第32回 東邦商会出身 サーチン 【映画「嗚呼 満蒙開拓団」を観て】

Post date: 2011/08/25 11:09:17

映画「嗚呼 満蒙開拓団」を観て

東邦商会出身 サーチン

昨年4月行なわれた「商社九条の会・東京」第5回学習会は、鈴木則子さんの「不忘の碑」と題するお話でした。いわゆる「残留婦人」を強いられた鈴木さんご自身の苛酷・無惨な旧満州での体験談でした。そのときも今度この映画のときもそうでしたが、聴衆も観客も寂として声なく耳を傾け、または画面に食い入っていました。

自身の「不忘の碑」とするため、私は、関連した事どもをここで整理しておきたいと思いたちました。

1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、対日宣戦布告をし、間髪をいれずソ連極東第一方面軍が国境沿いの三地点から旧満州に向けて一斉に侵攻を開始しました。8月15日日本の敗戦が決定した直後、スターリン大元帥は総司令官ワシレフスキーに対し突然、千島列島全島の占領を命じる極秘命令を発しました。最北のシュムシュ島から、北海道の一部で固有の日本領土である歯舞、色丹までの全千島の占領を同年9月3日までに完了しています。いわゆる北方領土問題はこうして発生しました。さらにスターリンは8月24日、再びワシレフスキーに対して極秘命令を出したのです。シベリアで労働可能な日本兵捕虜50万人を選んでおけ、という命令です。いわゆるシベリア抑留問題はそこから始まります。

いっぽう満州でのソ連軍の戦闘行為は、ソ連情報局の特別声明によれば9月9日まで続きました。この一ヶ月間にソ連軍は略奪、暴行・強姦、虐殺、あらゆる反人道行為をくり広げました。この間の満州における日本人死者数は、半藤一利著「ソ連が満州に侵攻した夏」からの孫引きだが、18万694人となっています(満蒙終戦史)。奪われた資産は「個人の財産の推計が五十八億。合計すると四百億円と算定されるという」(同上書)。もう一つの奪われた資産推計は、「関東軍が停戦に応じるや否や、当時二十億ドルと推定された在満日本資産の接収に全力をあげて着手したのであった」(白井久也著「ドキュメント シベリア抑留」)。敗戦後適用されたレート(360円/ドル)で計算すると7600億円になります。半藤は「今に換算したら、いったい何兆円、いや何十兆円になるのであろうか」とも言っています。

これら三つの人道に真っ向から反する、そして国際法や戦争法にも明瞭に違反した犯罪は、ソ連軍大元帥、ヨシフ・ビサリオーノビっチ・スターリンの命令で引き起こされた国家犯罪であります。戦争のドサクサの中でたまたま起こったことではないのです。

そのときからすでに64年が経過した現在、状況はどうなっているでしょうか。旧満州での蛮行事件に対してソ連・ロシアからの正式な謝罪はついになかったと思います。臭いものには蓋式に闇から闇へ葬り去られた、と言えます。辛くも生き残った鈴木則子さんの体験や、羽田澄子監督ドキュメント映画に登場する人物たちの苦痛の思いが、僅かに語られるだけです。また「残留婦人」・「残留孤児」たちの帰国後の生活の困難さを、日本政府はほったらかしにしているし、提起された訴訟を日本の司法は門前払いにしています。

ソ連各地に連行され抑留された64万の人たちの運命はどうなったか。最長の人で

12年間も苛酷な自然条件の中で労働を強制されたのです。その間に6万人、抑留者総数の約一割の人々が死にました。しかも、命からがら帰還した人たちに母国からの正式な補償がなかったのです。80代、90代の高齢者が今なお自公政府と闘っています。

辛うじて日ロ間で未解決の問題として交渉が継続されているのは領土問題だけです。この間にソ連邦は自壊し、ロシア連邦として生まれ変わっていますが、問題解決のための政治交渉はいっこうに進展していません。今年5月、麻生首相が「ロシアの不法占拠が続いている」と国会答弁をし、6月末には衆議院が「北方問題等解決促進特措法」改正案を可決するといったことがありました。

私の知る限りでは、歴代日本の首相で問題を「不法占拠」という激しい言葉で表現したのは麻生首相だけだと思うのですが、案の定7月7日、ロシア上院は「ロシア国民に対する非友好的で無礼な行為」と抗議声明を出すなど、過剰反応を示しました。失礼ながら麻生首相、いつものご認識のどこからこういう言葉が飛び出したのか、私は耳を疑っているのですが、事実の問題としてはまさに「不法占拠」なのです。ただ、64年というハンパでない長い時間経過のなかで、無法な国家犯罪はマネーロンダリングのように浄化されてしまったかのようです。ロシア人も日本人もその事実を知らない人が大部分になってしまったからでもあります。両国政府によって問題は意図的に隠され、両国の庶民たちは、自らの政府によって事実そのものが知らされなかったからです。

