第20回 ダイヤのお竜 【「3本の大根」と「時代の行列」と「母の言葉」】

Post date: 2011/08/25 10:44:54

「3本の大根」と「時代の行列」と「母の言葉」

ダイヤのお竜

どうしてか、いつからか「他人と同じ」を嫌う人間に育っていた。

商社に働き始めた頃、つまり今から○十年前のことだ、「OL」はすべからくパーマに化粧、タイトスカートにハイヒールだった。私はその群れの中に没個性的に同化していくのがいやで、かなり長くスッピン・パーマッ気なしだった。先輩たちの話題は恋愛と噂話で、それにも入り込みたくない心境だった。いまだに基本姿勢は変わらない、外も中も。

誰の影響か。もしかして・・・。

「上を見ればきりがない。下を見てもきりがない。」「悪いことをしていなければ何も恐れることはない。」「お前はお前。他人は他人。(ひとはひと)」。

この「格言のようなもの」三題はわが母の言葉である。こんな格言があるのかどうか知らないが、幼い頃から母は私に繰り返し言い聞かせていた。

解釈の必要もないが、母の言う「上をみれば・・」は極貧でもそこにはそれなりの幸せがある、といった意味だろう、母の諦念と楽天性がそこに表現されている。

「悪いことをしていなければ何も恐れることはない。」とは何と強い自己主張だろうか。小学校に弁当も持っていけず、6年間さえも充分に学ぶことも出来なかった母の体験に根ざした純朴な言葉は、今も私の姿勢を正してくれている。

「お前はお前、ひとはひと」・・・文字通り、人はどうあれ自分の信じる道を行け、と短い言葉で背中を押してくれている。

やっぱり私の生き方には母が色濃く関係しているようだ、と今頃気づいている私である。

ところで他人と違う生き方、考え方を貫くことは簡単ではない。特にこの国では。

まるで大川(戦争への時流)に流れる大根のように人々が流されていくことをあの幸田露伴が揶揄的に歌っていた、と昨年暮れの講演会で澤地久枝さんは教えてくださった。

林達夫は「時代の行列」という言葉を使って、自分が生きている時代に何の疑いも持たず、「時代の行列」の中でぞろぞろと歩いていく人たちの中からは思想も芸術も生まれない、と鋭く警鐘をならしている。

また木下順二は「第二次世界大戦のあの時期、われわれはいくら時流に流されまいと思っていても、やっぱり国家と社会の全体が戦争、戦争と呼号しているあの雰囲気の中で流されていたと思います。そのことに気がついたのは、やっと戦争が終わって平和な時代が来たときでありました。つまり、手遅れであった。しかし、問題はそれだけではない。今日現在の自分が果たして今日現在の時勢の中で流されていないといえるか。そういう不安をわたしは持ちます。」と自著「『劇的』とは」(岩波新書)で自省的に「流されること」への警告をしている。叡智の代表者たちが嘆くほど私たち日本人は流されやすいのだ。

「時勢に流されない人間」になり、「空気なんか読まない」「ちいさな人間」として生きることが私たちに出来る非戦の誓いかもしれない、と63年目の8月に思うのだ。

それは、他人と同じ髪型や服装を拒否するよりも大変なことではあるが。