「あら」
往来で声をかけられた。
いや、ただの感嘆。だというのに、それは自分に投げかけられたのだとはっきり分かった。
ポラリスは顔を上げる。
春の日差しが眩しかった。
「ほら、やっぱり」
人ごみの向こうから声がする。
甘い、蕩けるような――しかし張りがあるその声に聞き覚えは無い。
姿はまだ、見えない。
ポラリスは踏み出す。人混みに逆らうように。
――誰が。
声を主を探した。
不思議とその声の在り処を突き止めたいという欲求が生まれていた。
――誰が呼んでいるのだろう?
「こっちよ」
その人は、笑った。
『ある日の集い』
気づけば椅子に座っていた。
「……?」
暗く広い部屋。
照明が穏やかに灯り、夕日の色を映し出している。
目の前には重そうな木で出来たテーブル。
そして、
「何にする?」
栗色の髪の女。
黒い瞳が部屋の明かりをきらきらと跳ね返していた。
スタイルの良い身体にぴったりとした服を着ていて、何とも大胆な女性だなと感心した。
「……フゥ?」
穏やかに尋ねる。
「秘密よ」
しかし、それは同じように穏やかに拒絶された。
――不思議と危機感を覚えなかった。
突然意味不明な状況に落とし込まれても、これは危険なことではないと本能が告げていた。
ポラリスはきょろきょろと周りを伺う。
周りには彼女が着いているテーブルと椅子のセットが無数に並んでいた。
多くは空席だが、視界が霞むほどの奥には誰かがやはり二人組みで座っている。
くんと鼻を動かせば、香るのはスパイス。
なるほどここは食堂なのだと理解する。
「ここは初めて?」
「もちろん、だよ」
知らず声が硬くなる。
「そっか」
女は笑う。艶やかに。
ポラリスはその目の前の女性をまじまじと観察する。
綺麗な髪だ。肌も綺麗だし、爪も整っている。瞳は濁らず、しっかりとポラリスを見つめている。
だが、この拭えない『違和感』は――
「おねーさん」
呼びかける。
しかしその呼称が正しいか、自信がなかった。
「なぁに?」
くすくすと喉を鳴らして、目の前の「おねーさん」は笑った。
「メニューが無いよ。これじゃバット、だね」
「あらあら」
彼女はテーブルの上の鈴の取っ手を摘むと、ちりんちりんと二度鳴らした。
数瞬の後、現れたのは狼の頭を乗せた男だった。
「オゥ」
驚きの声を留められなかった。
「この子にメニューを出してくれない?」
「畏まりました。『同族殺し』よ」
狼の口はぱくぱくと動いていた。被り物ではないのだ。
男は小脇に抱えた、やたらと分厚いそれをポラリスに恭しく差し出した。
「どうぞ、『北に出(いずる)明星』よ」
「ワァッツ?」
狼の頭に聞き返すが、彼はくるりと背を向けて闇に消えてしまった。
「無愛想に見えても、可愛いお客さまに照れてるんだから」
ポラリスは女性に向き直る。
「可愛いお客様?」
「貴女のことよ」
「……」
悪い気はしない。
ポラリスはようやく女性に笑いかけて、渡された分厚いそれを開いた。
「ワァオ」
そこには見たことのある家庭的な料理から、全く知らない異国の料理まで様々な料理が、色鮮やかな挿絵と共に並んでいた。
「これ全部、頼めば出てくるの?」
「もちろん」
「……うん? 値段がないね」
そのメニューには料理の詳細な説明はあっても、肝心なものが書かれていないのだ。
「完全予約制なのよ。お金も先払い」
「……んん?」
それはとても、違和感。
「予約? わたし達、さっき会ったばかりだよ?」
「ああ、」女性はひらひらと手を振った。「私のいい人がね、土壇場で仕事が入っちゃって」
「……」
いい人。それは言い換えれば、恋人になるのだろうか?
