ボクにとっての楽しい読書法

2019年5月12日



ボクにとっての楽しい読書法

                          Tristan.k(元 岡谷鋼機)

1878年7月の下旬、当時のスウェーデン・ノルウェー王国の港から、総トン数僅か350トン余り(船長43.4m、船幅8.4m、船倉の深さ4.6m)のヴェガ号が、更にその半分程の船腹しかないレナ号を従えて、北極海目指して出航していきました。

 あの大航海時代、西欧諸国はこぞって香料や良質の生糸・綿糸を求めて、アジアの国々へ出掛けて行きました。そのルートは、ご承知の通り大西洋を南下し、アフリカ大陸の最南端・喜望峰を回って、インド、中国、そして時には朝鮮、日本へと向かうものでした。スエズ運河の開通で、西欧とアジアの距離は随分と短縮されたのでしょうが、その「開通」が1869年なのですから此処に到達するまでに300年程の歳月を要したことになります。ヴェガ号が19世紀のこの時期に北極海へと向かったのは、西欧からアジア・極東地域の国々へ行く為の、新しい航路の開設を目的とするものでした。その場合このルートで最も問題となるのは、冬季は誰が考えても不可能以外の何ものでもなかった訳ですが、夏季でさえ、ルートの相当範囲で分厚い氷或いは巨大な氷山が待ち受けている海域だったということです。

 この探検航海の隊長は、スウェーデン人でノルデンシェルドという科学者なのですが、彼が生まれた地は、父親の仕事の関係からフィンランドのヘルシンキで、スウェーデン移民の末裔でもありました。彼ノルデンシェルドこそが、本航海の隊長を務めつつ、学術的に価値ある北極海域・地域の調査・研究書としての「ヴェガ号航海誌」を執筆・公刊した本人です。航海誌がスウェーデン語で公刊されるや、当時の西欧諸国では、たちまち数か国語に翻訳され、専門家のみならず広く一般の人々にも多くの読者を得ていたと言われています。一部日本語訳もあったようですが、専門家の間に流布しただけで、一般には殆ど供されることもなく、やがて世間からは忘れられてしまうのでした。ヴェガ号はベーリング海峡を目前にして、シベリア東部の地において越冬を余儀なくされるのですが、翌年、夏季を迎えると共に再び航海を開始、ベーリング海峡を抜け、アリューシャン列島海域を経て、維新直後の北海道、東北地方、横浜・東京更には関西方面の主要都市を大凡2か月かけて訪問、明治政府の手際よい対応もあって、各地で大歓迎されました。

ボクが「ヴェガ号航海誌」に出会ったのは、約30年前で、東京駅・八重洲のブックセンターでした。上・下2巻が、ボール紙のケースに入れられ、出版はフジ出版社、訳者は小川たかしという企業家。ボクが気に入ったのは、夫々の「巻」にヴェガ号の航跡が日毎に記され、船の位置を確定する為の天文観測を実施した定点、研究・調査に向けた魚類その他動・植物の捕獲・採取、底引き網を投下した場所と水深、陸地に建設した基地やそうした界隈で出会った現地種族の人々等々を克明に記した地図が、付録のような形で付けられていたことでした。上・下(分売はしない)併せて、1万2千円也。現役の頃の小遣いを叩いての出費ですから、これにはかなりの決断を要しました。この「決断」をしてから12~3年後にボクは漸く定年を迎え、サラリーマン生活にメデタク終止符を打てたのです。そして最初に取り組んだ(記憶に残る一大)行動が、この地図を傍らに置いての「ヴェガ号航海誌」を、丹念に読破していくことでした。地図を眺めながら読み進めていくと、それとなく臨場感が湧いてきて、探検を共にしているような気分になっていたのです。探検航海の準備・計画を示した序章、航海記述各章の末尾に掲示された「原注」、巻末の「訳注」も一つ一つ丁寧に辿っていくと、この航海誌を読み切るまでには確か2か月少々の時間を要したはずです。でも、この2か月強の期間は、ボクにとって現役の頃から夢見ていた至福の「時間」ではありました。時の制約のない世界で、ただひたすら読書に耽ることが出来る幸せを、文字通り存分に楽しんだ次第です。


 ボクは学生時代の頃から、ギリシャの神話・叙事詩・歴史などに、それなりの興味を持ってきました。ホメーロスのイーリアスやオデュッセイア、これらに関連した解説書・研究書も、かなりの範囲で読んできたつもりです。叙事詩を読むことで、神々の世界の序列やその力関係、神話体系や成り立ちが判ってきます。また、古代ギリシャの歴史としては、ヘロドトス或いはトゥキュディデスの著作から、当時の様々な事象・事件の原因や経緯を知ることとなります(尤も、この二人が今で言う「歴史家」であったか否か。つまり、未だ「歴史」と言う概念が形成されていない時代の著作を、果たして「歴史」の範疇に入れてしまって良いものかどうか、といった学者間の論争があるようですが)。

