第2回 伊藤忠出身 松丸 了 【母】

Post date: 2011/06/24 3:27:49

「九条の会で会いましょう」

今年のお正月受け取った年賀状に多くの人がこう書いてきた。

こんなことは初めてである。

改憲が公然と語られ始めるにつれて、護憲の声も大きくなって来た。

生々しい戦争体験と結びついた護憲の声のひとつひとつが胸を打つ。

憲法をテーマにした映画もつくられた。

僕の場合、父の出身地である岐阜の田舎で敗戦をむかえた。

7才、国民学校一年生であった。だから憲法のことなどあまり良く覚えていない。

しかし、ひとつだけ68才になった今でもはっきり覚えていることがある。

昭和20年3月、アメリカの爆撃機B-29が落とす焼夷弾で名古屋の街は

火の海となった。

この中を母と妹とボクの三人が走った。

母はフトンを頭からかぶり、ボクと妹をフトンの中に包みこんだままにして走った。

前もって決られていた避難場所へは、火がふさいでいてたどり着くことが出来なかった。

やっとひとつの広場に着いたとき、周りの家がマッチ箱のように焼け落ちていた。

その火で照らし出された母の額からは血があふれ出ていた。焼夷弾の破片で

やられたらしい。ボクは血にそまった母の顔を今でもはっきりと覚えている。

そのあとどうなったか記憶ははっきりしないが、朝ボクは焼けあとを歩いていた。

黒こげになったおびただしい丸太が道に横たわっていた。

そこに次々とトラックが来て丸太を拾い集めて運び去っていった。

黒い丸太は人間であった。

真赤に血に染まった、仁王様のような母の顔と黒い人間の丸太だけは、

7才のボクの戦争体験のシンボルとして、くっきりと記憶の中に残っている。

父の田舎で母と妹とボクの三人は敗戦をむかえ、しばらくして、

父や二人の兄や姉が帰ってきた。

しかし一番上の兄は帰ってこなかった。代わりに戦死の通知が来た。

敗戦から何年もたったある朝、母がひとり玄関のところで人待ち顔で立っていた。

「どうしたの?」とボクがたずねると

「太美男が帰ってくる」と母が答えた。

太美男はボクの一番上の兄でフィリッピンのレイテ島で敗戦の年の三月戦死している。

「今朝、枕元に太美男が立っていた。今日太美男が帰ってくる。」

ボクは母と一緒に太美男兄の帰りを待った。

ボクは6人兄弟の5番目の四男であるが、ボクと妹は上の四人とは親子ほどの

年齢が離れており、太美男兄の記憶はボクにはない。

こうして兄を待つ間、ボクに兄のことを語った。

「お嬢ちゃんですか、といわれるのが自慢で了ちゃんを乳母車に乗せて

しょっちゅう散歩につれだしていたよ」

「太美男の好きだった女の子は脳に障害があったので、ボクが直すんだ、といって

名古屋帝国大学の医学部に進んだのよ・・・・」

この後も玄関で兄を待つ母の姿がしばしば見られた。

母は22年前、ボクがルーマニアに駐在しているときに亡くなった。

「改憲を私の内閣として目指していきたい」安倍晋三首相のこんな言葉を母が聞いたら

「冗談も休み休みに言いなさい!」と一喝するにちがいない。

ボクたち、生きている者がしっかり憲法を守り、次の世代に引き渡して

いかなければならない。