考が読めると見える。
「もちろん、その間にここの輸出問題は解決しております。ご安心を」
「ありがとう! でもそうじゃない! 私、まだ飛行艇を見つけてないもの。帰らないわ」
「お止めくださいと言いたいわけじゃないんです。ただ、少し当主としての顔を見せてください。皆、メーヴェ様がいた方が仕事が捗るんですから」
「そんなの」
「事実なんです。どうか、少し……お戻りください、メーヴェ様」
「嫌よ!」
助けを求めてメーヴェはナギを見たが、「ナギ様」と先手を打ったのはクラースであった。
「メーヴェ様とご相談させてください。滞在費はわたくしが出します」
「分かったわ」
「ちょ、ちょっと! 裏切り者ー!!」
メーヴェがそう言うのは想定内である。
「商人は交渉の速さが命……そう言ってたのはだあれ?」
「ぐっ」
「私はカジと合流するわ。前金、いただける?」
「はい、こちらを」
クラースから金を受け取り、ナギは「じゃ、そちらの話が終わったら、私達のその後の話をしましょう」と背を向けた。
「うわーん! 裏切り者ー! 次会ったらぜぇったいに大金積んでやるんだからー!」
「期待しているわ、雇い主様」
結局、ナギは冒険者。金とロマンが全てであった。
商店を出て、カジが居るだろう宿を探す。
その道すがら、せっかくだからゆっくりしようと考えて、蜂蜜をたっぷりと塗ったパンを二つ買い込んだ。
――目的の宿は、一階に小さな食堂がついた、こぢんまりとした作りであった。
大通りからは随分離れているし、後ろは雑木林、壁のひびから見てもかなり古い建物だ。
「ははあ」
カジも自分の懐具合が分かっているのは同じなのであった。
宿に入り話を進め、ナギはカジのいる部屋の扉を叩く。
「誰ですか」
「私よ」
やや間があって、扉が開く。
「早かったですね」
「ちょっと、いろいろあってね」
カジの導きで部屋に入ると、小さな寝台が二つ目についた。
「ああ」カジは肩をすくめた。「こういう部屋しかないというので」
「あなたには小さくなってもらうしかないわね。流石に狭いわ」
「は? あっ!? い、いえ、そうではなくて。これはナギとメーヴェで使ってください」
「……あなたは?」
「床でいいです。なるべく端で寝ますから」
「だったらメーヴェを追い出した方がいいんじゃないかしら」
「は? えっ」
「実はね」
状況を説明すると、「あー」とカジは苦く笑った。
「なるほど」
「クラースが居る以上、こんな安宿じゃなくて高い宿に泊まるべきなのよ、彼女は」
「そうですね。いや、でも、その……」
「何?」
カジは頬をかく。
「もし、ここに来たいと言ったら、追い払わないでくれますか」
「それは、もちろん。でも、どうして?」
「彼女は、その、僕が言うのもなんなんですが。幸せな子ではないと、思うんです」
「ええ」
「何に幸せを感じているか、きっと、まだ分からないんですよ。だから、その、おこがましくも、導いてあげたいと思ってしまう」
「それは聖職者として? それとも、兄として?」
「……妹ですからね。母は違っても、父がどんな酷い目にあったとしても。彼女は、妹ですから」
「ええ。私も、妹のように思っているの。本当よ?」
悪戯っぽく片目を瞑って、ナギはパンを渡した。
「まあ、どうするかは任せましょ。私達は冒険者、雇い主に従うだけ、ね」
宿の食堂で、夕飯後のコーヒーを注文している最中に――大方予想通りに――メーヴェが宿に飛び込んできた。
「見つけたわよぉ……」
という、まるで亡霊の呻き声のようなものを上げながら。
「あら、どうしたの、こんな安宿まで」
「私もここに泊まるッ!」
「クラースが宿をとってくれたんでしょうに」
「あいつとずっと一緒に居るなんて耐えられないッ!」
わあっと机に縋り付いて泣くこの少女が、イェルザルイム家のメーヴェだと分かる人間が何人居るか。
