そもそも、俺が音響さんに興味を持ちだしたきっかけ。
最初はいわゆる「裏方さん」にとても興味を持っていた。
「あれ、どうやって動かしてるんだろうな」
「あれ、どこから明かり当ててるんだろうな」
「あれ、どうやって音出してるんだろうな」
「どういう仕組みになってるんだろうな」
(※万年補欠からの椎間板ヘルニア発症で野球部マネージャーになったが故に、グラウンドキーパーのテクニックまで裏方技術を研究していたあの頃)
(以下、もちろん部活とは別)
ワタクシ、小学校6年生の時
「体育委員会委員長」でした。
で、秋の学習発表会の時。
体育委員会に回ってくる仕事。
それは「照明係」だったのです。
(この時点でまだ「音」に関してはそこまで興味がなかった)
まぁ、学校にあるカラーフィルターついたホイール?と言っていいのか?あれがついたおそらく250w 程度の 凸 を動かしていた。
で、中学校に進学。
小学校4年から野球部なので、迷わず中学でも野球部入部。
そこで待ち受けていた仕事。
試合の時、アナウンス用のスピーカーとアンプのセッティング。
確か、あの時点でボロボロのハイインピーダンスのアンプだったと記憶あり。
練習用ユニフォーム姿でキャプタイヤケーブルをねじにくくりつけ、バックネットをよじ登り、トランペットスピーカーをネットにくくりつけて。
試合中、決して明瞭とはいえないウグイス嬢(たぶん美術部の同級生)の声が学校の球場に響き渡る。
なぜかうれしかった。
で、中学2年の時。
役員改選で「放送委員長」になってしまう。
このときはいろいろやらせてもらった。
放送室のミキサーの蓋あけて繋ぎなおしたり、マイク取り替えてみたり・・・
当時の先生方から「うるせぇ!」っておしかりを受けたのも思い出。
この頃になると、いい気になって、先生に「このスピーカーって、インピーダンス何オームでしたっけ?」なんぞ、小生意気なことも。
この頃から「音響さんって、おもしろいなぁ~」と思うようになった。
そして、中3の文化祭時、「舞台部門長」になっちゃった。
進行表や人員配置表をつくって配布。
今となってみれば中坊なのに・・・結構な進行表を作っていたなと。
ここでも、気がついたら流れで卓の前へ向かっていた自分。
で、これのトドメ。
野球部だったワタクシ。最後の夏の地区大会で準決勝敗退。
夏休みに父母会主催の「慰安旅行」ってのがありまして。
行った先は、山形の「リナワールド」
そこでなんかのイベントだったのだろう。
今まで見たことの無いようなでっかいミキサー。
スピーカーから聞こえてくる
「ヘイヘイ、チェックワンツー、へぁろー、わんつー、ちっちっ!」
「ん~と、○○ヘルツ○デシダウンで・・・」
中学3年、野球部だったが故、坊主頭の俺に脳天直撃。
かっちょえ~!!すっげ~!!!
このとき、「音響さんって言う仕事に就いてみたいなぁ~」 (まだ決まっていない)
と思った15歳の少年が抱いた「将来の夢」ができた瞬間だったのだ。
で、山形へ行った慰安旅行で坊主頭に脳天直撃を受け・・・
その後・・・放送委員長という立場で、様々な学校行事においてグラウンドのトランペットスピーカー設置運営から文化祭ステージの進行。
もちろん、この文化祭の時は、進行の他に、効果音のオペは別にいて、マイクの音とミックスするトータルミックスの仕事もさせてもらった。
文化祭の前日は、全校の「合唱コンクール」があったりするのが我が母校。
ここではカセットテープへの録音もある。
今や、聞くところによると母校から徒歩2分程度の距離にある某ホールで合唱コンクールを行っているとか。
豪華だな~。本職がマイクアレンジしての録音ですぜ。(我らがN田師匠(当会副会長)のRecになる確率が高いと思われる・・・)
俺の時は舞台前に ST210 スタンドへよく学校にあるマイクをくっつけて録音してたんですぞ!
まぁ、どうこう言う前にカセットテープへの録音、っていう段階で時代が違う!なんて突っ込みを受けそうですが(笑)
で、最終的には先生方から何かあると「あれ、なんとへばいいんだっけが?」なんて言う質問も受けたり(汗)
そんなこんなで中学卒業からの高校に進学。
で、高校1年の夏。担任が生徒会顧問の先生だったということもあり、進められて役員選挙へ立候補することに。
用意されたポストは「副会長」でした。
ここでもなぜか、音と映像へ関わることに。
不思議なことに、学校の実習棟にはVHSの編集機材がありました。
そして、ティアックの業務用カセットデッキ。
で、そうこうしているうちに、「新入生向けのビデオ作ろうか」なんて言う話が ^^;;
で、俺に白羽の矢が立ったわけで・・・やりましたよ。
学校にあったでっかいVHSのビデオカメラもって撮影。
編集室に閉じこもって編集。
結局この映像は使われることがないままお蔵入り(涙)
そんなこんなで、高校3年の時。
たまたま学校創立50周年だったわけですよ。
「50周年記念で予算おりることになったから、使い道ど~する?」と顧問の先生からのお言葉。
いろいろ迷いました。
前年まで学祭ライブは学校の「格技場」でやっていた。
ここで起きる問題が厄介だった。
(あの当時)あまり大きい声では言えないけど、スモークがかかっているような状況。金髪の訳わからない連中がたくさんたむろしていたこと。
だったら「PA機材借りて体育館でやっちゃえ!」
で、音楽の先生に相談。お知り合いの業者さんを手配してくれた。
機材を出してくれた会社の方が当日つけないっていうので・・・生徒会室内でのノリで俺がオペ担当することに。
はっきりと覚えています。それだけガキだった自分にとって衝撃だったんだな・・・と。
コンソールは Roland:M16-E、FOH は EV 社の Tシリーズのダブルウーファーのタイプ+サブウーファー。1対向。アンプは QSC。モニターは FM1202 でした。(卒アルや、色あせた写真見る限り・・・ですが。)
写真はそのとき。高校3年の時初めてオペしたとき、生徒会顧問(担任)の先生が「高校生のこんな姿なかなか無いぞ!」って撮ってくれた写真、だったかな?と。
制服はダークグリーンのブレザーでした。
改めて写真を眺めた感想。
「俺、若いな・・・」
(たぶん)つづく
制服はダークグリーンのブレザーでした。
改めて写真を眺めた感想。
「俺、若いな・・・」