第39回 Tristan・k(元岡谷鋼機) 【この懐かしきガキたちの・・・ ―ボクが少年だった頃―】

Post date: 2011/08/25 11:21:06

この懐かしきガキたちの ・・・

―ボクが少年だった頃―

Tristan・k(元岡谷鋼機)

…わが君よ この(懐かしきガキたち)の

いまは何處に在すやと 言問ふなかれ、

曲なしや ただ徒に疊句(ルフラン)を繰返すのみ、

さはれさはれ 去年の雪 いまは何處。

フランソワ・ヴィヨン「嚋昔の美姫の賦」鈴木信太郎訳[岩波文庫]より

*但し、上掲訳文1行目括弧内はTristan・K

ボクが生まれ育った町は、東京の南部、目黒区の外れにありました。そもそもこの目黒一帯、江戸時代は当然のことながらまだ農村地帯であり、椎の木林や竹やぶが多く見られたそうで、又将軍家のお狩場であったことから、落語「目黒のさんま」が誕生したところでもあります。昭和の始め、東京横浜電鉄(現在の東急東横線)が、目黒区の端を掠めて開通した頃を機に、多くの人々がこの界隈に移り住んで郊外住宅地の地歩を固め、これに伴って当時としては新しい気風の幼稚園や学園が設立されていき、そんな中からあの“窓ぎわのトットちゃん”が巣立って行くことにもなりました。

昭和20年3月10日の東京大空襲では、辛うじて被害を免れはしたものの、我が家が九州に疎開(当該コラム・「ボクたちの疎開」参照)して間もなく、駅前に何発かの焼夷弾が落とされて一部の商店街が焼失、そこがそのまま「駅前広場」に姿を変えて、今に残ることとなった訳です。

ボクが小学校へ通うようになって3~4年もすると、鉄道駅周辺にあった闇市は徐々に消えていき、当時としては少々モダンな洋菓子屋、それに洋品屋、玩具屋などが新たに出店、その後を追う形で本来の商店街にも活気が戻ってくるようになり、現在に到る街並みの原形が出来上がったと言えます。新宿や渋谷辺りの繁華街からすれば一回りも二回りも小さなこの町に、戦前にはなかった映画館が次々と開館、最も多い時には五つの劇場が互いに覇を競い合っていた時代もありました。このように商店街が賑やかになるにつれて、秋祭りが復活し、神社の神輿も法被姿の若衆たちに威勢よく担がれて、町中を練り歩きます。お神酒の回った若者たちが酒屋のショーウィンド目掛けて、担ぎ棒の先端を思い切り体当たりさせたので、分厚いガラスも粉々に砕けて散乱し、棚からは日本酒やウヰスキーの瓶が転がり落ちて、ボクの目の前で、辺り一面が酒浸しになった光景が甦ってきます。あれはね、酒屋の小母さんたちがお神輿を2階の窓から眺めていたからなのよ、とその時母が教えてくれました。神さまは、ボクたちが仰ぐものであって、人間はいつも神さまから見られる側にいることを知っておかなくてはいけない、と言う教訓だったのだと思います。

みなさんも、きっとそうであったように、ボクたちはいつもよく戸外で遊びました。上は中学生から下は小学校低学年までの子供たちが、一つの集団になって、日が沈む頃になってもまだ原っぱや放課後の校庭、近くのお寺や神社の境内、道路とかちょっとした空き地などで目一杯遊び続けておりました。その戸外での遊びの数々を、フランソワ・ラブレー風に列挙してみると、大凡以下の通りです。

駆けっこ、リレーごっこ、鬼ごっこ、目隠し鬼ごっこ、追いかけごっこ、ちゃんばらごっこ、輪ゴムピストル撃ちごっこ、戦争ごっこ、探検ごっこ、泥棒ごっこ・警察ごっこ、探偵ごっこ、ターザンごっこ、ケンケン石蹴りごっこ、缶蹴りごっこ、ジャンケングリコ・パイナツプル・チヨコレイト、相撲・プロレスごっこ、影踏み、縄跳び、花いちもんめ、後ろの正面だぁれ、ハンカチ落とし、幅跳び、馬乗り、下駄飛ばし、隠れんぼ、肝試し、宝探し、草野球、三角ベース、サッカー、ドッジボール、鞠ぶつけ、メンコ、ベーゴマ、独楽回し、凧揚げ、竹馬、竹とんぼ飛ばしっこ、昆虫捕り、野鳥捕り、蜂の子捕り、小魚・ザリガニ捕り、泥んこ遊び、箱庭造り、花壇造り、木登り、屋根登り、百足競争、自転車競走、自転車遅乗り競走、一輪廻し、落とし穴堀り、梅の実・イチジク・枇杷・栗・柿の実盗り、水鉄砲撃ち合い、シャボン玉飛ばし、陣取り合戦、ゴムパチンコ合戦、弓矢合戦、雪合戦、雪達磨作り、橇滑り、焚き火・芋焼き、花火見物、火事見物、事故見物、紙芝居見物、チンドン屋後追い、他の集団との喧嘩、それに既に記したような季節のお祭り、街頭で繰り広げられる蝦蟇や蝮の油売り、バナナの叩き売りなどの見物・・・これではとても勉強なんかしている暇はありません。

