第9回 トーメン出身 双夢部 【おじいさんの古時計】

Post date: 2011/06/28 3:25:49

最近、演歌は低調を極めているようだ。NHKが積極的に演歌を支えているのに。

夜のテレヴィのゴールデンアワーに演歌などを放映する民放はもはや存在していない。

CD販売における演歌のシェアは10%を切っているようだ。

その原因は、我われオジン族の経済力の低下のほか、若者の演歌離れが大きいようだ。

義理、人情を主題にする演歌は、若者にとっては鬱陶しく、過去の人間が愛好するものなのだろうか。

我われ古い世代に属するものにとっては、最近の唄はメロディが美しくなく、歌詞にグロテスクで低俗な外国語が、使われていることや1小節に沢山の言葉が入っていて、言葉が美しく聞こえない上に、歌手は外国人のような日本語の発音をすることなど、取っ付きにくい唄が多い。

しかし、最近、リバイバルの時代なのだろうか。昭和37年ごろ流行った「明日がある」

や43年ごろヴィレッジ・シンガーが歌った「亜麻色の髪の乙女」が、テレヴィ、ラジオから流れる。どちらもメロディが美しい。

「亜麻色の髪の乙女」はともかく、「明日がある」は、初めて歌われた昔は、高度成長時代であり、本当に明日があった。経済は基本的に右上がりで、国民は総じて豊かになりつつあった。今日、歌われている「明日がある」は、些か時代背景のせいか、ヤケッパチに聞こえるのだが・・・

流行歌に影響のあるのは若者だ。若者たちの中にも、これらの唄に怒鳴り、叫びつくすようなものがない、所謂、優しさや癒しを感じているのかもれない。その中で、現在、(平成14年9月)、トップ・チャートにあるのが、「おじいさんの古時計」だ。(ちなみに10月は2位であった。)

この唄は、確か昭和37年ころ、NHKの「みんなの唄」のプログラムで立川澄人が、ソフトなバリトンで歌っていた。歌詞は今のそれと変わらなかったが、もうひとつ、「シンデレラのお姫様も今は消えていない。」という歌詞も存在した。この歌詞のほうが、歌われた時期は早かったと思うが、今はこの歌詞を歌う人はほとんどいなくなっている。

この唄はヘンリー・クレイ・ワーク(Henry Clay Work 1832-1884)により、1876

年に作曲されて、アメリカで当時、大流行した曲である。時は、アメリカが独立宣言を行って丁度、100年が経ったころであり、日本では明治の御世になり、西南戦争勃発の前年に当たるころであった。

同じ時期に、アメリカが生んだ大作曲家にスティーブン・コリンズ・フォスター(Stephan

Collins Foster 1826-1864)がいる。ワークがスコットランド出身であるのに対し、フォスターはアイルランド出身だ。どちらも美しい民謡を沢山生み出した国だ。

美しい唄には、短調の曲が多いと思われがちだが、二人の唄は殆んどが長調の曲で、日本人のメロディ感覚に合っているので、明治以来、小学校唱歌や愛唱歌として、日本人が慣れ親しんだ曲が多い。また、この二つの国は、すばらしいウィスキーを作った国でもあるし、両国ともイングランドの圧制に苦しんだ国でもある。イングランドの圧制を逃れて、沢山のスコットランド人やアイルランド人が新天地を目指したのだろう。

フォスターの唄は日本人にとっては、なじみの深い曲が多いが、ワークのそれらは、僕にとっては、Marching Through Georgia(日本名では権兵衛さんの赤チャン)が、ワークの作品であることくらいしか知らなかった。

2002年8月のある早朝、目覚めて時計を見ると午前3時であった。眠れぬままにテレヴィのスウィッチを入れると、NHKが「楽園の彼方に」というプログラムの再放送をしている。そこに登場しているのが、関西弁丸出しの平井 堅というバタくさいが、とてもハンサムな若者が、「おじいさんの古時計」のルーツを尋ねていた。平井 堅がこの唄を歌ってヒット・チャートを登っているなど不覚にも僕は知らなかった。

アメリカ東部のコネティカット州のミドルタウンという町のワークの末裔の家で、彼は「おじいさんの古時計」にたどり着く。この唄の歌詞にあるように、棚にはとても置けないのっぽの時計は、もう動いてはいなかったが、古いものを大切にする人々の素朴さに僕は感銘した。

