そのノートの新しいページには、『つらい』と一言だけが記されていた。
とある飲食店に置かれていたノート。
それを開いたのはほんの好奇心からだった。
だったが、もしかすると必然だったのかもしれない。
両腕では抱えきれないものが、隙間からこぼれ落ちたような一言を見つけた。
具体的なことは何も書かれていなかった。
それでもなぜか、そこに記された感情に、ひとりでは抱えきれない何かを感じてしまったから。
同じように一言だけ返信を添えた。
顔も知らない相手だからこそ相談に乗れることがあるのではないかと。
ひねくれた友人には「聖職者サマはこんな所でもご高説か」などと言われてしまったが。
立場上誰かに教え諭す機会は数え切れないほどある。
しかし自分はそういうつもりでこのやり取りを始めたわけではないのだと思う。
『つらい』と一言だけ書いたノートに、返信があった。
『顔も知らない相手だからこそ話せることもあるでしょう』
ご丁寧に、矢印まであって。
返信相手の名前はなかった。
ただ、なんとなく、女性では無いかと思った。
しかしそれ以上は、何も。
そもそもこれは、とある飲食店の隅に放置された古びたノートだ。
誰が置いたのかは、誰も知らない。
が、そこには時間も場所もばらばらな人間――否、様々な『生』が思い思いに何かを綴っているだけだ。
読めない文字も多い。
古代語らしきものもある。
かと思えば、見知った文字もある。
常連だったり、単純に知り合いだったり。
そこに、たった一言。
『つらい』
と、書いてしまった。
何かきっかけがあったわけじゃない。
ただ、目についたノートに、一言だけ書いてやろうと思っただけ。
それがよりにもよって、『つらい』、などと。
カジは返信の文字に指を滑らせる。
顔も知らない相手。
何か――
何か書かなければならない。
何か。
否定ではなく。
かといって肯定でもなく。
何か。
何を。
ペンを持つ。
『私は、狗』
矢印を伴って、返信のつもりでそれを書き付けた。
書き付けて、我に返って、じっとそれを見る。
もっと書くべき事があるのだと思う。
でも、これ以上は何も書けなかった。
所属も。
名前も。
置かれている状況も。
今がいつなのかすらさえ。
ペンを置き、ノートを閉じ、何事も無かったかの様にその場を去った。
『私は、狗』
再び訪れたときにノートを開くと、そんな返信が書き足されていた。
狗。その言葉にどんな思いが込められているのだろう。
しばし思考を巡らせてから、ペンを走らせた。
『狗であることが、つらいのですか』
書き込んだ文字を見つめていると、横からのぞき込んでくる人影があった。
「ほとんどオウム返しじゃないの」
「そうね。でもこれでいいの」
狗であることがつらいのか、自らを狗たらしめている何かがつらいのか。
きっと『彼』には色々なものが絡みついていて、そこからなんとか絞り出した言葉がこのノートに書かれているのだと思った。絡み合ったものをひとつひとつゆっくり解いていくことが必要なのだと。
ほんの少しだけ。
彼が立ち上がる助けになれればいい。
立ち上がることができれば彼は自らの足で歩んでいけるだろうから。
あるいは私の助けがなくとも彼は持ち直すかもしれない。
ただ、それは目の前の人間に手を差し伸べない理由にはなりえない。
「こればかりは性分よね」
「なにがよ」
「いいえ、またここに来る理由ができたわと思って。そろそろ行きましょうか」
返事が、あった。
カジは齧り付く様にしてそのノートを見た。
返事などもはや期待できないと思っていた。
悩みの具体性など何一つ無く。
これが面と向かっての相談であれば、「そうですか」と切られているところだっただろう。
だというのに。
この返事の主は、ご丁寧にもこちらの悩みを掬い取ろうとしている。
もしかしたら、相手は同業なのかもしれない。
もちろん、こんな血生臭い狗の事では無く。
同じ聖職者の可能性を考えた。
もっとも、今それが必要な情報では無い。
返事を書いてくれた事実が、カジに次の文字を書かせる要因になった。
もっとも――
自分の立場を明かすような『ヘマ』はできなかった。
カジが居るのは暗部だ。
多分、返事をくれた人間は、日の当たる場所にいるべき人だ。
だから、詳しいことは言えない。
引き込むわけには、いかないのだ。
カジは、椅子を引き寄せて座り、ノートと向き合う。
正しくは、このノートの向こう側に居る人と。
『私は、狗であることを、疑ったことはなかった』
あまり良いとは言えない仕事をしている。
それでも、それを疑ったことは無かったはずなのに。