「やだよぉ、ずっと戻れ戻れ言われるぅ……戻ったら最後、仕事に忙殺されるのはいいけど、いろんな人間が私に言うのよ、身を固めなさいって! 座っていなさいって! 所帯を持ちなさいって! 落ち着きなさいって! 耐えられないでしょッ!」
それは、冒険者たる二人には分からない感覚であった。
ましてや、カジとナギの間に裂くことの出来ない絆があればなおのこと。
「兄さんだってぇ、絶対、そういうの言われる立場だったくせにぃ……騎士団でだってぇ、元の家でだってぇっ!」
「あの、メーヴェ? 言いっこなしです、それは。大体僕の元の家なんて、僕はいっさい知らないですし。騎士団の方は、その、やっぱり言いっこなしです、うん」
「いいわよねぇ、兄さんは義姉さんと出会えて……」
ぐすぐすと自前のコートの裾で涙を拭うメーヴェを見ていると、何だか可哀想にも思えてくる。
自分の運命を自分で決められずにきた少女が、発掘という道楽のみで自分自身になれる。
その重さは二人にも分かっていたつもりだった。
つもりでしかなかったのだと、あのクラースを見れば分かる。
彼はメーヴェを全て分かっていながら、それでも『彼女を地獄に突き落とさなければいけない人間』なのだ。
全ては真にメーヴェの為に。
真に彼女の為に出来ることなど、二人にはない。
二人が彼女に出来ることは、夢を見させることだけ。
彼女は夢ばかり追うには、有能すぎた。
彼女がラーヴァの屋敷に戻れば、イェルザルイム家の業務は一気に進むに違いない。
もちろん、彼女がいなくたって仕事は回る。それだけ出来る有能な人間を割り当てているのだから。
でもそれも、彼女のカリスマ性に寄りかかっている。
最年少当主にして素晴らしき商才の持ち主、メーヴェ・イェルザルイム。
彼女の苦悩は、彼女以外が払拭できるものではない。
「でも、メーヴェ」
カジはメーヴェの顔を上げさせる。
同じ赤色の瞳が、外れることなく向かい合った。
「僕に、僕達に、『一緒に逃げてくれ』って、言えないだろう?」
「っ……」
「言えないよ、君は。だって、イェルザルイムの当主なんだから。それが、きっと好きなんだから」
「……でも、私は、飛行艇を発掘したいの。本当よ」
「本当なのは僕達だって分かってる。でも、結局、君は商人なんだろう? その立場が好きなんだから、今ここで無理を言って、心が砕けてしまう前に、一回戻ってみてもいいんじゃないかな」
「……」
メーヴェはようやく落ち着いて、カジの隣に慎ましく座った。
「飛行艇」
「うん?」
「私が発掘したら、きっと話題になる。そうしたら、研究が進んで、今の時代でも作れるようになるかもしれない。そうしたら、もっと便利になるじゃない。あっちこっちの商品が手に入るようになるし」
「うん」
「でもそれって……あー、やっぱり商人だなぁって、思ってたのよ」
「うん」
この『妹』と初めて会った時、彼女は言った。
飛行艇というロマンを追いかけるために商人の仕事を投げ出してきた、と。
でも、その根本が違うことに、彼女自身も今気がついたようであった。
「戻ろうかな」
「それがいいよ」
「……でも、契約切ったら、兄さん達別な仕事に行っちゃうでしょう」
「あら」
ナギはくすりと笑う。
「いいのよ、護衛の仕事に切り替えても。報酬さえあればね」
「……義姉さんはそう人だもんね。分かった!」
メーヴェはにっと笑う。そこに悲壮感はもうなかった。
「これからの予定を破棄して、ラーヴァに戻るわ。少しだけね。兄さんも義姉さんも一緒に来て。報酬は後払いね」
「了解」
テーブルの下で、カジとナギはこっそり手を打ち合わせた。
メーヴェはクラースが用意したという宿に戻った。
その方がいい。この宿では安全性が心許ないからだ。
もちろん、カジもナギも想定はしているが、用心するに越したことはない。
「ベッドが埃っぽいわね……」
ナギは仕方ないという顔で、しかし何気なく表面を手で払っている。