「予約勿体無いなーと思っていたら、貴女を見つけたってわけ」
「……どうして、わたしを?」
――知っているのか。
「……ふふ」
彼女は目を細め、艶やかに笑う。
「そっくりだから」
「そっくり?」
「そう。……子供が生まれたなら、教えてくれたっていいのにね」
「……!」
瞬間、悟る。
――この女性は、パパかママ、あるいは両方を知っている、と。
「……」
その黒い瞳が憧憬を孕んで揺れる。
懐かしんで、喜ばしく。
まるで少女のように、彼女は笑っている。
――今なら、その正体を尋ねることが許されるような気さえした。
「もう一度聞くよ、フアユー?」
今度はしっかりと、強調して。
「私は、フロネ。『同族殺しの』フロネ。貴女の事は知らなかったけれど、貴女のご両親とは会ったことがあるわ」
ポラリスの心に、すとんと納得が落ちた。
「ベーコンとカボチャのスープ」
「はい」
「鯛の香草焼き、レモンソースを添えて」
「はい」
「シェフの気まぐれペスカトーレ」
「はい」
「馬肉のステーキを500グラム」
「ソースはいかがしますか」
「ウスターで」
「はい」
「秋刀魚の塩焼き」
「はい」
「マンガ肉を二つ」
「はい」
「深海の巨大蛸生け作り」
「すみません本日分終わってしまいまして」
「ならこっちの。クラーケン鍋大盛りで」
「はい」
「音噛み草のサラダ。ドレッシングはザクロで」
「はい」
「あっ、崖羊のスペアリブオーブン焼き」
「はい」
「ヤリカジキのあらい。深海水でね」
「はい」
「じゃあ、三角島近海産のアカマンボウの天麩羅」
「はい」
「ローズティーを」
「すみません納品待ちでございまして」
「じゃあディンブラのアイスティー。ミルクで」
「はい」
「おねーさんは何か?」
「じゃあ私はラムを。一瓶でいいわ」
「はい。以上で?」
「オーケー」
「はい。畏まりました」
狼の頭がひょこひょこと闇に去る。
「こんなに頼んでいいの?」
「いいのよ。おねーさんの財布から出るんだから」
フロネは「こう見えて私の仕事は高いのよ」と歯を見せた。
――きっと冒険者家業なのだろう。
ポラリスは内心頷く。
「お嬢ちゃんは――」
「アァイム、ポラリス!」
「あ、そうか。失礼、ポラリス」
彼女は直にポラリスへの認識を改めたようで、恭しく「レディ、」と呼びかける。
「人生経験はいかほど?」
「15――もう少しで16だよー」
「若いわねぇ」
ポラリスはフロネを観察する。
――相手は二十歳か、それより少し上か。
しかしフロネの態度には、見た目より長い時を感じた。
悠久の時を生きる――そう、彼女からは人間以上の何かを感じざるを得なかった。
ポラリスの人生は短く、しかしそれは波乱に満ちたもので、それなりに『目利き』が出来た。
「おねーさんは、何者?」
「うーん」
フロネは困ったように机に指で円を描く。
「平たく言えば、吸血鬼」
「……パァドゥン?」
「夜の眷属、月の僕、闇に踊る鬼、即ち吸血鬼」
「アーユーキディング、ミー?」
ポラリスは目を凝らす。
――吸血鬼。
夜を統べ、闇を統べ、人間の影に在る、強大なモノ。
だとすれば、彼女にはその気配がなさ過ぎる。
「あは」
見られていることにはとっくに気づいていたのであろう、フロネは意地悪く笑う。
「照れちゃうじゃない」
「ジョークはノーサンキュー」
「ところが冗談ではないのよ、レディ」
不意に。
栗色の髪は桃色に変色し、しなやかに伸びた。
かと思えば、身に着けていた服は銀の重厚なドレスへと様変わりする。
その変化は緩慢であった。まるで水彩の絵の具が雨で濡れて滲むかのように。
くすりとフロネは赤い目を細めて笑った。
「オゥ……」
絶句。
今までの姿だって、決して美しくないわけではなかった。
だというのに、今は鋭く、妖艶で、孤独な吸血鬼そのものの美しさを湛えている。
――なるほど。ジョークではなさそうだ。
思わず、ポラリスは胸を押さえる。
鼓動が外にまで聞こえそうだ。
「大丈夫、取って食ったりしないわよ」
その声は重く、少女の深いところに響いた。
「これで信じてくれるかしら、レディ」
「オーケー、信じるしかないね」
――だからパパと会ったのか?
