第28回 伊藤忠出身 松丸 了 【続・C型肝炎に勝つ】

Post date: 2011/08/25 10:56:52

続・C型肝炎に勝つ

松丸 了(伊藤忠商事OB)

2005年6月1日。

ペグイントロン注射2日目。朝7時、体温は37度8分まで下がっていた。

「体温は朝方下がります。朝の体温が37度8分ということは、夜になると高くなる可能性があります。そんなときは遠慮せずに座薬を使ってください」と森田先生。

案の上、夜高熱に苦しむ。しかし、ここで座薬を使ったらC型肝炎ウィルスとの闘いで早くも白旗をあげることになると思い、歯をくいしばって座薬は使わなかった。

2005年6月2日。

体温は37度前後に下がってきた。頭痛、関節痛、全身のだるさは変わりがない。このままじっとしていては駄目だと思い、CDプレーヤーのイヤフォンを耳に入れた。最初、フジコ・ヘミングのリストを聴こうとしたが、痛む頭にはピアノの音はきつすぎた。バッハのゴルドベルク変奏曲に変えてみた。チェンバロは痛む頭が受け入れた。

入院前に憲法の本など買って持ち込んだが、難しい本はとても読む気になれない。午後売店で池波正太郎の「剣客商売」を買ってきて読む。

2005年6月3日。

ペグイントロン注射4日目。朝7時の体温は36度1分であった。頭痛がない。関節痛も消えていた。だるさはまだ少し残っている。インフルエンザ様症状はどうやら峠を越したようだ。

ラジオのスウィッチを入れ、NHK・FMにダイヤルを合わせると、すがすがしいシンフォニィの調べが流れてきた。「いい曲だなあ、何という曲だろう」と思っていると、曲が終ったとき「ただ今の曲はエルガーの威風堂々でした」とアナウンサーの声。

僕が日本サハリン協会で働いていたとき、同僚の伊藤洋子さんがクラシックに興味を持ち始めたばかりの僕に「こんな曲がいいわよ」といって、10曲ほどの曲名を紙切れに書いてくれたことがあった。このリストの中に「威風堂々」があった。

2005年6月4日。

朝の体温は35度8分。朝食後、スポーツウエアに着替えて病院の敷地内を散歩した。入院して初めての外出である。放し飼いのウサギが敷地内の草むらを散策している。冷たい朝の空気がたまらなくおいしい。かつて訪れたことのあるルーマニアの高原リゾート、ホヤナブラショフの朝を思い出した。

午後、友人の送ってくれた本「王朝医学のこころ」を読む。この本の中に「不幸は幸せをおんぶしてくる」と題したエッセイがある。著者の槙佐知子さんは、不幸のどん底から立ち上がって、今まで誰も翻訳することがなかった「医心方」という医学の古書を20年かけて翻訳し、ついに世間に認められた。

「不幸は幸せをおんぶしてくる。」槙さんの人生からにじみ出た言葉である。

2005年6月6日。

ペグイントロン注射7日目。貧血の状況などをチェックするため採血を行った。ペグイントロンとレベトーレの併用療法を受けると、ヘモグロビンなどが減少する可能性がある。ヘモグロビンなどの減少がひどい場合には治療が中止されることもありうる。

2005年6月7日。

血液検査の結果が出た。おおむね問題はなかったが、唯一血小板の減少がみられた。ペグイントロンを注射する前の血小板の数値は13万であった。これが半分の7万にまで減少した。血小板が減少すると出血しやすくなり、血が止まりにくくなる危険性が出てくる。血小板が5万を切ると治療は自動的に中止される。

僕の場合、ペグイントロンの量を半分に減らして治療を継続することになった。

2005年6月8日。

朝の10時、第2ラウンドのゴングがなった。C型肝炎ウィルスとは48ラウンド闘うことになっており、闘いは始まったばかりである。今回は、ペグイントロンの量を初回の半分に減らして注射した。週一回、全部で48回注射することになるので、毎回打つ場所を変える必要がある。今回は左腕に打った。

インフルエンザ様症状など目に見える副作用は初回の経験で大体見当がつく。心配なのは、血小板など目に見えない副作用がどうなるかである。

2005年6月13日。

血液検査の結果、血小板は9万まで回復していることが判り、治療継続が可能となった。

2005年6月16日。

3回目のペグイントロンを注射。

2005年6月21日。

血小板は6万台まで下がった。

2005年6月22日。

退院。これからは通院治療することになった。

2005年6月24日。

この日、4回目のペグイントロンを注射。ペグイントロンを注射したあとの3、4日は、毎回同じような副作用に悩まされる。足が鉛をぶらさげたように重くなり、倦怠感が体全体に広がる。

2005年7月1日。

血液検査の結果、血小板は6万8000で微妙な水準ではあるが、危険水域には入っておらず、5回目のペグイントロンを注射した。

2005年7月7日。

退職。入院そして通院治療とこれまでの生活が一変した。

これからは闘病という環境の中で新しい日常性を作っていく必要がある。

2005年7月8日。

金曜日は通院日である。朝の血液検査の結果、血小板の数値は6万9000であった。前回の検査では6万8000であり、低水準ではあるが安定した模様である。

この日、6回目のペグイントロンを左腕に打った。

2005年7月15日。

7回目のペグイントロンの注射を打った。この調子で行くと、あと41本、2006年の6月6日には完了する。まだまだ先は長い。

2005年7月16日。

目下、「アリガトウゴザイマス」というエッセイを書いている僕に、友人の陶くみ枝さんから一冊の本が送られてきた。壇ふみのエッセイ集「ありがとうございません」である。陶さんのユーモアに僕はクスッと笑った。

2005年7月22日。

ここ数年、僕にとって木曜日は特別な日となった。

日本サハリン協会の6年間、僕は毎週木曜日、会員向けに情報紙を編集、発行してきた。金曜日から、サハリンの新聞や雑誌の記事を集め、材料を厳選した上で翻訳、それらを週間情報誌「サハリンと日本」に編集して、毎週木曜日に発行してきた。完成した瞬間、心は充実感でいっぱいとなった。

闘病生活に入って8週間が経ったが、この闘病生活でも木曜日は特別の日である。毎週金曜日ペグイントロンの注射を打つ。副作用が始まる。貧血のせいで少し動いても息が切れ、足が鉛のように重くなる。イライラがつのり、心はうつっぽくなる。

しかし、木曜日は特別である。ペグイントロンの注射を打った日から最も遠い日となり、副作用からも多少は解放され、体を動かすことが可能になる。

今年はじめてセミが鳴いた。

蒼天や初蝉の声庭の木に