「一番酷い寝床の経験は?」
「そりゃ、北チャロ遺跡よ。湿気が酷くてカビと虫が凄かった。何が腐ってるのか臭いも酷かったし」
「へぇ――」
「あのねぇ、今自分がどんな顔してるか分かる?」
「えっ」
「死体の山の方がマシ、って顔よ」
「……そんな顔してました?」
「カマかけただけだったんだけど。その分じゃ、本当に寝たことがあるのね」
「……おやすみなさい」
掛け物を被って逃げたカジに「意地悪だったわね、ごめんなさい」と素直に謝る。
「今はこうしてベッドで寝る幸せがあるので大丈夫ですよ。いやどうにも埃臭いですけど」
もごもごと掛け物の中から彼の声がした。どうやら顔を見せるつもりはないらしい。
カジは自分がやってきたことを後悔はしているが、それをなかったことにはしない。
事実として受け入れ、必要があれば償いもするだろう。
彼がどうしてそんな眠りをとったかは知るよしもない。聞けば教えてくれるだろうが、それは彼に酷な話だ。
ナギも「おやすみ」と告げ、掛け物を引き寄せた。
今日は随分風の音がうるさい夜であった。
古い宿ではあったが思ったよりは寒くはない。掛け物も一枚で十分であった。
――少し、眠っただろうか。
ナギは不意に目を覚ます。
『何かが近づいている』。
相手に気づかれないよう、ゆっくりとナギは胸元に指を滑らせる。
護身用に肌身離さず持っていた石に触れ、その何かに神経を尖らせた。
「……」
カジの呼吸の音がしない。
恐らく、彼もこの異常には気がついていて、息を殺しているのだろうと思えた。
窓に影が落ちる。
鳥が窓を嘴で叩くように、微かな音が室内に響いた。
『何者かが、この部屋に入ってくる』。
足音は全くと言っていいほどしなかった。
随分なお客様だ。
ナギが動き出す――それより一歩、カジの方が早かった。
「わっ!」
甲高い声。
カジの手をすり抜けた影は、思ったよりも随分小さかった。
「こ、子供――!」
カジが声を上げたのも無理はない。
お客様は小さな少女であった。
歳は推定して十と少し。服はボロボロで、全身泥にまみれ、所々出血や青あざが見られた。
そんな無残な姿にもかかわらず、彼女の緑の双眸は、まるで腹を空かせた獣のようにぎらぎらとカジとナギを睨み付けている。
「何が目的だ」
カジの声が低い。
「……ふん」
少女は不満げに声を漏らしたが、問いに答えることはなかった。
「悪いことは言わない。今すぐ窓から戻れ」
「へぇ」
少女は嗤う。
「見逃してくれるの?」
その声はがらがらで、もう随分水も飲めていないのではないかと思われた。
「今退けば、無かったことにする。でも、一歩でもこちらに動いたら――」
「甘いなぁ」
「甘いわね」
ナギは侵入者に同意する。
「その子はプロよ、分かってるんでしょう」
「……」
カジは答えなかった。
「ふうん、さっすが修羅場を何度もくぐってるって感じだよね」
「まあね」
じゃあと小さく声が聞こえて、小さな身体がまるで矢のようにナギに向かってきた。
手の中にちらりと輝くのはナイフだろうか。
だが、ナギは取り乱したりしない。
少女の言うように『修羅場は何度もくぐり抜けてきた』からだ。
自分で迎撃しても良かったが、『カジが前に飛び出してくるのは分かっていたので、邪魔にならないように何もしなかった』。
「っ!」
少女は狼狽を見せた。
男は何の躊躇もなくナイフの前に飛び出してきて、何の迷いもなく少女の腕を掴もうと手を伸ばしたからだ。
「んんっ!?」
少女の反応は早かった。
ぎゅっと足を踏ん張って後方に飛び退く。
まるでサーカスの花形のようだ――そう思っていると、視界に赤いものが映った。
「……私は警告したわよ」
「面目ない」
カジの前腕は服ごと切り裂かれていた。
少女が退く瞬間、切って行ったのだろう。
彼も恐らくそれに気づいていたのだろうが、間に合わなかったのは想像するに易い。