 ヴェガ号航海誌を読み終わった後、2005年の秋に、ボクは嘗てからの念願だったギリシャへの旅を(2週間そこそこの日程でしたが)することが出来ました。旅行の帰路、アテネの空港でギリシャの地図(大きさ、縦120㎝、横90㎝程度)を購入、目的は当然のことながら、いずれこの地図を傍らに置いて、トゥキュディデスの「戦史」を読みたいとの思いがあったからです(ボクはこの時までに「戦史」を、岩波文庫・久保正彰訳で、既に2回ばかり読んではいましたが)。そして帰国後数か月してから、漸くこれに取り掛かることが出来ました。しかしながらこの地図は、オーストリアのウィーンで発行されたらしく、地名・島名・都市名などが大半オーストリア語(ドイツ語に近いですよね)とギリシャ語の併記乃至はいずれか一方だけの表記となっていて、ギリシャ語は全く読めませんし、こちらは邦訳で読む分けなので、所々で例えば軍隊の移動が何処から何処へ向かったのか、明確には判明しないといったことにもなりました。でも、これはこれで割り切ってしまえばよいのですから、読むことの楽しさに何の影響もありません。当方としては、トゥキュディデスが夫々の事象を、「戦史」の中に取り込み、我々にも流れとして捉え理解出来る手法をもって示してくれたことは、大変有難いことではありました。さはさりながら膨大な量の情報を、当時の通信技術や交通手段或いは人間関係に基づいて、どのように取得・収集し、これらを(彼なりの基準を設けて)取捨選択しながら、事象の因果として纏めていくのは、やはり並大抵のことではなかったに違いありません。邦訳と地図とを見比べ、訳者の「注」が示される度に、巻末に置かれた「訳者注」を繰ったりしていると、1頁を読み進むのに結構な時間を要してしまいます。その結果此処でもこの「戦史」を読み切るのに、3か月以上は掛かることとなりました。

 ボクにとっての「楽しい読書法」と言うのは、要するに、対象となる著作物の内容が、旅行記(紀行)や戦記、日記、時にはエッセイなどでも、其処に記述された著者或いは著述対象者などの行動・移動範囲に関連した「地図」を、机の傍らに置いて読み進めていけば、その作品が記述された時代の人々の生活テンポや思考の在り方に、より迫っていける、従って理解も深まり、尚一層読書が楽しいものとなる、そんな気がしているところです。


 そうした意味で、これから先(ボクがあの世へ旅立つまでに)時間さえあれば、同様の手法で読んでみたい作品は、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(金坂清則・訳注、全4巻 東洋文庫)です。ボクはこれを7~8年程前に、「『イザベラ・バードの日本紀行』時岡敬子訳・講談社学術文庫」で読んだのですが、大変興味が持てる作品だと思っていました。イザベラ・バード(1831~1904)は、英国・ヨークシャー生まれで、当時としては珍しい女性の「旅行家」で、我が国以外ではカナダを始め朝鮮やアジア諸国にも出掛けて行き、都度、彼女の目を通しての貴重な報告書(「紀行」)を、刊行してきました。「日本奥地紀行」は、1878年5月の来日後、バードが東京から日光を経由し新潟へ向かい、其処からは山形、秋田、青森の東北路を登り、津軽海峡を渡って函館から室蘭、室蘭から苫小牧、更に東へ50㎞程の勇払(ユウフツ)・平取に到達、此処を蝦夷地の最終地点として、彼女は帰路に就くことになります。この旅路のガイド兼通訳を見事にやってのけたのが、伊藤鶴吉という若き青年(当時21歳)で、高等教育など受けては来なかったにも拘わらず、我が国の歴史や文化のあらゆる分野に通暁しており、バードは彼から得たあれこれの知識を、自身の著作にそれとなく利用したとも言われています。伊藤青年は、勇払の荒漠・荒涼とした風景を前にして、其処をなかなか去ろうとしないバードに対し「こんな何にもないようなところに居ても仕方ない、早く此処を離れよう」といった主旨のことを語り掛けるのですが、バードは「私は此処に、在るものを見に来たのではない、無いものを確かめに来たのだから、これで良いのだ」と返した、との逸話が残されています。ボクはこのやり取りが偉く気に入り、二人の間の忘れがたい「対話」として、今も自身の脳裏に焼き付いているのです。こうして「奥地紀行」は終了、バードは函館に戻り、船で東京に帰還。その後はお伊勢参りをした後、京都へ向かいこの旅の幕を閉じることとなります。

 いずれにしても、このようなイザベラ・バードによる(「奥地紀行」だけでなく)「日本紀行」の全行程を、いつの日か日本地図を詳細に辿りながら、彼女と共に旅が出来れば、ボクの読書人生にももう一つの花が添えられるのになぁ、と願っているところです。

 余計な付け足しですが、イザベラ・バードの来日が維新直後の1878年(明治11年)5月、ヴェガ号の航海開始は同年の7月。此処で偶々取り上げた二人が、同じ年の僅か2か月程の間を置いた時期に、彼らがやがて執筆していくであろう著作の対象となる「行動」を開始しているのですから、ボクとしては、何とも言い難い(些か大袈裟ですが)運命的な何かを感じてしまっています。