第36回 双夢部(トーメン出身) 【一票の反対】

Post date: 2011/08/25 11:15:00

一票の反対

双夢部(トーメン出身)

A Single Dissenting Vote Against War

ジャネット・ランキンの生涯

大蔵雄之助著 文芸春秋社出版

アメリカ太平洋時間の1941年12月8日午前7時半、日本の海軍航空隊の悪夢のような奇襲攻撃から丸一日経った真珠湾は、まだ、いたるところから黒煙が上がっており、ゴムの焦げるにおいや石油臭さが立ち込めていた・・・

この日、アメリカ東部時間の12時51分、大統領の宣戦布告要請を審議することになった。

上院が全員アメリカの対日宣戦布告議案にYeaと返事をし、議事はたった15分で終了し た。

上院可決の知らせを受けて下院での審議が午後1時5分に開始された。

下院ではレイバーン議長がアルファベット順に下院議員に問いかけをしてジャネット・ランキンのところまで来ると、ジャネットははっきりとNayと述べた。

議席にも傍聴席にも激しいブーイングが巻き起こった。

上・下院議員出席者389名の中でジャネット・ランキンだけが反対票を投じたのだった。

ジャネットはモンタナの選挙民に手紙を書いた。

  1. ・・ハワイであれ、グアムであれ、フィリピンであれ、敵の攻撃に対して反撃するのに宣戦布告は必要ではありません。ですから、本日の採決では、私の信念に基づいて、選挙公約を守って、投票しました。戦争より悪い圧制はありません・・・

ありとあらゆる脅迫が彼女のもとに寄せられた。

「裏切り者、ニップ(日本)の手先、自決せよ」

夜になって弟のウェリントンから電話があった。

「Montana is 110% against you!」

しかし、カンザスの「エンポリア・ガセット」誌のコラムニストのウィリアム・アラン・ホワイトはこう書いた。

「おそらく百人ぐらいの議員は彼女と同じことをしたかったであろう。一人としてJeannetteのようにそうする勇気がなかっただけのことである。・・・今から百年後にこの国で、道義的義憤に基づく勇気が、真の勇気が称えられるとき、信念のために愚かしくも堂々と立ち上がったジャネット・ランキンの名前が、その業績の故にではなく、その行動の故に、記念の銅像が築かれるだろう・・・」

事実、アメリカ連邦議会は、ジャネット・ランキンの勇気を称え、連邦議会の一角に彼女の銅像を拵えた。銅像の下には I can not vote for war が記されている。

ウィリアム・アラン・ホワイトが百年後と言ったが、この銅像が出来るまでには、彼女が議会を去った後、43年と6ヶ月後のことだった。

戦後も、彼女は朝鮮戦争、ヴェトナム戦争などの反戦運動をしている。

彼女の戦後の活動は児童福祉、労働問題、経済の不均衡、原料資源の国際的調整の必要性、人口増加対策、人種偏見など多岐にわたるものだった。

戦後のあるとき、彼女はインドへの旅行の途中、日本を訪れている。

彼女が妹に書いたはがきには、こう書かれている。

「アメリカがこの国にあんな酷いことをしたのだということを思い出して、私は日本ではとても惨めな気持ちでした。毛虫になったような気分で、楽しめませんでした。日本人は私が第二次世界大戦に反対したことを知りません。勿論、日本のためにしたことではありませんが・・・」

1973年5月、ジャネットの容態は悪化した。1973年5月18日早朝、ジャネットは、前日心臓麻痺を起して眠ったまま、死亡する。

あと3週間で93歳になるところだった。

カーメル(カリフォルニア州)の谷は初夏の花に彩られ、病室には白百合の馥郁たる香が漂っていた。

机の上に残されていたノートの片隅に The Peace movement just talks itself.(平和運動は独り言)と言う言葉が書かれていたという。

何という寂しい言葉だろうと僕は思うが、ジャネットは、きっと、みんなが独り言を言う世の中にならなければ、自分ひとりではどうにもならないという彼女自身への諌めの言葉だったのだろう。

遺体は、遺言により、夕方までに火葬にされて、灰はカーメルを下った海岸のロボス岬の沖合い5キロのところで夕闇迫る太平洋に流された。