第8回 岡谷鋼機出身 骨茶 【二人の男】

Post date: 2011/06/28 3:25:01

コラム担当の一人に加わったときに、肩のこらない軽く読み流していただけるものが書けるといいなと思いました。ところが出番がずれて8月に当たってしまい。当会のHP、8月に太平洋戦争をテーマからはずすわけにもいくまいと思った次第です。

1月の当欄に三人の男というすばらしいエッセイがあった。あやかって3人の男のことを書こうと思ったが筆力の問題もあり今回は二人の男と彼らがかかわらなければならなかった在外の被爆者運動について紹介したい。原爆投下後、焦土と化した広島をそれぞれ歩いた一人は森田隆、もう一人は倉本寛司である。

東京中野の憲兵学校を7月29日繰り上げ卒業した21歳の森田は故郷広島に憲兵兵長として赴任する。一週間後、運命の8月6日朝、本土決戦に備え広島西部の己斐山腹に地下壕作り作業に従事すべく13名を指揮して向かった8時15分、突然の黄色い閃光で吹き飛ばされる。首に火傷を負っている。空に一片の雲もなく、警報も爆音もなく全く無防備の広島の朝が暗い夜に変わった悲劇の始まりであった。集合できた5名の同僚を伴いなおも山に向かう。途中で一人の老人がよろよろと近づいてくる。全身裸で顔は真っ赤、よく見ると火傷で皮膚がむけ、前に掲げた両腕の皮が爪からさがり、身体の皮も足首までさがり土に引きずっている。森田の前でばったり倒れた。「しっかり、」と声をかけたが既に息は止まっていた。森田が見た最初の被爆死者でこの後数知れず死者を目の当たりにすることになる。森田は言う。「人間は悲惨な姿に漬かっていると悲惨な光景になれていき、ヒロシマの姿を見つめ続けることができたのだと思います」。付近の家、鉄道線路の枕木、松林が燃えている。目的地の山腹は正面に光を受けたため、火傷で苦しむ人の山、前方の広島を見下ろせば火の海である。負傷した将校の求めに応じ森田は広島の状況調査にとって返した。以後8月9日、自らの火傷の治療のため佐伯郡の小学校に開設した臨時陸軍病院に入院するまで、地獄かと思える広島の被害状況を調査、怪我人の救済、死人の処理に奔走する。

倉本は広島出身だが立命館工学部土木科の学生で、8月6日は学生動員で山口県光市にある海軍工廠で地下工場建設のための測量に従事していた。7日になって広島全滅のニュースが入り直に広島へ行けの指示を受けるも汽車が不通で、結局広島駅に着いたのは8日の暗くなってからであった。まだあちこちが焼けており人体の焦げる悪臭はいつまでたっても忘れられないという。大田川に沿って自分の家に向かって歩くが月もない夜で道端に倒れた何人かの死体を踏みつけグジャと音を聞いてしまう。中心から2キロ以上離れていたが一帯は焼き尽くされており、母と弟が仮住まいの小屋にいた。翌日から母と二人で行方不明の父を探して歩く。家を出た時刻から被災した場所を類推してスコップで瓦礫の下を掘り沢山の死体を発掘した。死体は申し合わせた様にうつ伏して両手で頭を抱えるように絶命していた。防空訓練で習った通りだった。あちこちの仮設病院、収容所も探して回った。顔も焼け爛れて誰とも判別できない全裸の人たちが蚊の鳴くような声で「水を、水をください」「此処にいることを家族に知らせて下さい」と途切れ途切れに口走る。死期の近づいた火傷の人に水を与えることは死を与えることと知っていたが、呻き声をあげて水をせがむ半死の人に水筒の水をあげる。これ以外にできることはなかった。「ああ美味しい」と叫んでそのまま肩を落として亡くなっていった。沢山の被爆者から名前と住所を聞き、頼まれるままに紙に書き、瀕死の人の傍らにそっと置くのが精一杯のことであった。少ししてそこにまた戻ってきたら、その人の遺体はなく、倉本の書いた紙だけが近くにあった。亡くなるとすぐに処理をしないと腐敗するので仕方がないのだが、あまりの惨めさに涙も枯れはてた。結局父親は遺体も見つけることができなかった。