「あんた、そんなに死にたいの? どうせ金で雇われてるだけでしょ?」
「……だけ、ではない」
ナギは――内心では寒気にぞっとしながら――顔に苦笑を浮かべた。
その言葉はカジにとって禁句に近い。
彼だって怒る時はあるし、ナギのからかいに腹を立てて抗議する事だって多い。
それでも滅多な事で怒るタイプではないだろう。
でもその言葉は、一発でカジを憤慨させるほどの威力を持っていた。
「あっそ」
そんなカジの心など計れるはずもなく、少女はナイフを構え直し、彼と真正面から向き合った。
「じゃ、お先に死んで!」
少女はまるで手品のように、ぱっとナギの視界から消えた。
跳んだのだと気づくが、カジは一拍前に動いていた。
「っ!」
跳んでくる彼女の小さい身体、その肩を軽く叩くようにしてひらりと避けて見せる。
「うえっ!?」
甲高い狼狽の声。
完全に油断していた者の声音であった。
それもそうだろう――ナギは困ったように目を伏せる。
カジが悪いのだ。あんな甘い面を見せたら、勝てると思わせてしまうではないか。
「このっ」
再び向かってくる少女の突き出したナイフを持つ手を、右手で上に弾き、左手で反対の腕を捻り上げる。
「いだだだだだだだっ!」
カジは容赦なく彼女をうつ伏せに組み伏せた。
この体格差では脱出は出来ないだろう。
「なっ、なっ、なっ」
その間、わずか数秒。
少女は何が起きたのか理解できていないようであった。
「ここまでね」
床に転がったナイフを、ナギは手早く回収する。
「ず、ずるい! なんで!? こんな動き反則じゃん!」
「もう一本ナイフがあるだろう。出せ」
「な、なんで!? 何でそこまで分かるの!?」
「……」
カジは無言で、組み敷いたままの少女の背中からナイフを取り出してナギに渡した。
「お前が手負いじゃなければ、もう少し手こずった」
「……!」
「魔法を。ロープは抜けられそうです」
「いいわ」
ナギは魔導石を取り出し、ふうっと息を当てて発動させた。
少女の身体を、細い鎖のような物が締め上げる。
「う、うそぉ……? こんな高度な魔法、使えるなんて聞いてない……!!」
「それは調べが甘かったわね」
ナギ、そしてカジを狙うにしては、彼女は少々『足りなかった』と言わざるを得ない。
「くっ、流石メーヴェ・イェルザルイム……! 奥の手があったって事か……!」
「……は?」
「あたしだって、もっと、時間さえあれば……」
「ちょっと待って。あなた、今、なんて?」
キッと少女はナギを睨み付ける。
「メーヴェ・イェルザルイム! あんたを狙ってここまで来たけど、あたしの方が甘かったね」
「……人違い」
「……え」
「人違いよ、お嬢ちゃん」
ナギの深い溜息。続いて、カジの困惑。
「私は、メーヴェ・イェルザルイムでは、ない」
「…………えええええええええっ!?」
こうして、夜の一悶着は決着がついた。
少女はサザメと名乗った。
否、それは『名乗らされていた』。
ナギはにやにやと笑いながら、「さあ、サザメ。きりきり話してもらうわよ」と青い魔導石のネックレスを揺らした。
「う、うぐぐぐぐ」
少女は明らかに嫌だという顔をしたが、逆らうことは出来ない。
何せ椅子に魔法の鎖で幾重にも縛り付けられているからだ。
「悪魔じゃない……」
ナギを見ながら、メーヴェは冷や汗をかいていた。
――彼女とクラースが招集されたのは、朝食が終わった後だった。
それまでカジは無言でサザメを見張っていたし、ナギは念入りに魔法をかけ続けた。
少女の処遇をメーヴェに任せることになったのは、狙われたのがメーヴェであること、二人の冒険者はメーヴェに雇われているにすぎないこと、その二つによるものであった。
もう一人の冒険者であるカジは、サザメの後ろで微動だにしない。その手には彼女のナイフが握られていた。
「あなたが狙っていたのは誰?」