『知り合いを、殺した、気がする』
『それは記憶違いだと、周りは言うけれど』
疑っているのだ。
『今、私は、自分自身を疑っている』
これでいいのかと。
『だから、つらい』
冬のあの日、『上司』と『あの人』を失った。
でも、本当は。
自分がこの手で殺したんだと、確かな感覚がある。
しかし、それを否定されて。
証拠も何も無くて。
流されるままに表から裏の仕事をやるようになって。
この身はずっと前から、神の僕だったというのに。
今は、見窄らしくも狡猾な、狗なのだと思えて。
――自分は、知っている。
これから自分がどうなるか。
悪くない未来であることは分かっている。
でも、あれは、きっと嘘だ。
嘘の未来だとしか思えないほどに、今の自分は、どうにもならず。
どうして未来がああなるのか、まったく分からず。
だからこそ、それゆえに。
つらい、のだと。
「お客様、大丈夫ですか」
はっとして、大丈夫だと告げる。
ただ何も頼まないのは気が引けたので、ワインを頼んだ。
程なくして運ばれてきたソレは、グラスに注がれた赤であった。
それをぐっと煽って、カジはノートを閉じた。
多分、返事がある。
それを見なければならない。
ここに、無事に戻ってこなければならない。
カジは剣を携えて、支払いを終えた。
今日の仕事は、少し、手強い――
「毎度毎度、よく飽きずに付き合っていられますね」
「嫌なら先に戻っていてもいいのよ?」
そう返せば「別に嫌とは言ってないでしょ…」とごちて黙ってしまった。
全くこの友人は素直なのかそうでないのか。
返信の内容に目を通す。
どうにも事態は彼だけではなく、他の大きな何かが関与していると思わずにはいられなかった。
それが何か、或いは何者なのかはわからない。
まだまだ不明瞭なことは多い。
ただ、彼の置かれている状況がほんの少しだけ見えた気がした。
再び、ペンをとる。
「気がする」と書かれてはいる。
だが彼は知り合いを殺したことを、記憶違いではないと認識しているのだと思う。
『あなたはその記憶を、事実だと確信しているのではないですか』
しかし周りは否定する。
『でも周囲の人は、あなたを責めてはくれないのですね』
それはどれほどの罪悪感を生むのだろうか。
罪に罰がないまま日々を過ごすのは、どんな思いなのだろうか。
──この日記は、彼にとっての贖罪なのだろうか。
『私にも、あなたを咎めることはできません』
…悔いることが罰だとするならば、きっと彼は充分に罰を受けている。
であれば、最後まで聞き届けるのが自分にできる唯一のことだと。
『ただ、これを読んでいるあなたの思いを、聞くことはできます』
抱える苦しみを理解できずとも、苦しんでいることは理解できる。
痛みを分かち合えなくても、隣で寄り添うことはできる。
『あなたはそのつらさと、どう向き合いたいのですか』
逃げることも、立ち向かうことも、はたまた現状維持に徹しても、どれも間違いではないのだろう。
選択を間違ったものにしないために、人は行動を重ねていくのだから。
彼自身が選び取ったという事実にこそ意味がある。
「行きましょう」
終始物言いたげにはしていたものの、律儀に口を挟むことなく待っていた友人に声をかけ、店を後にした。
「きっとまた、返事があるわ」
あのノートを見れない日が続いた。
忘れたことはなかった。
でも、見れなかった。
自分は、命のやりとりをしていたので。
――ある領主が、領地の鉱山にコボルトが棲むようになってしまったと連絡してきた。
その領主は熱心な信者で――寄付金が多かったので――カジがコボルト退治を請け負うことになった。
しかし、自分が呼ばれたということは『そういう事』なのだとも理解していた。
『コボルト』は、鉱山に立て籠もっていた。
最近、賃金が領主によって渋られる様になり、仕事を拒否したということだった。
カジにとって重要なのは、それを『排除』しなければいけないという事実。
出来れば、逃がしてやりたかったのだが。
――相手が、噛んできた、ので。
『コボルト』に味方していたのが、冒険者だったからだ。
――逃がせれば良かったのだが。
相手はこちらを殺すことしか考えておらず、ここで自分が退けば領主が殺されてしまうのは明白だった。
――それは、正直、どうでも良かったのだが。
自分もまた、狗であるから。
――だから、殺してしまった。
報告は全て終わっていた。
だから、疲れ切った四肢を動かして。
動かない頭で、なんとか店に辿り着いて。
「ココアを」
と、注文する。
それが来るまで、ノートの表紙をじっと見つめて、待った。