森田隆、1924年生まれ。1942年より第一広島防空監視所所員として勤務。1944年11月1日、陸軍岐阜飛行師団、浜松三方ヶ原航空隊に入隊。上官の指示で憲兵志願をする。翌年になり日本の空の制空権は米軍に移り、連日各地が空襲を受け、飛行場のある森田の部隊は年頭より爆弾攻撃や艦載機による機銃掃射を受ける毎日であった。ついに一月中旬兵舎を焼かれ、混乱状態で食料は欠乏し、新兵の食事はさつま芋の茎が主で米粒の少し入った雑炊だけ、そのため多くの兵隊が栄養失調で倒れていく。医薬品は不足し、栄養失調の兵隊に与える薬は牛の骨を黒焼きにして粉末にしたものだけ、多くの新兵はやせ衰え下痢も止まらず、腹が異様に膨れ、ギラギラした目で食べ物をあさる姿は哀れで、そして次々死んでいった。遺体は、比較的元気な森田たち患者がリヤカーに積んで陸軍墓地に運んだ。健康を取り戻し部隊に帰った森田に2月、東京中野の憲兵学校より入学通知があり、東京で憲兵候補生としての生活に入る。軍人の模範とされる訓練と勉強の毎日であったが食事は当時としては考えられぬほどの献立であった。肉や魚の出ない日はなく、浜松での生活との違いに軍隊の矛盾を感じたという。東京は連日空襲を受けるようになった時局下7月28日繰り上げ卒業になり、翌日希望の広島へ配属されることになるのである。

倉本寛司(くらもとかんじ)、1926年4月ハワイ、ホノルルで生まれる。5歳のとき来日、ずっと日本人として成長する。原爆で家が焼け広島は焦土と化し、父親は行方不明で財産もなくなり、貧乏生活でどうしようかと迷っているときアメリカ領事館から「貴方はアメリカ人であり、今すぐパスポートを取れば故郷のアメリカに帰れます」との知らせを受ける。アメリカ在住の叔父を頼り、新しい天地を求めて手続きをして弟と帰米する。

以来、サンフランシスコに居住する。上陸してアメリカは良いと感じたことは、やはり食料が豊富なこと貧しい日本とは天と地の違いがある。そして何よりあの悲惨な原爆の悪夢から逃れられたことだという。しかし、現実のアメリカでの生活は想像していたものより苦しいものであった。まず、言葉が通じなくて困る。そしてお金がない。呼び寄せてくれた叔父の一家は敵国人として収容されたキャンプから着の身着のままで出所したばかりであった。英語の弱い、アメリカの様子が分からない倉本が得られる仕事はスクールボーイぐらいしかない。家庭に住み込み掃除や皿洗いをして昼間は学校に通い、月20ドルから30ドルの小遣い程度の給料はもらえる。倉本はこの仕事が嫌で何度も辞めた。しかし生きるためまた入った。以前喧嘩して辞めた所にまた面接に行ったときは本当に悲哀を感じたという。この頃、同じように帰米した者が沢山いた。金もない、希望も少ない、週末行き所もない、しかし若さがある者が集まり「友好会」を設立して苦労を忘れて遊んだことは楽しい思い出である。1951年、小さな工務店に就職、ついでサンフランシスコ市役所に移り、1954年からカリフォルニア州道路局に就職、1988年病気のため辞するまで38年間勤める。

1947年頃から戦争中日本にいた二世や、アメリカの兵士や軍属の妻となった日本女性が帰米、渡米してくる。この人たちの中にも被爆者が大勢いた。原爆の恐ろしさをアメリカ人に言ってもなかなか分かってもらえず、虐められもする環境の中で、被爆者同士が被爆のことを話し合える、また慰め合える団体として1965年頃にロサンジェルスで親睦の会「原爆友の会」が結成された。相互に助け合う友情の集いである。1971年にロサンジェルス郡検死局長ドクター・トーマス野口が「原爆友の会」のことを聞いて支援協力を始める。氏の親睦だけの団体でなく、被爆者支援を考えた充実した団体にするようにという進言を受け、その第一として公認団体「在米原爆被爆者協会」を11月に結成する。米国における原爆被爆者救済運動のスタートである。そして翌1972年、ロスで協会設立にかかわった幼馴染の友から倉本にサンフランシスコでも設立しませんかとの誘いがかかり、原爆の悲惨さを思い、困ったもの同士なので呼びかけだけでもと軽い気持ちで被爆者協会にかかわる。これが人生の困難な大きな運動として生涯かかわることになろうとは考えもしなかった。1974年1月加州東京銀行社交室に50数人が集まり北カリフォルニア被爆者協会誕生、会長に倉本が選出される。

