高校時代の仲間への手紙 「古稀に想う」

Post date: 2013/05/23 15:32:53

続けていきたい ― 「地域の学校」との交流

Tristan・k(元岡谷鋼機)

ボクたちも、お互いにいよいよ古稀を迎える季節となりましたね。あの学び舎を巣立ってから、既に半世紀の歳月が流れたこととなります。

ボクの場合、60歳早々でめでたくリタイアを果たすことができた(尤も、「めでたく」思ったのは、会社の方だったのでしょうが)のですが、時期が早かっただけに、その後の地域活動への方向転換も思いのほか順調に進んで、いつの間にかそれなりの役割も与えられ、ことによると寧ろ現役時代より多忙な日々にある、と言ってよいのかもしれません。そうした中で、近隣の学校とのお付き合いがあったりして、先生方を始め、児童・生徒・学生、時には保護者の方たちとの「交流」の場に臨むこととなります。

凡そ「教室」と名のつくところ、学校時代のボクにとっては、何処も大いに苦手な場所ではありましたが、この年齢になって出掛けてみれば、「其処」はいつも、心の奥底から何かがこみ上げてくる、何とも心地よい不思議な領域に変わってしまったような気がします。

先日、歴史書を読んでいて知ったのですが、ノスタルジアというのは「ギリシャ語に語源をもち、『ノストス』(故郷に帰る)と『アルゴス』(痛み)が合わさった言葉である」(「ノスタルジアの考古学・国書刊行会」)のだそうです。

古里に帰ることと、「痛み」とがどのように繋がっていくのか。ひと度故郷を後にした古の人々の多くが、容易にはその地に戻ることができない。還りたい気持ちが嵩じて胸が「痛く」なったのか、幾星霜を経て漸く故郷に辿り着いてみたら、最早父母・友垣の姿はなく、嘗ての佇まいまでが跡形もなく消え失せていた、或いは、想い描いていた通りに、変わることなく山々は碧く水は清らかに流れているけれど、ふと自分自身が変わってしまっていることに気がついた。これらを「痛み」と感じたからなのか、ギリシャの人たちは恐らくこんな風に想いを巡らせて、『ノスタルジア』という言葉に行き着いたのではないかと思います。

苦手だった「教室」を離れ、遥かな地に辿り着いて振り返ってみると、その「教室」こそが、今の自分の骨格を作ってくれていたことに気付きます。次の、いや、更にその次の世代の「教室」の中で、自身が其処に戻ることのできない「痛み」を感じつつも、何故か心に温もりが甦ってくる「地域の学校」との交流を、これからも続けていきたいと思っているこの頃です。

(完)