「電話に思う」(2016.1.1)
「電話」という言葉も「携帯」「スマフォ」などが当たり前のように使われ固定電話のみに称される様に思われる。
40年程前、我が家に設置された電話は・・・
の、タイプでダイヤル式はそれから数年経ってからだった。
レバーをグルグル回し交換手(郵便局の人)が出て来ると「○○番(二桁)、お願いします。」と伝え繋がるとういうものだった。(他に農衆電話という共同電話もあった。)
県都他ではすでにダイヤル式になっていたがこの電話で残念に思えたのは小学校高学年から中学校にかけて大ブームになっていたローカル民放ラジオの「電話リクエスト」での事である。
リクエストが集中し繋がりにくい状況の中、ダイヤル式はそのまま放送局をコールするのに対し我が家の電話は地元の交換-市街局の交換という経路で呼び出す為(大概は話し中)、圧倒的に不利?なのである。
何回も交換手を呼び出すのもはずかしく、そのうちにリクエストはしなくなり聞くのが専門となってしまったという思い出。
あれから時が経ち現在は「携帯端末」というツールとなり通話のみならず様々な情報を摂取するにも便利なものでもあるが、反面、子供たちに預ける事が是か非かでも問われてもいる。
「携帯」を手にしてふと思うのは子供の頃からの様々な「電話」が思い出として蘇る時に年齢の時間軸の長さを感じるこの頃である。