森田に話を戻す。1ヶ月後退院した森田は10月1日より憲兵司令部に復帰し終戦処理にあたるがマッカーサー指令で公職追放になる。翌1946年、広島市で時計商を開業、最愛の妻綾子との出会いがあり9月15日結婚式を挙げる。綾子も県庁職員で公務中に被爆、奇跡的に命をとりとめた被爆者である。生活は大変だが空襲のない、死者の出ない平和な生活がありがたい毎日であった。一男一女にも恵まれた。しかしながら原爆後遺症の白血病に苦しむ日々でもあった。治安が悪く、森田の店も客の修理の時計20個を盗まれ償いに泣かされた。被爆者対策は行われず夫婦の治療費も大変であった。戦後11年の広島での生活に希望を失い、外務省のチラシ「行け行け・・海外へ・・新天地で・・」でブラジルに希望をもつようになる。親兄弟の反対を押し切り10年の出稼ぎの約束で家族4人ブラジルに渡る。被爆者に対して援助のない時代の悲しい選択だったが、異国での生活はそれは大変だった。言葉が通じない、習慣の違い、知り合いがない、お金が足りない、こどもの教育問題、無知の移民の結果家族に辛い思いをさせたと思っている。辛く苦しい生活だったが、日本人として恥じぬ行いで、言語の習得に努め、ブラジル人の店で懸命に働き努力したおかげで二人のこどもも大学を卒業、幸せな結婚をして孫も3人恵まれた。

その間28年、被爆の問題も生きていく家族の将来のため触れないようにしていた。原爆被爆者に対する差別がかの地にもあることを知っていたからである。1983年、日本から来伯した海外移住家族連合会広島支部の理事東氏がブラジルに広島・長崎の被爆者が移住しており、彼らに被爆者関係の法律が適用されていないことを知り、当時の海外移住家族会ブラジル駐在理事田村氏に援護の道が開かれるよう協力を要請して帰日した。この記事が在ブラジル被爆者の目に留まり、森田夫妻も新聞を持って領事館に問い合わせに行く。

そこで日本では既に被爆者健康手帳が交付され原爆二法による援護を受けていることを知る。田村氏から「森田夫妻が呼びかけて、被爆して移民した広島・長崎の人たちのために被爆者協会を設立するように」と勧められ、1984年7月15日、田村氏を顧問に、上田照明氏と森田が世話人になり妻綾子を事務局長として在ブラジル原爆被爆者協会を発足させる。発足を邦字新聞が報道すると次々と被爆者を名乗る人が訪ねてくる。一人ひとりから被爆時の状況を聞き被爆者と認められるかを決めて会員を集め、9月9日、89人の会員名簿、協会定款と各関係者、県、市への請願書をたずさえて夫妻で29年ぶりの帰国をする。広島県、広島市、長崎市を訪ね協力要請をする。広島市長には既に米国で実施されている医師団派遣の要請もこのとき行った。東京の海外移住家族会の事務局長よりの呼び出しで上京、外務省、厚生省を表敬訪問する。外務省の好意的応対に気をよくして向かった厚生省で課長の思いもかけぬ冷たい言葉を聞くことになる。曰く「あなた方は外国に住んでおられるのだから日本では援助できない。ブラジル政府にお願いしなさい。税金も払わず、国を捨てたのだから」。戦前の教育を受け、お国のために命を投げ出す覚悟で兵役に着き、国の誘いで移住、過酷な異国での生活を日本人として恥じぬ行いを念頭に生きてきたと信じる森田にこの言葉はどう聞こえたか。前途の多難を思い、疲れ果てて帰国をする。

