≪松丸了さんの死を惜しむ≫ 元安宅産業 大西肇

Post date: 2015/07/20 6:38:29

≪松丸了さんの死を惜しむ≫

元安宅産業 大西肇

失って、改めてその存在の大きさを知ることがあります。

松丸了さんは2015年5月26日、自宅でご家族に見守られながら

安らかに76歳の生涯を終えられました。

彼は天衣無縫でしかもぶれないその生き方で、関わりのあった全ての人の

人生に影響を与えて、駆け抜けていったような気がします。

松丸さんは安宅産業海外業務部の出身で、1977年の合併により伊藤忠商事へ移籍、その後はブカレスト・モスクワ・イスタンブール・キエフ・アシガバードなどの駐在所長を歴任し、最後は日本サハリン協会の事務局長として商社マン生活を終えられました。

ブカレスト駐在中にルーマニア革命が勃発し、メディアの出先も動けない状況で、銃弾が自宅に飛び込む中、日本のテレビ局の問合せに協力して、何度かレポートされていたことが印象に残っています。その髭から、現地の人達には取引先を含めてMr.Moustacheと人気だったそうです。

サハリン協会時代は、現地情報を収集し、独自の視点で業界向けの「週報」を

発行されていたと記憶しています。

私も海外業務部でしたが、合併後すぐに伊藤忠を辞めて水産会社に移ったため、お互い海外での仕事が多くなり、時にモスクワで出会う程度になったものの、機会あれば連絡を取り合っていました。

安宅はカナダの石油事業が1973年の中東戦争で原油価格が高騰して経営危機に陥り、この事業に深く関わっていた当時の住友銀行の主導で伊藤忠と合併させられました。後ろ向きの解体合併では大量の人員整理と関連企業の倒産が必至ですから、自主再建を掲げて「安宅産業労働組合」を結成、以後620日に及ぶ合併反対闘争を闘うことになりました。大手商社で労組がなく微温的な社風とされていた安宅でしたが、社内では切り崩しに耐え、海外取引先とも連繋し、

自民党から共産党まで働きかけて国会での議論にあげました。その結果、約1000人が伊藤忠に移籍しました。闘争方針は全商社の指導がありましたが、

具体的な戦略・戦術は書記長松丸さんを中心に素人の安宅労組が実施しました。

私が伊藤忠を辞める時、安宅の会長として派遣されていた松井弥之助氏と一晩語る機会があり、松丸さんは引き受けた中のダイヤであると仰っていました。

松丸さんは俳句や詩歌にも造詣が深かったのですが、彼の好きな言葉に、西田幾多郎の「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾行なり」があります。

私も学生時代に京都の哲学の道を通るたび、この碑を見て、なんと凛とした言葉だろうと感動したものです。私は感動しただけですが、松丸さんは実践していたように思います。

闘病中も俳句や語学の勉強を続け、見舞いに行った私達には辛そうな顔を見せたことがありません。5月に逝去されるとき最期の言葉は「心だ!」だったそうです。高杉晋作みたいですね。最期までカッコ良かった松丸さんでした。

そして戦いに斃れた兵士のように安宅労組の組合旗に包まれて旅立たれました。

合掌