第42回 岡谷鋼機出身 骨茶 【もったいないでもものたりない】

Post date: 2012/02/27 2:41:17

骨茶(岡谷鋼機出身)

20年前のことになるが、山仲間8人でネパール・アンナプルナ山系へトレッキングに出かけたことがある。中継地の香港でウィスキー、大容量のボトルを2本買い求めて持ち込んだ。ネパール国内の移動で日程を使ったこともあり、1本目はトレッキング開始第1日に早くも終了することとなった。困ったのは空きびんの処理である。ツアーはガイド、コックがついて基本的には野営地でテント泊りになるが、1泊目は登山開始時刻の都合もあって民家の軒先を借りての宿泊であった。そこでこの家のおかみさんに空きびんを何かにお使いいただけないかと願い出た。喜んでいただきましょうと引き取ってもらえることになってヤレヤレ無事解決。ところが、あとで分かったことなのだがこのびんは実はコック氏が狙っていたのである。2本目は必ずくださいということになり、2本目の処分方も解決、コック氏は調理用水の運搬用に嬉々として利用してくれたのである。

我が国の、かつての池田内閣の高度経済成長から田中内閣での日本列島改造計画へと続いた急速な経済成長は様々な面で間違いであったと確信する。高度経済成長はすなわち、大量生産、大量流通によってなしうるものであった。「経済活動だ」と言えば大手を振って世間を闊歩した。しかもその経済活動は生産から販売までを言ったのである。大量生産によって「使い捨て時代」を創出し、「大量ごみ時代」を招いておりながら、ゴミは消費者で勝手にご処理くださいと、ゴミ処理を生産者の経済活動に含むことはなかったのである。

では消費者はどうであったか。電化製品を揃えることを喜び、憧れの自家用車を持ち、手ぶらでスーパーマーケットに入っていくと、使い捨て容器に入れられた商品を、提供されたレジ袋に詰め込んで出てくる。使い捨て買い換えに贅沢感を持つこともあったかもしれない。ゴミに対してなすことは回収する地方自治体の分別区分に従って分けることぐらいであった。

かくして、家庭で毎日使い捨てられた大量の不燃ごみは、設備投資によって企業や建設現場から発生する産業廃棄物と同じく、日本全土可能な限りの場所を探して地上、地中に廃棄されてきた。人間が地球上で人間らしい生活の営みを始めて1万2千年と言われる。どれぐらいの世代交代をなしてきたのであろうか、それをここ1-2代を生きるものが、生活の利便を得る一方で営みの源である大地を、海をそして大気をゴミで覆い尽くしてきたのである。

そして、問題ゴミの極めつけが「死の灰」放射能生成物である。核分裂を利用した炉の性質上、投じた燃料が同量の廃棄物、すなわち死の灰となって残るのであるが、1966年、東海第一原子力発電所の稼働で始まった日本の原発で発生した死の灰の量たるや、1トンたりともなくすことも無毒化することもできないまま、貯まりにたまっていまや広島に投下された原子爆弾の何と百万発分以上といわれている。太平洋に深く沈める、あるいは南極大陸に埋める、果ては宇宙に打ち上げる案まで検討されたが、無論そんなことが安全策として認められるわけがなく今日に至っている。放射能生成物を宇宙に棄てることまで検討しながら、電力の製造、販売までを以て、原発は環境にやさしい、原発はコストが安いと宣伝する欺瞞がまかり通ってきたのである。

今から25年前の1987年9月21日、ダライ・ラマがアメリカ議会で演説をして和平5項目の提案をしている。その第4項に「チベットの自然環境の回復と保護並びに、核兵器生産にチベットを利用することをやめ、核廃棄物の処理場とすることの禁止」を掲げている。中国が自国の核廃棄物の処理だけでなく外国の核廃棄物の処理をチベットの土地を利用して金で引き受けようとしていることを憂慮し、現世代だけでなく次世代を放射能汚染の危険にさらし、地域的汚染は容易に地球規模の汚染にひろがってゆくおそれがあると指摘しているのである。中国の武力侵攻でインドに亡命政府の樹立を余儀なくされながら、チベット国民の基本的人権と民主的自由を平和的に保証させる活動を世界に繰り広げているダライ・ラマであるが、核廃棄物の処理場とすることの禁止をきっちり掲げているのである。それに引き替え、国内に貯めるだけ溜めこんだ核廃棄物を憂慮することなく原発を続ける日本の政財界のリーダーどもの資質は如何なものであろうか。

今を生きるものは地球規模で次世代、次々世代に対して負うべき責務といったものがあるはずである。その最重要テーマの一つがゴミの問題であることに疑いをはさむ余地はない。

生態系で処理することのできないゴミを残すことは次世代・次々世代に有害である。既に国内に貯まっているだけで、ひとたびことが起これば地球の破滅につながりかねない放射能ゴミは次世代を待たずとも有害、危険そのものである。これ以上決して発生させてはならない。

故マータイさんが日本から世界に広めた「もったいない」、使える限りは捨てないというのは貴重な心構えであるが、これだけではまだ物足りない。ゴミを生態系で処理しうる質と量にとどめることこそが重要である。そのために、エネルギーを含め、少量生産少量消費の時代に舵を切り、その中で生活をする覚悟が求められると思うのである。 (了)