「メーヴェ・イェルザルイム」
少女の口は勝手に答え始める。
「どうして殺そうとしたの?」
「……」
「ふうん?」
ナギは細い指を自分の口に当てる。
「殺そうと狙ってたわけじゃないのね。じゃあ、メーヴェの何を狙っていたのかしら」
「所持金」
「ふーん、物取りか」
ナギは「そんな姿だものねぇ」と目を細める。
「ねぇ、ちょっと……なんでそんな姿なの?」
メーヴェが言うので、ナギは気は進まなくとも質問する。
「その姿の理由は?」
「盗みに入った先でやられた」
「……詳しく聞きたいんだけど」
「正気?」
ナギは今度こそ雇い主に意見した。
「聞いてどうするの? 同情したいの?」
「いや、ちょっと、ね」
メーヴェのその表情には心当たりがあったので、話を進める。
「詳しく聞く。何処に盗みに入った?」
「……」若干の抵抗の後「ローゼライト王城」という答えが小さな口から飛び出した。
「ローゼライト――デザートローズ王国のか」
デザートローズ王国。
金の砂に覆われた砂漠の国だ。目立った産業は無い国だが、水晶鳥という強大な精霊が守護するローゼライトという首都だけは豊かな生活が約束されているという。
ローゼライトは魔法の都市だ。水も、食料も、娯楽も、魔法使いや魔導師、そして水晶鳥の力でまかなわれている。
その王城に潜り込むとは、大した奴だ――そう、ナギは思った。
「ローゼライト、ね。懐かしい名前だ」
カジが苦い顔をしている。大方、何か過去にあったのだろうが、今は問いただすわけにいかない。
「あのさあ」
サザメはちらりと上目遣いでナギを見た。
「ちゃんと話すって約束するから、その魔法で喋らせるの、止めてくれないかな」
「……」
ナギが確認の為にメーヴェを見ると、「そうしてあげて」と柔らかい返答があった。
では、とカジを見ると、彼は小さくこちらに目配せする。
「じゃあ、普通に聞くわよ」
「はーい」
少女は人懐っこく笑った。
「ローゼライト王城に何を狙いに行ったの?」
「さあ、あたし知らない。オヤジとアニキとアネキが全部決めちゃったから。あたしだって、いろいろ口出ししたかったけどね」
「オヤジとアニキとアネキって……家族でやったの?」
「あは。オヤジはあたしの親父だけど、アニキやらアネキ達は血は繋がってないよ。あたし達は盗賊団。マイダス盗賊団って、知ってる?」
「うっわ」
声を出したのはカジだった。
「あなた、マイダスの娘ですか……」
「お兄さん、オヤジを知ってるんだね?」
「知ってますよ……仲間が何人殺されたか」
「うーわー……」
今度は、メーヴェから声が上がる。
「なるほどねぇ……それで、あんたはどうしたのよ、そんなぼろぼろで」
「……」
やや間があった後に、「しくじっちゃってね。皆死んじゃったよ」と奥歯を噛んだ。
「ローゼライト魔法騎士団にやられたの?」
「違う!」少女の声が荒くなる。「オヤジ達はちゃんと調べた。騎士団の手の内なんてわかりきってた。でも、アレは違った」
「アレ?」
「魔法使い」
少女はきっとナギを睨み付ける。
「そこのお姉さんよりもずっと禍々しい奴だった。あんなの、情報に無かった」
「ふうん……」
ローゼライトは余所者に厳しい国だ。精霊鳥の力に依存しているからなのか、あまり他国と交流はない。
国に依存しない黒杖同盟と女神教会が例外と言えるだろう。
マイダス盗賊団がどんな連中かナギは知らなかったが、カジの反応から察するにとてつもない集団なのだろう。
であれば、情報を見誤ったとは考えにくい。
隠し球があったようだ――そう思うには十分だった。
「あたしは、アニキ達とアネキ達に庇われて生きてた。逃げ出して、でも頼る所なんて何処にも無いから、『腕を振るって』ここまで流れてきたんだけど……メーヴェ・イェルザルイムが乗ってる馬車に目がくらんで、ここまで追って来ちゃったってわけ」
「なるほど」