平井 堅がこの唄を発売したのは2001年8月と言われている。平井 堅は1972年の生まれだから、今(2002年現在)は30歳なのだろう。平井は子供のころ、この唄を聴いていたのだ。彼はこの唄に感動して、大きな古時計の絵を描いて、小学校時代に三重県で金賞を得ている。でも、その当時、彼の胸には今日のヒットは想像もしないことだったのだろう。運命とはなんとすばらしいめぐり合わせを用意するのだろう。

この年(2002年)の10月のはじめの日曜日、アメリカのロサンゼルスのトーランスという町から二人の紳士、淑女がわが家にやってきた。トーランスは僕の住む柏市と姉妹都市契約を結んでいて、毎年、中・高校生や市民の相互訪問を実施している。

わが家もホームステイ先として4年ほど前からアメリカの若者を迎えている。今年も8月に若者がわが家にやってきた。

この年は姉妹都市契約締結30周年にあたるようで、両都市の市民も相互に訪問するようだ。わが家を訪れたのは、日系2世のセキグチさんとイケダさんだった。

セキグチさんは75歳の男性で広島のご出身で、イケダさんは68歳の女性で福島県のご出身とのことだった。お二人とも、連れ合いを数年前に亡くし、最近ではコンビニでしか食事をしたことがないと言って、僕の女房の作った手料理をうまそうに頬張ってくれた。

お二人とも、きわめてご壮健の様子である。

僕たち夫婦が、戦前と戦争中に生まれたというと、セキグチさんは目を瞬つかせて言った。「君たちの戦後はさぞ、辛かっただろうな。なにしろ、食うものがなかったというじゃないか。僕は初めはアリゾナの収容所に入れられたが、その後、アーカンソーの収容所に送られたよ。隣はドイツ兵のPOW(戦争捕虜収容所)だった。」僕は下手な英語で言った。「僕たちは、本当に食べるものがなくて辛かった。でも、日系アメリカンはもっと辛かったと思います。あなた方はアメリカの市民なのに、POW(戦争捕虜)並みに扱われたのですからね。僕はマンザナールのこと(カリフォルニア州に設けられた日系アメリカ人の隔離収容所)を読んで、日系アメリカンの戦争中の苦労を知りました。当時、日本も随分、酷いことをしたが、アメリカも酷いことをしたんだね。」

イケダさんは無言で頷いた。

話が暗い!!そう思った僕は、「ところで、日本の現在の音楽のヒット・チャートはなんと、おじいさんの古時計が、NO。1を独走中なのです。」と言った。

「本当?!」イケダさんが首を傾げた。僕がハミングするとイケダさんが歌いだした。

4人の歌声が狭いわが家にこだました。唄が終わるとイケダさんは、また首をひねって言った。「この唄は100年以上前の唄で、今はアメリカでは子供たちが歌う唄なのに、どうして今頃、日本のヒット・チャートに出るのかしら・・・」

本当だ。なぜ、今、おじいさんの古時計なのだろう? イケダさんたちと別れた後もこの疑問は残った。この唄の英語の歌詞を調べたら、ほぼ、日本語のそれと変わらない。

おじいさんが生まれ、幼年期を過ごし、お嫁さんを貰い、歳をとり、やがては天に召されたとき、ついに時計は止まると歌われている。ただ、「100年休まずに・・・」は英語では、Ninety years without slumberingとあるから、90年うたた寝(止まること)をせずという意味だろう。その他は、訳者の驚くべき努力で、英語に忠実な歌詞となっている。

90年と100年の差は、日本語で歌うのに90年では歌いづらいからだろう。

この唄が、歌われ始めたのは今年(2002年)の始めからだろう。

今から100年前と言えば、20世紀になったころで、日本は1900年に列強とともに義和団の乱鎮圧に多国籍軍の一員として、北京に進駐したころで、漸く日本が世界史の中に具体的に登場したころである。20世紀はアメリカと日本の世紀といわれて久しい。

それからもう100年が経過した。発展、挫折に立ち向かい、この100年間(休まずに)働き続けてきた日本だが、「いまわぁ、もうぉ、動かなひぃー!!、その時計」と歌う平井

堅の絶叫を聞くとき、動かない時計は、日本の経済そのものを暗示しているように聞こえるのである。もっと、具体的には、おじいさんは日本人のこと、古時計は明治以降、日本が信奉してきた「脱亜入欧」のための諸制度ではないだろうか。

それらすべてが、壊れはじめたとき、日本人の深層心理が、「おじいさんの古時計」を受け容れる引き金となったのだろう

エッセイ集「日々折り折のこと-6」2006年発行より