旧ソ連では1956年にフルシチョフ第1書記はスターリンの犯した誤りを全面的に批判しました。彼はそこで、独ソ戦におけるスターリンの外交・戦争指導を厳しく批判しましたが、対日戦で犯したスターリンの犯罪については一言の批判もなかったのです。その後もずっとロシア国民の間に、自国が犯した重大な犯罪という認識は広がっていません(わずかにエレーナ・カタソノワ元全国抑留者補償協議会書記と、何人かの科学アカデミーの学者だけが抑留者問題で当時のソ連政府の行為を批判しているだけ)。

それというのも被害国である日本が、旧ソ連・ロシアに対して正当なアピールをしてこなかったからだと考えられます。東西冷戦の真っ只中にはさまれて何もできなかった、敗戦国日本は何を言ってもムダだ、といった当時の状態であったことは確かですが、それよりも戦中・戦後の日本政府の自国も他国も含めて、人間を尊重する気持ちも認識もまったくと言っていいほどなかったからです。その上政府高官たちの無責任気質も加わって、過ぎたことは全部水に流してしまおう、臭いものには永久に開かない蓋をしてしまおうという、ソ連と同様こちらもロンダリング意識に汚染されているのです。当時、敢えて政策があったとすればそれは一言、棄民政策でした。

戦後日本の政府高官の誰がソ連で、ロシアで国民を前にして、事件の真相を率直に語ったことがあるだろうか。領土交渉など、りゅう・ボリスと肩を抱き合って一緒に釣りでもすれば四島は還ってくると、本気で思っていたような気配でした。九死に一生を得て帰還した抑留者たちに、長い間ご苦労様でしたの一言を、日本政府関係者は声をかけることさえしなかったのです。

問題解決の新たな交渉をロシアに提起する場合、日本は上記のような中国への侵略の事実を率直に認め、謝罪と反省をし、臭いものにかぶせた蓋を自ら開ける勇気をまず持たなければなりません。その上で私たち日本人は、VTRは当時なかったからVTRではなく、時計の針を逆に戻し原点に立ち戻って、三つの事件をセットにして事実丸ごとロシア人と日本人の正面に据え直し、新たな時代の光を当てなければなりません。何をいまさら、と怒る向きはたぶんいるでしょう。しかしいまさらではないのです。問題発生の初めからやり得やられ損でなんの反省もなく、解決しようとする気力さえなく、ずるずる今日まで来てしまったというのが真相だからです。ロシアも日本もだいぶ遅れはしたけれど、初めての正式なスタートラインに立とうではないかということです。諸問題の原点に立つということなのです。

旧満州でのソ連軍の蛮行についてはロシア政府の正式な謝罪と、日本政府の帰国「婦人」・「孤児」たちへの生活支援、亡くなった方たちの姓名の確認と、正式な追悼行事が必要です。そうでないと犬のように殺された人々は決して浮かばれないでしょう。シベリア抑留問題については、曲がりなりにもエリツィン元大統領の謝罪がありました。カタソノワ女史の懸命な働き掛けの成果でした。日本政府は、僅かに生き残った人々に対して無条件に即刻、補償と謝罪をしなければなりません。

北方領土問題の原点とは、戦争による領土の拡張をしてはならないという、「大西洋憲章」(1941年)と「カイロ宣言」(1943年)で確立された原則のことです。このうち「大西洋憲章」についてはソ連政府は賛意をすでに表明しています。ということは、武力で勝ち取った領土はすべて無効であります。その事態を継続していることをこそ「不法占拠」というのです。平和的に合意に達した条約、つまり「樺太千島交換条約」

(1875年)の地点に立ち戻る、ということを意味します。そこからの交渉のやり直しです。いまのままチンタラ交渉していては、永久に日本の領土は還ってきません。

もしそこに多数の日本人がいなければ、満州での大量虐殺・略奪事件やシベリア抑留事件も、北方領土問題も起こることはなかったという事実に思いを致すべきでしょう。百万と言われた関東軍と、明確な数字が見当たらないので推計になるが、百五十万前後の開拓民・一般人が、満州国と自称した中国の一地域に、国策によって送り込まれていたのです。まぎれもない日本の中国に対する侵略がまずあったのです。事実の認識がまず最初です。そのあと日本は中国への侵略を反省し、謝罪すべきです。

ロシア国会から「非友好的で無礼な行為」などと言われて反論もできない無様な政府であってはなりません。このようなまず自らなすべきことをなさずに、日本政府は侵略の歴史を改ざんするとか、憲法を改悪するなど、とんでもなく間違ったこと、余計なことに首を突っ込むような愚行を繰り返してはならないのです。

以上