気づいていた? と視線をカジに投げかけると、彼は無言のまま首を横に振った。
「じゃあ、何」メーヴェは目を細める。「あんたもお金が欲しいってこと?」
「そりゃね」
「ふーん」
メーヴェは視線を外し、クラースに呼びかける。
「クラース。この子にどれくらい出す?」
「え? ……そうですね、ナギ様とカジ様と同じくらいには」
「甘いわねぇ。兄さんと義姉さんと同じじゃあ、命狙ってる分が見合わないでしょ」
「……まさか、メーヴェ」
カジがやりとりの意味を察し、反対しようとするのを彼女は手を上げて止める。
「もう決めたから」
「……僕は、いざとなれば迷いませんよ」
「分かってるって」
希代の大商人は、ふんぞり返って宣言する。
「サザメ。私のところで働きなさい」
「……ひょ?」
「報酬は出す。衣食住は私と常に一緒に居ることで免除して上げる。これからあんたは私の下で働くのよ」
「……えええええええええええっ!」
間抜けな悲鳴が響いた。
「あ、あたしはメーヴェ・イェルザルイムの財産を、もっといえば命を狙ったんだけど?」
「それもお金の為でしょ。だったら私の命はお金で買うわ」
「あ、あたしが裏切ってやっぱり命を狙ったら?」
「あんたを雇った奴より金を出すわ。金で買えるものは買った方がいいのよ。金で買えないものがあるのだから」
「そ、それでも――」
「そこまでして駄目なら、あんたが死ぬだけでしょ」
「……」
ちらりと少女はナギとカジを見る。
ナギの表情はあまり変わっていなかったが、カジの瞳はまっすぐに警戒と殺意に似た感情を抱いている。
長い逡巡の後、「ふー……」と大きな溜息が少女の口から吐き出された。
「分かったよ。このままじゃあたし、女神教会に突き出されそうだし」
「交渉成立ね。契約内容は一つ。私の言うことを聞きなさい、それだけよ」
「奴隷じゃん!」
「そう思うなら勝手にどうぞ」
メーヴェは意地悪く笑い、「まずは綺麗にしなくっちゃね。兄さん?」と首をかしげる。
「まったく、我が儘な妹(ひと)ですね……」
彼はそう言いながら、胸元から二重の輪を取り出した。真ん中に光る石は、ちらちらと炎のように光っている。
「じっとしていてください」
輪を翳しながらカジは少女に触れる。
淡い光が彼の手から散ると、少女の痣や傷はもうすっかり治っていた。
「う、うわ……お兄さん、本当に女神教会の聖職者なんだね……」
「元ですけどね」
「おかしいと思ったんだよね」
サザメはカジの腕を舐め回すように見る。
「腕、いつの間にか治ってるんだもん」
「ああ……」
カジもその視線につられて自分の腕を見た。
サザメにばっさりと切られた腕は、裂かれた服が無ければどこが傷だったのかも分からない程に綺麗に治っている。
ナギがくすりと笑い、カジは誤魔化す為に不器用に目を逸らした。
――もちろん、カジの傷が治ったのは二重の輪に嵌まった魔導石の力ではない。
カジの≪核≫は治療の魔法――世にも珍しいそれを、ナギとカジは隠し通すことに決めた。
メーヴェですら知らない。
カジは「二重の輪の魔法で治療をしているのだ」と見せかけている。
そんなカジの≪核≫は、防衛本能からなのか、『何もしなくてもカジの身体を治そうとする』。
これは、冒険者二人だけの秘密だ。
「でも、メーヴェ。本当に雇うの? 今なら魔法で絞め殺すことも出来るけど」
ナギがそう言えば、今だ魔法でがんじがらめにされているサザメが「ひえっ」と小さな悲鳴を上げた。
「雇うわよ」
「小さい子だけど、立派な盗みと殺しのプロよ。本当に?」
「うん、だって――」
大商人は照れくさそうに笑い、目を伏せた。
「似てるんだもん。私の小さい頃と」
「……うん?」
「一人でがんばちゃってさ。周りはみぃんな敵で。まあ、私の場合親も敵でしたけど? 最初から味方だったのなんて隣の奴だけでしたけど?」
「……」
クラースが無言ながら困ったように笑う。