「失礼ですが」
店員が言う。
「お疲れですか? 顔色が悪うございます」
「……」
あえて、答えなかった。
カジは微かに笑みを浮かべ、手で合図して彼を下がらせた。
――そして、ノートを捲る。
内容に目を通して、奥歯を噛んだ。
『私にも、あなたを咎めることはできません』
――咎めて欲しかったのだろうか。
自問自答、その先に。
咎め、罰して欲しいと思っていた自分に気づく。
でも。
それはできないと。
それはそうだと納得しながら、しかし、心の中では期待していた自分。
震える手で、しかし決してこぼさない様にココアを飲んだ。
『あなたはそのつらさと、どう向き合いたいのですか』
――どう、とは。
それは、解決策だ。
自分は今、解決に向けて歩き出しているのだと分かるには、十分な一言であった。
どう書く。
何を書く。
自分は今、間違いなく、ノートの向こう側に座っている人物に吐き出しているのだ。
自らの答えを。
内にある、とうの昔に決めた、答えを。
答えの出せないものだと思っていた。
でも。
それはもう、何も変わらず、胸の内にあった。
ペンを持つ。
『私は、もう二度と忘れたくない』
あの日々を。
あの、地獄を。
『大事な人達、大事な記憶であった』
地獄であっても。
この手で、終わらせたとしても。
『私は、覚えている。間違いじゃない、嘘でもない。確かに、あったことを』
『忘れたくない。忘れるわけにはいかない』
繰り返して、目を瞑る。
――これは、願いだ。
あつかましくも。
名も知らぬ、顔も知らぬ人への。
『【僕】に、力を分けてください。聞かせてください』
『あなたは、何を信じていますか?』
――自分が、信じるものとは。
霧散する自己を繋ぎ止めた、最後の要を、今自分は失っている。
それを思い出す為に、聞いてみたかった。
――返事は、あるだろうか。
もうすっかり冷め切ってしまったココアを、さらに時間をかけて飲み下した。
──忘れるわけにはいかない。
そう、返事があった。
『それが、あなたの答えなのですね』
彼ならその道を選ぶだろうと。
彼が自ら答えを選び取ったことが、嬉しかった。
しかし続く問いかけは、少々予想外なもので。
──己の信じているもの。
私が信じているものは一体何なのか。
改めて尋ねられると、どう答えたものか、と暫し考える程度には難しい問いだった。
信ずる神は異なるかもしれないが、彼もまた同じ聖職者ではないかという推測がある。
だから、これから綴る言葉が彼にどう受け止められるのだろうかと、少し思うところがあった。
ふと、隣へ視線を向ける。
視線を向けられた当人は相も変わらずしかめっ面だ。
「なによ。…あんたが思うように、書けばいいんじゃないの」
「あら、まだ何も言っていないのに」
素直に驚きを言葉にした。
すると、私の考えそうなことくらい簡単にわかる、と鼻で笑われてしまった。
「この人間はあなたという存在が信じるものを聞きたいのでしょう?神の言葉じゃなくて、地に足をつけた人間から、言葉を欲しているんでしょ」
──なら、聖典を引けば出てくるような常套句なんて書くだけ無駄じゃない。
ぴしゃりと言い切られた。
それでも、彼女も自分と同じようなことを考えているとわかって、自然と口角が上がる。
ペンを走らせ、続きを書いた。
『このようなことを書いては、あなたに再び、幾らかの迷いを与えてしまうと思うのですが』
聞こえの良い言葉を並べるのは簡単だ。
でも、彼女の言う通り、今は都合の良い言葉ではなく、真摯な言葉を選ぶべきだと。
私たちは、そう答えを出した。
『私はこの身を信仰に捧げて生きています』
『ですが、私は、神の教えだけを胸に生きているわけではない、と』
──そう確信している。
純粋に神の教えだけを支えにしていたのなら、自分は今、彼女と過ごしてはいないから。
だから、私の信じるものはきっと。
『きっと私は、誰かに手を差し伸べたいという感情を、信じています』
たとえ相手がどんな存在であっても。
そこに救いを求める声がひとかけらでもあったなら、手を伸ばしたい。手を伸ばしてきた。
そうして救えたものが、確かにあったのだ。
そうして救われたことが、確かにあった。
そうして得た絆が、今も確かにある。
『信徒としては手放しに褒められたものではないのかもしれません』
──だとしても、そこには迷いも後悔もない。
『積み重ねてきた感情と決断が、今の私を形作っているから』
──そうやって私は、歩み続けてきたから。
『だから私は、これからも、この信念とともにあり続けるつもりです』
『…あなたの問いへの答えには、なったでしょうか』
