第21回 岡谷鋼機出身 Tristan・k 【川柳とボク】

Post date: 2011/08/25 10:45:55

川柳とボク

Tristan・k(元岡谷鋼機)

いつの頃からか「川柳」の世界が見直されて、以来その愛好者は着実に増えてきているように思います。生命保険会社が定期的に「サラリーマン川柳」を募集して、投稿作品の中から特に傑作なものを選んで纏めて発表してみたり、各新聞、週刊誌なども読者に投稿を促し、著名な作家にそれらの選評を依頼して、毎日或いは毎週各紙、各誌上で紹介したりしています。

川柳という庶民文芸が、短詩形の一つのジャンルとして確立していくのは、江戸時代も半ばを過ぎた宝暦・明和の頃からで、天災大飢饉による農民一揆などは少なからずありましたが、幕藩体制そのものは(少なくとも外見上は)未だ揺らぐことなく、人々は平和な日常生活の内にあったものと言えます。寺子屋もかなり普及して、これに伴って多くの町民が「読み・書き」を覚え、歴史や芝居、音曲、読み物や書画にまで興味を持つようになっていきます。

一方支配者である武士たちは天下泰平の時を迎えて、「封建システム」を支える一員として、主君への忠誠心だけは失うまいと日々研鑽に励みます。しかしながら、平和な時が続けば続くほどに、やがて「封建」という契約関係の内実は、幕府による四分銀貨の改鋳や度重なる新貨の鋳造とも併行して、次第に力強さを失ってしまう。そして世の中の実権は、士農工商の中の最後尾に控えていた商人の手に委ねられていきます。禄高で示されてきた権威も、“相対的価値形態”の行き着くところいつの間にか「貨幣のシステム」に呑み込まれ、武士階級とりわけ下級武士たちの主従関係は、今の世のサラリーマン世界に近いものとなっていくのでありました。

町民文化の典型とも言える「古川柳」にしても、到るところでお侍たちが嗤われてはおりますが、「万句合」の投稿者にもかなりの割合で下級武士たちがいた事実は、彼らの生活自体が町民のそれと、我々が考えるほどには大差がなかった証しとも言えるでしょう。

ボクのサラリーマン生活最後の5年間は、名古屋での単身赴任でありました。マンション暮らしが始まり「尾張の住人」となってしまえば、そこで読む新聞は、これはもう「中日新聞」と決めていました。当時、朝刊では月に2回程でしたが、ボクの尊敬するジャーナリスト藤村信氏(1924~2006年)が、まだコラム欄で健筆を揮っておりました。夕刊では、たしか水曜日だったと記憶していますが、川柳作家の時実新子さん(1929~2007年)が、読者からの投稿川柳の「選評者」として、なかなか味のある批評文を書いておられました。その中に、こんな句があったのを憶えています。

“幸せな人と逢えたり話題なし”

時実さんいわく、「そうよね、世の中に他人の幸福と自慢話ほどうっとうしいものはないのよね」。そうです、「貴方」のご近所の方々を始め、仲の良いお仲間やお知り合いに対して、自分が今、どんなにか幸せなのかと言ったところで、大方はあまり耳を傾けてはくださらないのが、この世の常なのだろうと思います。それよりも他人に、もししっかりと「自分」の話を聞いてもらおうとするならば、先ずはこのところ全くツイテない話や、突然身に降りかかった災難や不幸せを、あれやこれやと並べたてていく以外にないのかもしれません。

そこでボクは、その頃、夏も終わろうとしていたある日、東京の元の職場の(会社での人間関係のことで、いささか元気をなくしていた)女性宛に、名古屋からこんな手紙を書きました。「・・・だから安心して貴女に打ちあけられるのですが、景気は悪いし、気味の悪い事件は頻発するし、喘息や水虫は一向によくならないし、期待していた夏休みも前半はまぁまぁ幸せだったのが、後半になったら一挙に逆点、いや逆転。予期せぬカミさんとの喧嘩で、なんとか名古屋に逃げ帰った次第、と申し上げれば貴女も、そうかエライ目に遭っているのはあたしだけではないんだぁ、と少しは落ち着けたのではないですか?」。

ボクが川柳を身近に感じられるようになったのは、こんな手紙でのやり取りが、一つのきっかけでもありました。それに、上に記しました通り名古屋でこそ、ローカル最大手の「中日新聞」を取ってはおりましたが、そもそもボクの実家では、幼い頃から何故か「毎日新聞」に親しんできておりまして、結婚してからも横浜の希望ヶ丘(・・思えば、希望に輝いていた日々ではありました・・)、次は東京の荻窪、遂には現在地柏市布施新町へと移り住んできたこの間、一切浮気もせずにただひたすら「毎日新聞」一筋を貫いてきていたわけです。その「毎日新聞」では、もう随分以前からになりますが、仲畑貴志さんという方が「仲畑流万能川柳」を主催、毎日18句が掲載(毎月、8,000~9,000、時に10,000を越える投句があるようですが)されておりまして、これに目を通すのがボクの日課であり、ささやかな楽しみにもなっておりました。

そうしたある日、地域高齢者福祉と関連した研修企画会議の場で、たまたま隣に座った近所の(美人の)奥さまの義理の兄上が、古川柳の研究家であることが判明。ならば研修講座の一つに、江戸時代に花開いた庶民文芸としての「川柳」を加えて頂こうということになり、暫らくの準備期間を経て、これが実現される運びとなりました。

川柳とボクとの間柄は、今、こんな風に少しずつ近づいてきているような気がします。

高踏な精神世界にある俳句と異なって川柳は、多くの場合日常生活の情景そのままを、自分の鋏みで切り取ってくるものです。古川柳には、ことばの使い方にいくつかの約束ごとがあって、それで言いたいことが却って17文字の中に納まりやすい、といったことがあったようですが、現代の川柳にはそうした「約束」が一切ないだけに、ことば選びにはより一層の工夫が求められているものと思われます。

江戸時代の川柳をして、それは「『成程、成程』の文芸」である、とある古川柳研究者が言っておりました(「江戸川柳のからくり」至文堂)。それから250年以上の時を経た今の私たちの川柳とて、その意味ではこれからも変わることなく庶民にとっての「成程、成程」の想いを、夫々が「切り取り」続けていくのでしょう。

そしていつか自分でも、それを読んだ皆さんが思わず「なるほど」と手を叩きたくなるようなそんな17文字を並べられたら、と密かにたくらんでいるこの頃です。