納得出きるような、出来ないような。
きっとまだ、何かあるような気がした。
例えば――そう、「いい人」の存在、とか。
その時、不意に気配を感じた。
ポラリスはぱっと視線を右に移す。
――今度はジョークでも間違いでもない。
ソレは闇から抜け出すように現れた。
「あ? フロネじゃねぇか」
その『男吸血鬼』は心底意外そうに目の前の『女吸血鬼』の名前を呼んだ。
「あらあら。奇遇ね、こんな所で会うなんて」
「そりゃこっちの台詞だ。嬢ちゃんなんて連れて」
「アァイム! ポゥラリィイス!!」」
「うおっ!?」
びくりと驚いた男吸血鬼は「そ、そうか。よろしくポラリス。俺はザインだ」と口の端を持ち上げた。
「おにーさんも吸血鬼だね」
「ん? そうだが」
彼は一欠けらも隠そうとする意思を見せない。
「おねーさんの知り合い?」
「腐れ縁。分かるだろ?」
分からなかった。
「この子は私の知り合いの娘さんよ。あげないわよ」
フロネがえっへんと自慢をすれば、「もらわねぇよ……」と男吸血鬼はやれやれと首を振る。
「貴方も秘密の会話? それとも食事?」
「俺は納品。薔薇を――」
くいと親指を向けた先から、例の狼の頭が現れた。
「『情熱』よ。お約束の物が出来ました」
「おう」
「『情熱』!」
フロネはからからと笑い、「に、似合ってるわよ……!」と窒息しそうになっている。
「てめぇ……いや、俺だって気恥ずかしいんだけど笑われると腹立つ……」
「だぁって! じょ、『情熱』……」
机に突っ伏す『同族殺し』を無視し、狼頭は『情熱』をじっと見つめた。
「『情熱』よ、他のテーブルに寄られては困ります。秩序が乱れます故に」
「ちっ、わりぃな。ここは広くて迷っちまうんだよ」
ザインは狼頭が差し出すソレを受け取った。
硝子の大げさな装飾のついた杯。それに満たされているのは、透明度の高い朱色の液体だ。
それを煽り「いい出来だ」と男は笑った。
「なぁにそれ?」
興味を覚え、ポラリスは話しかける。
「ローズティーだ。俺が庭で育てている奴でな、ここで出してもらってる。まあ、小遣い稼ぎだな」
「ローズティー!」
先ほど頼んでも出てこなかったものだと分かると、ポラリスの心は跳ねた。
「飲むか?」
「うん!」
「よし」
男吸血鬼が何事か言付けると、狼の頭はひょいと消え失せた。
「待つ間にこれをやろう」
そう言って『情熱』が取り出したのが、一輪の真紅の薔薇。
芳しい香りが、ポラリスの鼻をくすぐった。
「薔薇」
「おう。美味いぞ、『お前なら分かるだろう?』」
その強調が、ポラリスには分からなかった。
分からなかったが、分かったことにした。
だからとりあえず――
「あむ」
食べた。
「ぬあっ!?」
男吸血鬼の驚愕の叫び。
薔薇の花弁を丸ごと口に含んだポラリスは、そのままむぐむぐと口を動かし、
「それなりだね」
と、事も無げに言い放った。
「……」
「ん?」
「薔薇は、そういう食べ物じゃ、ない、んだが……そういう楽しみ方があっても、い、いいんじゃないかな?」
『情熱』はぷるぷると震えている。
「ワァット?」
「ポラリスは四分の一だからね」
フロネは事も無げに『情熱』から薔薇を一本もぎ取り、形の良い唇にその花弁を近づけた。
するとどうしたことか、真っ赤な薔薇は頭(こうべ)を垂れ、色は琥珀色から朽葉色へと緩やかに染まる。
まるで命を吸われたかのように。
「……甘い」
微かな間の後、フロネは未だに震えている男吸血鬼に「ごちそうさま」と片目を瞑った。
「こうやるのよ」
「……イッツクレイジー」
「ふふっ」
フロネは肯定も否定もしなかった。ただ吸血鬼の本能を見せ付けて妖艶に振舞うだけだ。
「ぬう。なら仕方ない……悪かったな」と、ザインは頬を掻いた。
「んーん」
