第17回 トーメン出身 双夢部 【不忘の碑】

Post date: 2011/08/25 10:40:17

不忘の碑

トーメン出身 双夢部

昨年12月22日、第6回商社9条の会・東京の講演会が無事終了してほっとしているとき、僕の友人MHが僕のところにやってきた。

「Mさん、今日はこの会と掛け持ちでもう一つの会にも出たのだが、本当にいい集まりだった。君もブログに駄文ばかり書かずに、たまにはこの問題を取り上げてみたら?」

とMHが差し出したのが、小冊子の「不忘の碑」だった。

僕は、中国残留(?)婦人、残留(?)孤児のことについては、一般知識として知ってはいたが、この小冊子を読んで胸が痛んだ。

とても、直ぐに、ブログにこれを纏める気にはなれなかった。

少し、関連資料を調べなくてはと作業を続けているうちに年が明けた。

この小冊子は、鈴木則子さんという1928年のお生まれの女性が、1943年、国策として中国東北地方に入植、敗戦の混乱で見捨てられ放置され、その後、奇跡的に1978年帰国してみると、鈴木さんたちは、日本国政府や社会から冷たい対応に直面することになったのだ。

日本語で、中国残留婦人や残留孤児と言う言葉には、自分たちの国や政府や国民が、これらの境遇にある人を指すのだろうが、決して彼ら彼女らは自ら好んで残留したわけではない。国民を守るべき軍隊のほうがさっさと逃げ、これらの人びとは、敗戦と言う大波に人生を大きく狂わせられてきたのだ。

軍隊と言うのは、建前は国および国民の生命・財産を守る組織と考えられるが、一番守るべきは、自らの組織維持を最優先すると言うことは、敗戦間近かの中国東北部や沖縄戦で証明済みのことだ。

裁判も全国各地で行われているようだが、国は冷たく、裁判所もわれ関せずの判決が多々見られる。

鈴木さんたちも国を相手取り裁判を起こしているが、東京地方裁判所では、国の数々の不作為を断定したものの、国家賠償法上の作為義務を極めて狭く解釈した上で、彼女たちの請求を退けている。昨年の控訴審判決では、更に、第一審での国の不作為を否定し、国はやるべきことはやったとして、彼女たちの控訴を棄却している。

日本の裁判所が、国民の目線からはるかに離れたところにあることは、最近のC型肝炎訴訟や、昨年8月、酔っ払って追突事故を起こし、福岡の3人の幼児を死に至らしめた事件についても、裁判所は検察の請求(危険運転致死傷、求刑25年)を退け、従来の業務上過失致死傷罪を適用、7年の懲役刑を言い渡していることからも窺い知ることが出来る。

また、最近、法律によって解決された薬害肝炎訴訟も、裁判所は常に問題を矮小化することに窮々としているように見える。

こんな社会にしたのは、僕たちがこういう社会で苦しんでいる人たちに無関心であった所為だと思う。これらの不作為は、政府や裁判所の責任だという理屈は分かるが、これにチェックをする機能を僕たち国民は持っているのだ。

1月13日、この日はこの冬で最大の寒波が、関東地方を襲った日であった。

僕は、延浄寺を訪れた。

延浄寺は、付近にはマンションなどが建っていたが、まだ武蔵野の面影が残る西つつじヶ丘にあった。

山門を潜ると正面に小冊子に記載されている「不忘の碑」がひっそりと佇んでいる。庭を掃き清めている若い女性に「ご住職にこの碑の写真を撮ってよいか」と尋ねると、女性は本堂に入って行って、暫くするとブレザーに身を包んだ、まるで会社の重役のようなご住職が現れた。

僕はこの寺へ来訪の目的を話すと、金子を包んで「これを喜捨として」と言って差し出した。ご住職は仰った。「これは、この碑の建立者のAさんか、鈴木さんにお渡しします。あなたの住所と氏名、電話番号をここに書いてください。」・・・何という清廉な気持ちをお持ちの方だろう、僕の胸は熱くなった。

僕とご住職の会話は以下の通りだった。

「どうして、このお寺にこの碑があるのですか?」

「この碑の建立者のAさんの申し入れがあったのです。」

「Aさんも引揚者ですか?」

「いえ、違います。Aさんは鈴木さんの生き様に感動し、鈴木さんの希望をお聞きして、ここに碑を建てたいと私に申し入れがあったのです。ここに建立し寺が存在する以上、大切に維持できますから。この碑は残すに価値のある言葉が盛り込まれています。」

碑の脇には、こんな言葉が残されていた。

「・・・知ってほしいのは、悲惨な体験をしたことだけでなく、権力に対する疑問や批判を持たない危なさ・怖さです・・・」ご住職がポツリと漏らした。「国を滅ぼすもの、昔、軍隊、今、官僚。」僕はニッコリとご住職に微笑み返した。

僕は、この碑を写真に収めて、この寺を辞することにした。

それにしても、昨年、12月に僕の友人MHのひと言で、僕はいろんなことを知ることが出来た。

この不忘の碑は、鈴木さんの個人的な記録を残すものではなく、日本人全体に寄せられたメッセージであること。また、この碑の建立には、費用を負担したAさん、場所を提供した延浄寺、この碑の揮毫をしたわが友MHが師と仰ぐ、書家のUさんなどの善意の人の集まりの結集であるのだ。

また、鈴木さんは自分苦労を分かってくれと訴えているだけではない。自分たちが無意識に当時の中国で加害者の立場にあったことも述べられている。

そういった自分の無批判な姿勢にも反省が込められているのだ。

しかし、鈴木さんのこの言葉は、現在の普通の僕たち日本人に投げかけられた辛らつな警告ではないだろうか。

日ごろ、バラバラの日本人と言われているが、ここにはいろいろの人が支えあっていこうとする小さな絆を僕は見ることが出来てうれしかった。

延浄寺から京王線つつじヶ丘に歩むころ、空はすっかり明るくなり、冷たい北風も収まり、温かい日差しが心地よかった。