話は前後するが、アメリカはどうであったか。1976年南北加州被爆者協会が合同して全米組織の在米原爆被爆者協会を設立、倉本は会長をおしつけられてしまう。組織も次第に拡充して1992年9月までは仲良く続くことになる。倉本は機会をみつけては渡日して、広島や厚生省、外務省を訪問、被爆者手帳交付の簡素化、医師団派遣など被爆者支援を嘆願した。「広島の医師に診て貰いたい!」が被爆者の強い願望のひとつである。不自由な英語ではどうしてもうまく苦しみを伝えることができない。加えて原爆症であることを医療機関に明らかにしにくいという大きな事情がある。米国では医療費は通常個人加入の保険でカバーする。これが被爆者であることがわかると掛け金が数倍に跳ね上がり払いきれなくなってしまう。1976年、嘆願に当時の田中正己厚生大臣が耳を貸し、厚生省は「専門医の派遣については検討したい」と公表する。トーマス野口博士など米国サイドの協力者も得て、翌1977年3月、広島県医師団による第1回在米被爆者検診が実施される。医師団派遣にかかわる最大の障害は米国のライセンスをもたないものが米国内で医療行為をできないという法律で、度々開催が危機に瀕しながら検診に限って隔年の開催を継続した。さて、検診は実施されたが治療の問題は未解決のままである。

1985年1月、三ヶ月の日本滞在を終えてブラジルへ帰った森田のもとへ、広島県が南米被爆者の相談のためにブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三カ国に医師団を派遣、実態調査はペルーを加えた四カ国に行うという知らせが届く。森田たちは被爆者へのPRに奔走する。医師団は10月23日から11月9日までの間に三ヶ国で133人の健康相談や指導を行った。この後ブラジル被爆者協会は南米被爆者にアンケート調査、帰国による被爆者手帳の取得運動、医師団派遣の継続要請と活動を広げる。1990年8月には広島県・市の被爆45年記念事業にペルー・アルゼンチン代表とともに森田・倉本が招かれ「日本国内に住む被爆者と同じ援護の手を」と訴える。実は厚生省は1975年、一片の局長通達で被爆者手帳を有するものに支払われている健康管理手当が日本国外に出た時点で支払われないとしたのである。米国・ブラジルそして韓国被爆者団体が手をたずさえて運動を展開する。2002年、3人目の男、郭貴勲(カクキフン)が「被爆者はどこにいても被爆者」の言葉で裁判所、厚労相の心に訴え、裁判勝訴で局長通達を覆す。歴史的勝利で在外被爆者運動は大きく前進する。長い年月であった。その間、何人の被爆者が世を去ったことであろうか。しかし、いまだ日本に住む被爆者への援護とは差が大きい。その最たるものが被爆者手帳を取得するのに渡日を義務付けていること、被爆の証明に他の証言を要することである。高齢で病気、渡日などとてもかなわぬ者も多い。

米国ではさらに複雑な事情がある。障害は、パールハーバーを忘れるな、原爆投下は戦争終結のために正当な行為、被爆者は当時敵国民でありアメリカに住んでいるだけでも幸せと思えといった世論であろう。被爆者救済法の立法化が何度も試みられたが今なお日の目をみていない。倉本は「ディフェンス(国防省)の反対ですよ」と言った。原爆使用の正当性に問題を投げかける法案を通すわけにはいかないと。このような環境下、被爆者自身さまざまな事情を抱えている。運動の舵取りも大変である。協会被爆者援護の問題に取り組む米国被爆者協会は1992年なぜか広島県医師団の干渉で分裂、倉本は会長を辞する。分裂に心を痛めながらなお被爆者援護に力を注ぎ、未解決の問題に取り組むが、解決を見ることなく2004年10月4日オークランドの病院で他界する。享年78歳。

森田はなお元気で、高校生など若者に平和の大切さを訴えて国内を奔走している。未解決の被爆者援護問題のため、地球の裏のサンパウロから27時間かけて来日する。しかしいつも仲睦まじく手をつないで隣を歩いていた綾子夫人はもはや渡日がかなわなくなった。

森田、倉本にそして郭も加えて共通することは実に穏やかな人たちだということである。厚労省との話し合いなどの場で役人の血の通わない発言にも声を荒げるようなことはない。倉本の後を託された友澤は「倉本さんの怒ったのを見たことがない。それははがゆいぐらいだ」という。苦労を重ねた人は相手の立場を斟酌するのであろう。郭のことはまた機会があって許されれば書きたいと思う。