第41回 伊藤忠出身 牧 泉 【プリーモ・レーヴィと草間さん】

Post date: 2011/12/31 15:13:41

牧 泉(伊藤忠商事出身)

12月18日(金)京都へ日帰りで出掛けました。散々迷ったのですが、思い切って、立命館大学の国際平和ミュージアムで開催されている「プリーモ・レーヴィ - アウシュヴィッツを考え抜いた作家」の展示会へ行こうと思ったためでした。ユダヤ系イタリア人としてアウシュヴィッツに送られ奇跡的に生還した彼は、アウシュヴィッツの地獄を冷静に記録すると同時に、地獄を体験した後の困難な生を描き、さらにはアウシュヴィッツの意味を生涯にわたって問い続けました。

無理をしても行こうという気持ちになったのは、12月9日にもなって旧い友人の草間照子さんが8月に亡くなられていたことを知ったからです。送った手紙が宛先不明で返送され、あちこちに問い合わせて、やっと知りました。30年以上もリウマチで手足の痛みに悩まされながらも、80歳を超えてもなお衰えることなく、フランス語で小説や論文を読むインテリ女性でした。神戸の貿易商の“いとさん”だったようで、趣味でピアノを弾きテレビを嫌い、清貧といってもよいような生活をされているようでした。フランス語の仕事を定年退職されたあと、ビルのトイレの掃除係の仕事をしてユーモラスなルポルタージュを書かれたこともありました。「若い女性なのに飛び込んできてすぐに用をたすのよ、最近のお若い方はお品がわるいわね」などと“お上品”に言われると、“お育ち”の違う私などは穴があったら入りたいような気分になったものでした。

ある時、「牧さん、プリーモ・レーヴィをご存知でしょ?」と何かの話の中で尋ねられて、知らないと私が答えますと、「あなた、それはいけませんことよ」とたしなめられたのです。私は帰宅して、インターネットで調べてはじめて著名な作家だということを知ったのですが、数日後に彼の著作「いまでなければ、いつ」が草間さんから郵送されてきました。若い頃はたいへんなお嬢様であったにしても、結婚後はおつれあいが事業に失敗し、その当時はかなり経済的に苦しい生活をされていたことを知っていましたから、新刊の単行本にまことに恐縮しながらも読み終えて、このように重い問いかけを命をかけてしている作家を何十年ものあいだ全く知らなかった自分を恥じたのでした。

草間さんは8月8日に亡くなったのだそうです。私の手元にある今年3月27日付けの手紙には、3月11日の大地震のときは「パリが沈んだ日」を読んでいましたのよ、おかしいわねと書かれ、さらに、その手紙は5枚にわたって彼女の来し方を書き、妹のために自分たち家族が過ごした神戸時代を書き遺したいと決意を述べられていました、私と会う時には足の痛い妻を気遣って送ってくる優しいおつれあいとの二人だけの生活のなかでも、彼女にとっては家事が大変だったのでしょう。「わたくし自身の暮らしの中でも、日本の女の置かれた屈辱的な立場はいつまでも不動のものですよね。不破さんの“社会進歩と女性”を取り寄せたところです」とも書かれていました。

それから4ヶ月後にはお亡くなりになり、輝子さんが逝去された1週間後には、50数年もの長いあいだ連れ添ったおつれあいも亡くなったと聞きました。孤独な老夫婦の終末を想像するとき、なぜもう一度会おうとしなかったのかと私は心底悔みました。誇り高い女性でしたからSOSを言えなかったのではないかしら、3月の手紙はそのサインだったのではないかしらと考えました。せめても、お花を墓前に供えたいと思ったのですが、その所在を知っている方を探し出すことはできませんでした。私の胸の内にそんな辛い思いがつまっているときに、プリーモ・レーヴィの展示会があることを知ったのでした。

私は出発前に著作「再生」を読み、新幹線のなかで「アウシュヴィッツは終わらない」を読み頁をめくりながら、草間輝子さんご夫妻のことを思い出していました。人間の暴力性とそこからの回復を考え尽して作品化していたプリーモ・レーヴィが、何故に68歳で自殺してしまったのか、まだ私が読んでいない作品からその答えを見つけることができるのでしょうか。

いろいろ大変なことがあった2011年の最後に、さらに重たい課題が与えられました。