良く分からないまま謝られて、ポラリスは首を横に振る。
「気にしないで、おにーさん」
少女がにこやかに手を振った時、闇の向こうからけたたましい音が鳴り響いた。
硝子の割れる音、木材が破壊される音、炎の燃える音――いろいろだ。
「何?」
フロネが立ち上がる。
他の客も一斉に何事かと闇の向こうを凝視していた。
「……こりゃ厨房で何かあったんじゃねぇか?」
「厨房?」
「おう、覗きに行くか」
危険を承知ならな、とザインは不敵に笑った。
闇の中、唐突にその扉はあった。
どの壁とも接していない、浮遊するかのように佇む鉄製の扉を、ザインは乱暴に開けた。
「どうし――おおう……」
中は散々なことになっていた。
何を零したのか、赤い液体やら緑の粉末やらが床を占領し、強い匂いが辺りを蹂躙している。
調理器具は中身をそのままに薙ぎ倒され、従業員らしき鳥獣の頭の者達があわあわと右往左往している姿はまるで幼稚な絵本の一ページのようであった。
その中心に鎮座するのは、巨大な烏賊。
ポラリスを十人並べてもまだ余るその巨大烏賊は、今は縦に真っ二つになってまな板に切り口を下にして乗っかっていた。
長い触手は今尚蠢き、何人もの料理人を絡めとっている。
「うわあ」
あまりの出来事に、少女は一瞬言葉を失った。
「触手!? やん、大胆すぎっ! 破廉恥ぃっ!」
フロネのその言葉は、「耳が腐る」とザインに耳を塞がれた事によってポラリスの耳には届かなかった。
「お客様、お騒がせして申し訳ございません」
梟の頭にコック帽を被った料理人が、恭しく礼をする。
「何があったんだ」
「新人がクラーケンの捌き方に手間取ったのが原因でございます。お料理が遅れて、真に申し訳――」
「え、そこ? 謝るのそこ?」
ポラリスはまじまじと『それ』を見た。
赤みのかかった紫の膜。ぷよぷよと動く筋肉。
巨大な黒い目がぬらぬらとポラリスを見つめているような気がする。
「これ、食材?」
「そうです、『北に出明星』よ」
「大人しくさせればいいんだよねー?」
「まあ――」
「じゃあ」
ポラリスはついと前に出た。
「アーユーレディ?」
落ちているナイフとフォークを拾い上げ、少女は跳ねた。
向かうのは、まな板の上の巨大烏賊。
ナイフを振り上げ、従業員を捕縛している触手に思い切り突きたてた。
ぶにゅりと嫌な感触がする。
「グオォ」
――烏賊も鳴くのか。
新しい発見をしながら、ポラリスはとりあえず、豹の頭の女を魔の手から救い出した。
「ありがとうございます、お客様」
「あはっ、トゥーイーズィー!」
ポラリスが烏賊に向き直ると、その巨体を持ち上げようともがいている所だった。
半身しかないというのに。
「滑稽な話しだぜ」
まるで彼女の言葉を継いだかのように、ザインはにやりと笑って宙を舞っていた。
そしてそのまま己の爪で触手を切り裂き、獅子の頭の料理人をいとも容易く救出する。
切断された断面から、噴水のように青い血が噴出した。
「調理場が汚れるわよ!」
フロネは呆れ半分にそう叫ぶ。
「構いやしねぇって、なぁ?」
「もはや何も言いますまい」
狼頭は溜息を吐いた。
「そう? ……まあ、私は若い子に任せるわ」
「そうしろそうしろ。フロネに暴れられたらどうなるかわからねぇ」
ザインがちらりとポラリスを見る。
「オーケー」
そして散乱する物達を飛び越え、再び少女は烏賊の半身とまみえる。
――捕らわれているのはもう一人。
空中でくるりと回転しながら、フォークを捕らわれているカワウソ頭の男の近くに突き刺した。
「そぉれっ!」
そしてそれを、地面へと真っ逆さまに叩きつける。
「グォオ」
手早く料理人を救出し、「シャラップ!」とナイフを投擲した。
食卓用の切れ味は確かに良いものではなかったが、それでも柔らかな黒い目を潰すには十分だった。
