第31回 ニチメン出身 凧 九 【知覧・特攻・小田実】

Post date: 2011/08/25 11:07:26

知覧・特攻・小田実

ニチメン出身 凧九

過日、知覧に行って来た、という友人が二人いて、話を少し聞いたことがありました。そのあと、知覧に行きたいのだが一緒に行かないか、という誘いがかかったのですが、都合がつきませんでした。それから一週間程したころ、図書館から偶然借りた小田実(おだまこと)氏の本『さかさ吊りの穴』に、知覧や特攻のことが書かれていました。

こんな風に畳み掛けるように、知覧、知覧とは、どういうことなのか、不思議でした。でもそのお陰で、何も知らなかった私も、知覧や特攻について、学ぶことが出来ました。なかでも小田氏の知覧との拘わりは、興味深いものがありました。

私は、小田氏を何度かテレビで見たことがあります。上背のあるガッチリとした体格と、凄みのある鋭い目つきで、迫力満点の人という印象です。その彼が、子どものころ「いじめられっ子」だった、というのです。むしろ、「いじめっ子」という方が、肯けます。分からないものです。

小田実氏は、生まれ育った大阪の「国民学校」では、「いじめられっ子」でした。《陰に陽に、派手に、また、インシツにいじめられ、いびられ》ています。戦争末期、「国民学校」六年生のとき、生徒たちを安全な田舎に移す「学童疎開」が始まります。学校単位で「集団疎開」をするとなると、このまま自分に対するいじめは継続され、強化されることになる、と考えた彼は、親類のいたH市へゆきたい、と《母親にせがみ、泣き込み、おどし、母親は母親で親類に頼み込んで、その親類宅への「縁故疎開」》を実現させました。心からほっとしたことでしょう。

ところが、H市の転校先の「国民学校」でも、彼はいじめ、いびりに会うのです。《えてして転校生はいじめ、いびりの対象となるものだ》というわけです。

しかし、彼も負けてはいられない、と積極的に反撃にでます。

そんな時に「航空機乗員養成所」という存在を知ります。昔、逓信省が民間航空機の乗員養成のためにつくった学校で、「国民学校」を卒業しただけで入所試験を受けられたのです。「養成所」の卒業生は、当時の商船学校の卒業生が、海軍の予備士官やら予備下士官になっていたのと同じように、陸軍下士官になれました。彼をさんざんいじめ、いびっていた何人かが、その「養成所」を受けると言う、それなら負けるものか、おれも受けてやれ、と考えたのです。

願書もすべて自分で書き、でっち上げ、父親の同意書などは、大人の書体を精いっぱい真似して書き、一人前に持っていたミトメ印を押します。この願書の件も受験もすべて、大阪の両親にもH市の親類にも内緒でした。

そして、その結果は?

ライバルのガキ大将どもは合格せず、無事合格したのは、小田氏だけでした。

しかし、結局「合格」をそのまま放り出して、「養成所」へは行きませんでした。

ライバルたちが行かないのだから、彼が行く必要はなかったからです。

彼は大阪に帰り、「無試験」で中学に入りました。

何年も経ったとき、彼は知覧に行きます。はじめて知覧に行ったときは知らずに帰ってきたのですが、やがて、知覧の基地から飛び立った「特攻」隊員のなかに、あの「養成所」出身者が多数いたことを知ったのです。《自分は「養成所」に合格したが、行かなかった。しかし、もしライバルのガキ大将どものひとりでも「養成所」に合格して入っていれば、自分も入っていただろう。そして、知覧から飛び立った「養成所」出身の「特攻」隊員のひとりになっていたかも知れないのだ》と思いました。

「特攻」の問題は、わが身の問題ともなったのです。

「特攻」の実態は、小田氏の説明によると、次のとおりです。

沖縄戦の知覧からの「特攻」出撃が始まった1945年3月ころは知らないが、あとのほうになると、特攻隊員が乗った「特攻」機は、使い古しのオンボロ機か、脚が引っ込まずぶざまに突き出たまま時代おくれの速度で飛ぶ旧式機、ノモンハン戦生き残りの戦闘機、偵察機、練習機、あるいは木製の翼にジュラルミン板を張っただけの自爆専用機でした。

これに250キロ、500キロの爆弾を吊り下げて、知覧から沖縄の戦場までの650キロ余を、2時間~2時間半をかけて飛んだのです。

こうして、九州その他各地の基地から陸海軍機あわせて3,461機の「特攻」機が出撃して行きました。その中で、戦場にまで到達して体当たり命中、あるいは至近距離で爆発して、敵に何らかの損害をあたえ得たのは254機だと言われています。

「特攻」隊員たちは、目標は「大型艦ハ煙突トブリッジノ中間トシ、航空母艦ハ『エレベーター』ノ位置トスル」と教えられ、「突進一、最後マデ照準セヨ。眼ヲツムルナカレ。眼ヲツムレバ命中セズ」と指示されていました。

実際はどうだったのでしょうか?

米軍側の記録では、「特攻」機の自爆攻撃で沈められた艦船は26隻、何らかの損害を受けたのは368隻。この沈められた艦船は、駆逐艦以下の小型艦船ばかりで、特攻隊員が攻撃目標とめざした航空母艦、戦艦、巡洋艦は皆無だったといいます。「特攻」機の大半が、目標に到達するはるか以前に姿を消していたのです。

ご存知のように、「特攻」機は、往きの燃料だけを積んで出撃します。還りの燃料は積んでいません。生きて還らないことは、事前の了解事項でした。「特攻」隊員の若者たちの胸の内は、きっと哀しく悔しかったことでしょう。その想いを深くしまって、飛び立っていったとしたら、なんという理不尽な国の命令であったことでしょうか。

それを想うにつけても、今私たちは、彼らの奪われた命を無駄にしない国造りをしているでしょうか。

何度も、立ち止まっては考えなくてはいけないことだと思います。

以上