ペンを置き、再び隣へ目を向ける。
彼女は変わらず、そこにいた。
信仰が揺らぐことはない。
それでも時折、思うことがある。
私が苦難に遭ったとき、真っ先に手を差し伸べてくれるのは。
「…さあ、行きましょうか」
ページを捲る。
待ち望んだ返事がそこにあった。
「これって……」
今まで感じていた、何らかの引っかかり。
『私はこの身を信仰に捧げて生きています』
やはり相手は聖職者だ。
でも、
『ですが、私は、神の教えだけを胸に生きているわけではない、と』
それは確信と共に書かれていた。
きっとこの人は、教典や教会の教えに逆らって、善を成したことがあるのだろう。
そしてそれを後悔したことなどないのだろう。
素直に、眩しかった。
尊敬したし、憧れた。
『きっと私は、誰かに手を差し伸べたいという感情を、信じています』
『積み重ねてきた感情と決断が、今の私を形作っているから』
自分もきっとこうあればいいのにと、思えた。
――そう。
――そうなのだ。
「返事を……おや?」
ノートの続きが無かった。
物理的に、もうページがない。
「……」
どうしようかと思っていると、店員が「ああ、そのノート――」と声をかけてくれた。
「もう下げようと思っていたのですよ。新しいものをお出しします」
「……いや、あの」
「随分すっきりとした顔をしていらっしゃる。あなたには、こちらが必要なのでは?」
そうして差し出されたのは、金糸で彩られた白い便せんと封筒、そして金の羽根ペンであった。
「どうぞ。お客様」
「……ありがとうございます」
全てのページが埋まってしまったノートと引き換えに、それを受け取る。
――手紙。
今までのつたない交換日記ではなく、明確な意志を持って送り出す、自分の言葉。
書くことは、一つだけだ。
それはもう、決まっている。
カジは羽根ペンを走らせた。
『名も知らぬ私から、名も知らぬあなたへ。
あなたにとって、どれほどの時間をかけてくれたか、
この店の時間の流れでは想像もつかない。
それでも、きっと長い時間をかけてくれたのだと思います。
本当にありがとうございます。
あなたの信じているものは、とても輝いていて。
羨ましいと思えました。
僕は、どうやら思い出せたようです。
僕の信じること。
僕のしてきたこと。
僕のしたことをあなたに話したら、きっと軽蔑されるでしょう。
いや、もしかしたら、あなたであれば。
そんなことと、言うのかもしれませんね。
思い出した限りは、もう二度と忘れるつもりはありません。
捨てるつもりも、逃げるつもりもない。
ただ、後悔だけは、怒りと共に。
あなたの優しさと、眩しさと。
それも、忘れることはないでしょう。
あなたのように、僕も誰かを救ってみたい。
ありがとう。
ノートの向こうのあなた。
過去なのか、未来なのか、分からない時間の先に居る人よ。
僕は、前へ進みます。
何処かで会えれば、直接お礼を言いたいと思っています。
本当に、奇跡があって。
我らが神以外の、何らかのチャンスによって、そんな奇跡をつかめれば。
では。
本当にありがとうございました。
またどこかの時間で。
クロカジール・イルムガルデ』
ペンを置き、先ほどの店員を呼ぶ。
「これを、このノートの返事を確認しに来た方に渡してください」
チップと一緒に、封をしたその手紙を託す。
「返事は……結構ですと、お伝えください」
「よろしいのですか」
「ええ」
頼んでいたエールを飲み干して、笑う。
「いろんなものを貰ってしまいました。後は、僕が進むだけです」
「分かりました」
店員は丁寧にそれを預かってくれた。
――さて、進もう。
止まっている時間を動かそう。
信じる自分の正義の為にも。
ふと、振り向くと。
ノートの置いてある机に向かう、二人の女性を見た。
見た、が。
見なかったことにした。
今は、まだ。
顔を合わせるのは、気恥ずかしいので。
――――――――――――――――
あとがき。
こちらはTwitter上で、しとどめさんと交わしていた、カジとヘルガさんの交換日記です。
「ノートに一言、つらいとか書いてしまってそう」
という話から、相談に乗ってくださったのがヘルガさんでした。
一回一回のシーンを交互に出したので、本当に交換日記を書いているかのようでした。
カジはこの時点で暗部に深く踏み込んでいる状態です。
自分の記憶が曖昧なまま。
しかし、彼女との交換日記が、カジを前に進めることになりました。
本当にありがとうございました!
そして、名前。
本名ですが、この先ほとんど出てこないと思います。
多分。