「グォオオオオ」
びちびちと暫く暴れていた巨大烏賊であったが、やがてぐったりと動きを止め「……死んだなあ」とザインがそれを確認した。
「真に申し訳ございませんでした」
そう言いながら、狼頭は恭しく礼をする。
「間もなくお食事をお持ちいたします。お席でお待ちください」
その後ザインは「ごゆっくりどーぞ」と言ってその場を去っていった。
どうも別な『用事』があるようだった。
彼が店の『奥』に消えた後、注文していた料理が次々とやってくる。
「美味しい!」
ローズティの注がれたカップに口をつけると、薔薇の強い香りがポラリスの思考を覚ました。
リラックス効果、というやつなのかは定かではない。
机の上には色とりどりの食事が並んでおり、それは着々と彼女の胃袋に収まっていた。
ちらりとフロネを見る。
彼女はいつの間にか栗色の髪の姿に『戻って』いて、どうしてあんな小さな口でこんな量を含めるのかというほどの食べっぷりを見せていた。
「これも美味しいわよ」
「わーい!」
ポラリスは古き吸血鬼にいろいろと聞いてみたいことがあった。
どれくらい生きたのか。
人間をどう思っているのか。
血を吸うのか。
いい人とは。
でも、彼女は答えてくれないのだろうと分かっていた。
彼女は秘密主義ではない。お喋りで楽天家だ。
しかし、ポラリスの質問には答えない。
それは恐らく、少女自身が肌で感じるしかないからだ。
言葉は嘘になる。
だから、感じるしかない。
その存在を。
「……」
ウスターのかかったステーキにナイフの刃を入れる。
口に含むと、不思議な甘さが口に広がった。
「美味しい?」
「グッド!」
「それね、私の『世界』の食事なのよ」
「……」
ポラリスは一瞬動きを止め、しかし何も言わず次の一切れを口に運ぶ。
「美味しいね。何処の『世界』の料理も」
「そうでしょう?」
フロネは目を細めた。
「いつかお出で。その頃には、あの人が世界を変えているわ」
「……いい人?」
「そう」
「貴女はその人が、とても好き?」
「そう」
恥ずかしげもなく、フロネは言い切った。
「貴女にはいい人――」
「ンン……シークレット」
「まあ!」
その後、二人は笑いあいながら食事を終えた。
――どれだけの時間がたったのだろう?
「本当におごってもらっていいのー?」
「もちろん!」
フロネは席から立ち上がり、ポラリスに近づく。
「来たかったらいつでもどうぞ。少々、高いけどね」
そう言って彼女は少女の手を握り――
気づくと元の往来に戻っていた。
「……んん?」
ポラリスはお腹を確かめた。
――いっぱいだ。確かに食事をしたのだ。
まだ口には薔薇の味が残っている。
「んー」
手の中にあるものを確かめる。
小さな銀色の板。陽にかざすと虹色に光った。
刻まれているのは『レストラン 狂気絢爛』。
「……まあ、また機会があったら、ね」
ポラリスはぴょんと跳ねる。
家に帰ったら、謝らねばならない。
もう食事を済ませてしまった、と。
男が去っていく少女の後ろを見つめていた。
「いいのか」
フロネは「ええ」と頷く。
「話したかっただけなの。本当よ?」
「……」
男は黙っている。
悲しそうに、ともすれば泣き出しそうに。
「そんな顔しないで」
フロネの手が、男の顔を撫でる。
「でも」
「私達にその未来がなくとも、あの子達にはその未来があった。喜んでるのよ、私は」
「フロネ」
「本当よ」
彼女は繰り返す。
「悲しく思わないで、リゼアスタ」
「……」
彼はしぶしぶと言った様子で頷いた。
「あの子がまた未来を作り、その未来を私達は見ることが出来る。それって、素晴らしい事だから」
「……ああ」
ようやく男は少し笑い――
少女が歩いた道とは反対の方向へと、姿を消した。