本書の概要
・写真集から抜粋して掲載してあります。写真集より若干濃い表示となっています。
・撮影の顛末などは、ブログ SL現役の頃、そしてその後 にて詳しく紹介しています。
1967年 この年から本格的な撮影旅行を開始しました。
まずは復活したSL牽引特急を撮るべく常磐線の四ツ倉駅北方です。
この年の夏、D51三重連があるとのことで、当時は誰もいなかった伯備線布原信号所へ。
1968年 春まだ浅い磐越東線へD60を求めて。
客レや重連、写真のように背中合わせの重連等、バラエティに富んでいました。
当時は東京近郊にも結構SL列車があり、ハチロク牽引の貨物を追って、東金線から外房へと列車を乗り継ぎ追いかけました。
C59が残る呉線へは夏休みに訪問しました。
定番の小屋浦駅を発車するC59を撮影できましたが、C62との共通運用のため、姿が見えた時は安心しました。
1969年の春休みにはまだ雪深い東北地方へ撮影旅行に出かけました。
まずは当時人気の無かったC58の貨物が設定されていた山田線へ。
翌日は有名撮影地、花輪線の竜ケ森で、ハチロクの三重連を雪のちらつく定番のカーブにて。
この撮影旅行の〆は羽越線でした。
まだ雪が一部には残るものの、春の日差しがまぶしい1枚です。
1970年の春休みは念願の北海道の撮影旅です。
C62の出庫の様子を見に小樽築港機関区を訪問した時の扇形庫からの撮影です。
函館本線から撮影をしながら移動して、ほぼ真ん中あたりには音威子府でC55の雪中でのショットです。
常紋信号所には早朝に到着、この日は快晴で山裾を上って撮影しました。
三美運輸のB6撮影後美唄駅に戻ると、目前をEタンクが走り抜けました。
慌てて機関区を訪問し、何枚か撮らせてもらえました。
1971年の梅雨時、それまでC11は被写体としての魅力があまりなく足を向けませんでしたが、
このころには関東地方近郊ではSLが少なくなり、会津線にも通うようになりました。
この年の夏には九州の撮影旅行に行きました。
肥薩線大畑のループを目指したのですが大荒れの天候で、列車も大畑駅で足止めとなっていました。
北九州には運炭列車が多数運転され、田川線には補機付きの列車も設定されていました。
12月の米坂線はもう雪景色で、客レもキューロクの牽引です。
1972年、あまり知られていなかった八戸線を訪問、ウミネコが乱舞していました。
やはり人気の無い路線の陸羽西線にも行きました。
誰にも会わず、ゆっくりと撮影できました。
1973年の春には再び九州撮影旅。
今は無き志布志線を行く門デフC58です。
1974年は最後の撮影旅行で、以降サラリーマンの不自由な身になりました。
夕張鉄道ではまだ多くのSLの姿が見られました。
最後にふさわしく、夕日の中をC57の客レが通り過ぎて行きました。