「だからさ、私くらい味方してあげてもいいかなあって。もちろん、お金が欲しいってところも似てるし? 貪欲さとかもさ」
「……そう」
「さ、魔法を解いて」
ナギはふっと魔導石に息を吹きかける。
瞬間、魔法ははらりと解けてなくなり、サザメははれて自由となった。
「死ぬかと思ったよ、本当に」
「じゃ、契約のお話をしましょうか、サザメちゃん?」
「……分かったよ」
メーヴェが「クラース」と呼ぶと、「はい、メーヴェ様」と紙が彼女に渡された。
「はいこれ、契約書。ここに手形を押して貰うわ」
「はいはい」
「インクはこちらです。どうぞ」
クラースに促されるまま、サザメが手をつけると「ぎょわっ」と悲鳴が上がった。
「な、な、な、なっ、何か、こう、身体が、む、むずむずするっ……! な、なに、これ……!?」
「あー」
「あー」
「何でそこ二人は可哀想な物を見る目でこっちを見てるの!? え、あんた達もこういう契約したんでしょ!? 冒険者だもんね、ね!?」
「残念ですが、僕達はソレをしていません。ソレは、イェルザルイム商家の正式な契約書ですから」
「は? え? お?」
「つまり、契約形態が違うの。サザメ、あなた本当に雇われちゃったのね」
「ひゃ、ひゃい……?」
「おめでとう、あなたは正式にイェルザルイム商家の一員よ。当主の命令に背くと苦痛が出るけど、メーヴェは変な命令をしてこないから大丈夫よ。福利厚生も手厚いし、何ならその契約の中であれば様々な恩恵が受けられるわ。命令は絶対だけど。後は、ラーヴァの本家に戻れば今日からのお給料の計算と危険手当を計算して――」
「……」
蕩々とメリットを説明するナギと、踏ん反り返っている雇い主、絶望を貼り付けた表情で震える新従業員。
「は、はかられたああああああああ!!」
部屋にはサザメの苦悩の叫びと、メーヴェの高笑いが響いた。
「……どう? 変?」
「いいじゃない、似合ってる」
サザメはメーヴェから買い与えられたという服を纏って何だか居心地悪そうにしている。
ぼろぼろだった今までの服とは違い、だいぶ上品に見えた。
「これから長旅だし、服は着心地の良い物が向いてるわ」
「ラーヴァに行くんだよね、ナギ姉様達は」
「……何で私を姉呼びするの」
「嫌みっぽい?」
げらげらと笑う少女に、ナギは眉根を寄せた。
「いや、盗賊団出身だってばれちゃうとなーってメーヴェ姉様に相談したら、『じゃあまずは口調と態度を改めなさい』って命令されちゃって」
「ははあ、なるほど」
「どう? なかなか似合ってるでしょう、ナギ姉様?」
「そういうところがプロなのよねえ……」
ナギは溜息をつきながら、「ま、メーヴェがいろいろ教えてくれるわよ」と言い捨てた。
「ナギ姉様は教えてくれないの?」
「教えてあげても良いけど、まだ私は完全に信用してないからね」
「分かってるよぉ」
「私よりカジの方が懐柔しやすいんじゃない?」
「それは分かる」
「でしょ。子供に甘いのよ」
噂をすればやっぱり影がさす――カジが二人を呼んでいた。
「お二人とも、こんなところにいたんですね。馬車の目処がついたそうですよ」
「はーい、カジ兄様」
「それ止めませんか?」
「止めないよ!」
サザメは舌を「べーっ」と出し、「メーヴェ姉様のところにいこーっと」と走り去ってしまった。
「やれやれ、ああしていると年相応なんですがね」
「騙されないでよ、腕切られたばかりなんだから」
「本当に面目ない」
ナギが縫った服をカジは見て苦笑する。
「死んでたかもしれないのよ。もう少し真剣に考えて」
「……はい」
「よろしい」
カジの右手を両手でそっと握った。
「先に行かないで。もう、あの時のような思いをしたくないわ」
「……ええ」
「ラーヴァでは少しお休みを貰いましょう」
「そうしましょう。何たって、世界一豊かな国ですからね」
二人はメーヴェの馬車に急いだ。