第30回 岡谷鋼機出身 Tristan・k 【ボクたちの疎開 「すぐそこの遠い場所」への旅―】

Post date: 2011/08/25 10:59:22

ボクたちの疎開

―「すぐそこの遠い場所」への旅―

Tristan・k(元岡谷鋼機))

もう10年以上も前のことですが、ある書店から、少々風変わりな「旅行記」が出版されました。それは「すぐそこの遠い場所」というタイトルで、幼かった頃浜辺で、祖父に肩車をしてもらいながら“望永遠鏡”を持って海の彼方を眺めているうちに、視線は水平線を遥かに越えて、暫らくの後に、この地球上で最も遠い場所である自分の背中に辿り着いた、といったそんなカラクリの物語でありました。ボクたちは生まれたその日から、休むことなく先へ先へと向かって歩いてきているのですが、誰もが何かの拍子に、いつか何処かで見たことのある風景と出会う。そして其処が、嘗て祖父と一緒に眺めたあの浜辺の光景、自分の背中と隣り合わせの場所であったことに気付きます。

昭和20年3月10日と言えば、東京大空襲の日で、とてつもなく多くの人々が死に、傷つき、家々を焼き尽くされ、生き残った人たちにとっては、文字通り終生忘れることのできない「地獄の一日」でもありました。

ボクの家は、東京南部の目黒区にありましたので、この大空襲による直接の被害はなかったのですが、その頃、愈々東京が危なくなってきたという噂もあって、我が家でも既に疎開の算段を始めていたところで、苦労の挙句に、3月11日早朝東京駅発博多行きの切符を、購入してあったそうです。7歳上の兄の話によると、空襲から一夜明けた東京駅周辺は見事な焼け野原になっていて、プラットホームでは、日本橋の「白木屋」がまだ盛んに燃えている光景を眺めることができたそうです。予定の列車は、大分遅れはしましたがそれでも何とか発車して、途中沼津で電気から蒸気の機関車へと引継がれ、静岡、浜松を過ぎて豊橋に着くと、今度は名古屋が大空襲とのこと、その日はそのまま車中泊となりました。翌12日、列車は再び西へ向かいはしたものの、京都の手前で大阪空襲が伝えられ、結局その日の寝場所も同じ車内となり、混乱と不安のまま大阪駅に辿り着いたのが3月13日の午後。当然、列車はそれ以上進めなくなって、我々は仕方なく予定を変更、西宮にあった母の実家に転がり込むこととなりました。5、6日そこに逗留をして、鉄道運行再開の確認をした上で、山陽本線を下り、関門海峡を潜り抜け博多を経由、疎開先の佐賀県唐津に到着したのは、東京を出てから10日余り後のことでした。その日から大凡1年半の間、父は仕事の関係上西宮でボクたちと別れ東京に戻って行ったので、母と兄、姉、そしてボクの4人が、見ず知らずの遥かなる地で疎開生活を始めることとなったという次第です。

唐津は、「唐津焼」でその名をよく知られるところですが、明治に入って以来炭鉱で栄えてきた町でもありました。その中の一つに「杵島炭鉱」というのがあって、オーナーの高取家が祖母の遠縁に当ることから、その「お屋敷」のほんの僅かな部分を間借りして、ボクたちはそこでひっそりと暮らすこととなります。兄は小学4~5年、姉が幼稚園から小学校に掛けての頃、ボクはまだ3~4歳でしたから、当時の「思い出」を語れるような年齢ではありません。とは言えたまの機会に、兄弟が集まって疎開の頃の話になると、都度ボクの脳裏にもおぼろげながら、脈絡のない記憶の影のようなものが甦って来てはおりました。

母が亡くなり、続いて父が逝ってしまった頃でしたか、兄弟三人の間で終戦前後の思い出が話題になった際、誰からともなく一度唐津に行ってみようよ、という話が持ち上がったものでした。ところがその直後に突然兄嫁が病に臥して、やがて看病の甲斐なく兄は一人残される身となってしまい、当たり前のことながら「唐津再訪」は中断を余儀なくされてしまいます。その後、義姉の三回忌が瞬く間に巡って来る、仏壇の奥からの指示もあってか兄貴の酒も大分減量させられて、独居生活も漸く板についてきた、そんなこんなで遂には念願の「唐津行」が成就の日を迎えることとなりました。一行は、兄、姉夫婦、カミさんとボクの計5人,平成20年11月のことでしたから、あの疎開の日々との間には、実に63年の歳月が通り過ぎておりました。

高取家の屋敷は、唐津湾に面して建てられていて、湾に突き出た小高い丘の上には「唐津城」が聳え立ち、その先の右手海岸沿いには広大な「虹の松原」が延々と横たわり、湾内には東から「高島」、「鳥島」、陸続きの「大島」が波間に浮かんで見えました。屋敷は平成10年に国の重要文化財に指定され、今となっては、唐津市の観光スポットとして振興の役割を担っている貴重な建築物です。2300坪といわれる敷地内に建つ、和風を基調とした二棟の建物の中には、幾十もの部屋が連なっていて、主要な各部屋には市の学芸員が配置されており、建築当時の施工技術や設計上の特徴、建具の意匠や材質にいたるまでの懇切な説明をしてくれます。邸内東側一角には、座敷に仕組まれたものとしては国内唯一と言われる「能舞台」が納まり、その後座の更に東南の隅に控えの座敷があって、ボクたち一家はそこで疎開生活を送っていたというわけです。能舞台を前にした広い本座敷とその上の2階大広間には、当時まだ軍隊が駐留していて、戦闘帽を被りゲートルを巻いた優しい兵隊さんたちから、時々金平糖やビスケットを貰ったことを憶えています。

屋敷の中の柱や壁や天井、建具や調度品、ガラス戸越しに目に入ってくる庭園のたたずまい、周辺の街路、板塀の向こうに開ける唐津湾の光景、これら全てをボクたちは夫々の糸に紡いで、自分の記憶と結び付けては様々な模様の「物語り」を織り上げていきました。都会っ子だった兄は、それが為に学校ではよくいじめられていた。気丈な姉は、今日も又兄が可哀想な目に会っていないか、隣の幼稚園の塀越しにいつも看視をしていたらしい。隣町への米、野菜の買出しのこと、海水を汲み上げ煮詰めて作った塩のこと、風呂場は母屋とは別棟の五右衛門風呂であったこと、地の底に埋もれていた記憶のかけらが、次々と地表に現れてくる。豊穣の秋祭り「唐津くんち」の曳山(やま)が、勇壮豪快に街中を引き廻されていく。この光景をボクは、母の手をきゅっと握り締めたまま、その背後に寄り添い隠れるようにして見つめておりました。やがて祭りの喧騒が消え失せて、舞台は浜辺へと向かいます。砂浜を歩きながら、目の前に打ち寄せてくるいくつもの波と、母に背負われ聴いていた波の響きとが重なり合って、どちらがあの日の、どちらがこの日のものなのか分からなくなってくる、これこそが「すぐそこの遠い場所」でしか起こり得ない、「不思議の場所」特有の現象であったに違いありません。

“望永遠鏡”を通して眺めてきた旅も終わりました。随分と遠いところに来てしまったはずなのに、其処が、実は今さっきまで自分が居た場所、その足跡にもまだ仄かな温もりが残っている、邯鄲の夢にも似たボクたちの旅ではありました。