Post date: 2017/05/01 0:17:46
トーメン出身 双夢部
スコットランドの旅 ~ Bessie のお墓を訪ねて ~
2016年6月、僕はアイラ島とジュラ島を訪問した。どちらも面積は約600平方キロと東京都区部と略同じ面積だ。
其処の人口は3,300人と160人という過疎地である。
Islay(アイラ)島にはウィスキーの蒸留所が8箇所あり、Jura島には一箇所の蒸留所のほかこの島で1948年に
George Orwellが未来小説「1984」を書いた島としても知られている。
これらの島と蒸留所を案内してくれたのはアイラ生まれのガイドChristine Loganさんだ。
ガイドなどこれまで雇ったことがない僕だが、彼女のガイド振りは、まったく素晴らしいものだった。
詳細は僕のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/taruim1941 スコットランドへの旅をご参照いただければ
アイラ、ジュラが素晴らしいところとご理解いただけるだろう。
今回の旅行で僕のもうひとつの目的は、Elizabeth(Bessie) Williamsonのお墓を探すことだった。
ウィスキー好きの僕にとってはBessieの生き方については関心を持たざるを得ません。
Bessieは1982年に亡くなったのだが、出発前にパソコンでいろいろ調べたが、Bessieのお墓の写真はおろか、
その位置さえも知りうるデータはなかった。でも現地にさえ行けば・・・と僕は楽観的に考えていた。
Elizabeth(Bessie)Williamsonは1910 年Glasgowの生まれ、1932年にGlasgow大学を卒業したものの
折からの世界恐慌の影響で碌な就職口を見つけることも出来なかった。
1934年の夏、Bessieは旅行でIslay島に渡りLaphroaig蒸留所が三ヶ月の雇用条件で秘書業務のアルバイト
募集を知り就職する。Laphroaig蒸留所のOwner Ian Hunterはウィスキー作りしか興味のない独身男だったが、
Bessieの素晴らしい才能を発見し、彼女にウィスキー作りを教え込む。そして戦争が終わった1946年には
世界で初めての女性のDistillery Managerに就任する。
1954年Ian Hunterが没したとき、Hunterは蒸留所を含む彼のすべての財産をBessieの遺贈したのだった。
Laphroaig蒸留所のVisitor Centreの一角にBessie Cornerがあり、そこにFrom typewriter to ownerと
タイトルがありこう記されている。
Bessie arrived one summer and applied
for a temporary job-She ended up
staying 40 summers-And became
the first female distiller and distillery
owner in the 20th century
Bessieは男の職場と言われる蒸留所の経営を通じてWhiskyの熟成にBourbon樽を使用することを確立した
ほか、ほかの蒸留所が自社でMalting(製麦)することをやめ業者にMaltingを委託することが一般的な中、
自社の蒸留所の中で伝統的なFloor Maltingを守ったりした。また、地域とのコミュニケーションを増進するため
蒸留所のホールを市民のために開放したりした。
1961年彼女がScotch Whisky Associationのアメリカ代表としてアメリカに出張中にアイラ系カナダ人でMusician
の Wishart Campbellと出会い結婚する。Bessieはこのとき51歳だった。
1962年にBessieはLaphroaig の権利をLong John Distillery に売却、その後も取締役で残るが、1972年Laphroaig
を引退、1982年にグラスゴーで71歳の生涯を終えた。
6月23日、この日はガイドのChristineはアメリカ人の写真家とのアポイントがあるとのことで、僕たち(一緒に
この旅行をしてくれたTさん)はアイラ島の南岸に連なる三つの蒸留所(Laphroaig Lagavulin Ardbeg)の見学をした。
・・・蒸留所を見下ろす小高い丘の上の墓地で彼女(Bessie)は今、静かに眠っている・・・土屋守「シングルモルトを愉しむ」より
当然のこととしてLaphroaigの従業員ならBessieのお墓の位置を知っているはずと思ったが、僕が質問したpresenter
のお嬢さんも受付のお姉さんも知らないという。Bessieが亡くなって34年の歳月が流れているのだ。
翌日、この日はアイラ島での最後の日、僕はChristineにBessieのお墓に行きたいといった。
Christineは目をまん丸にして、私は長くこの島でガイドをしてきましたが、Bessieのお墓に行きたいと言ったのは、
あなたが初めてよ。私もその場所を知りませんが、一緒に探しましょう。
すべての当初の予定が終わった午後3時半、僕たちはLaphroaig蒸留所に向かった。
Christineが予め、Laphroaigに勤めていた古い社員でBessieのお墓の位置を知っている人との連絡を 取るためだった。
お墓は僕が思っていたLaphroaigの北側の陸地ではなく、Laphroaig湾を囲む海側の岬にあることが判明した。
其処に着くとお墓は三段の墓地に分かれていてそれぞれ150基ほどのお墓が並んでいる。時刻は4時を回っている。
もう駄目かもしれない。
どこかに電話をしたChristineが「お墓は一番低いところにあるわ。さぁ、探しましょう。」
と言った。
Ⅰ’ve got it! 素っ頓狂な声をあげたのは僕だった。
Bessieのお墓は、確かに蒸留所を見下ろす場所にあった。
ほかのお墓の多くがお花を手向けられているのだが、Bessieのお墓には供花もなく折からの驟雨にひっそりと佇んでいた。
僕が涙目でBessieの墓碑を眺めていると背後からChristineが僕に声をかけた。
三浦さん、Laphroaig Whiskyよ、これをBessieに差し上げて、とウィスキーの小瓶を僕に差し出した。
こうして僕のこの旅行の最後の目標も達成できた。Bessieの墓標にはこう記されていた。
IN
LOVING MEMORY
OF
ELIZABETH LEITCH WILLIAMSON
OF ARDENISTIEL PORT ELLEN
AND LAPHROAIG DISTILLERY
BORN GLASSGOW 22ND AUGUST 1910
DIED GLASSGOW 26TH MAY 1982
REMEMBERED FOR HER SERVICE
TO THE COMMUNITY
AND
HER BELOVED HUSBAND
WISHART NEIL MUNRO CAMPBELL
BORN ORO *CANADA 4TH MARCH 1905
DIED BOWMORE 5TH NOVEMBER 1983
*OROはカナダのオンタリオ州の街ということが判明しました。
アイラアイティス(Islayitis)という言葉がある。 Itisはラテン語で病気という意味らしい。アイラを訪れた多くの人が
アイラの素晴らしい自然と環境にアイラ狂いになる病気のようだ。僕もすっかりアイラアイティスに罹ってしまった。