そしてこれらの遊びの中には必ず一人か二人、リーダー格の者がいて、彼らが取り仕切る現場には(時に争いがあったとしても)、子供たちの世界なりに厳しくも暖かく行き届いた「秩序」が、存在していました。喧嘩が始まると、常に弱い立場に追いやられてはいましたが、精神に障がいを持った子たちも、排除されることなく仲間の一員として、みんなと一緒に遊んでおりました。力の強い子・弱い子、身体のデカイ子・小さな子、スバシッコイ子・ノロマな子、機転の利く子・利かない子、夫々に相応の役割が充てられ季節が巡って往きました。

ある夏の日暮れ時、消防車のサイレンが高らかに鳴り始めて、どうやらこちらに向かって来るような気配。リーダーの家には、かなり丈の高い黐(もち)の木があって、日頃ボクたちは消防のサイレンが鳴ると直ちにそこに駆けつけて、天辺目掛け素早く登っていき、煙や火の手の方向を確認、それが近くであればすぐさま現場に向かいこれを見物する、といったことにしていました。この日も当然、サイレンの音、しかも近づいて来る、それっという号令の下、みんな一目散にその大木目掛けて駆け出していく。息せき切って辿り着いたら、何とたまげたことにそのリーダーの家が、茫々と燃えているではありませんか。さすがのリーダーも、この時ばかりは吃驚仰天、身体は硬直、なす統べもなく「我が家」の燃え果てる光景を、ただ呆然と見守るだけなのでありました。

リーダーは、我々にこんなことも教えてくれました。映画を只で観る方法です。ボクが小学校低学年の頃は、駅の近くにまだ二つの映画館があるだけでした。その古い方の一つだったと記憶していますが、入場口と出口が別々になっていて、映画が終了すると出口から観客がどっと吐き出されて来る。終了時刻の10分ぐらい前にリーダーと共に、劇場の前をさり気なくウロウロしているのですが、映画が終わって扉が開かれ、観客が出てくるのを見届け素早くそこへ近かづいて行き、如何にも誰かを迎えにきたような振りをして人混みに紛れ込み、流れに逆らいつつ後ずさりしながら館内に入っていくのです。成功率100%。この方法でボクは、西部劇1本(確か「サラトガ本線」という映画でした)、ターザンシリーズ2本を観ることができたのですが、その3回目の日に、調子に乗って夕飯の席でこの手口を得意げに報告してしまい、母親からこっぴどく叱られて、もぅ二度とやりませんと誓わされ、以後この手法は使えなくなりました。

ボクたちは、家の中でも遊びましたが、子供はやはり外で遊ぶものと心得ていたので、上に記したように、兎に角よく戸外で遊んだものです。それだけに、子供たちが集まり易い場所の周辺では、時に随分と騒がしい叫び声や物音に悩まされていた家々もあったはずです。中には何かにつけて文句を言ってくる、我々にとっては甚だ胡散臭い爺さんがいて、あのジジイを一度懲らしめたいと言うわけで、爺さんの家の石段目掛けて、爆弾を投げつけてやろうという事になりました。「爆弾」というのは、空き缶の中にどぶ底の汚泥、虫けらの死骸、枯れ葉や生ごみ、一番最後に自分たちのオシッコを順繰りに注いで出来上がる代ものでした。これを3~4個作って、爺さんが庭仕事をしているところを確認、背後から「くそジジイ!」と叫んでその「爆弾」を、石段へ向かって次々と投げつけ逃げ帰ってくる、といった按配です。爆弾投下は見事目標に命中して、誰一人捕まることなく自分たちの陣地に帰還することができました。尤も、こんなことをやってのける中心人物が誰なのかは、爺さんにしてみれば先刻承知だったのでしょうから、恐らくリーダーの母親は後にこの爺さんから、相当なお叱りを頂戴していたに違いありません。

こんな風にボクたちの毎日は、繰り返されて行きました。しかし、やがて其処から一人抜け、二人抜け、学校が変ったりこの町から去っていったり、そしていつの間にか、ボク自身も少年の衣を脱ぎ捨てておりました。

あの頃のあのガキたちが、今、何処でどうしているのか、その後の消息は杳として知る由もありません。でも、あのリーダーが既に鬼籍の人となっている、とだけ風は教えてくれました。さはさりながら・・・

さはれさはれ 去年の雪 いまは何處