第15回 伊藤忠出身 牧 泉 【ラオス・カンボジャの旅】

Post date: 2011/08/25 6:20:32

ラオス・カンボジャの旅

牧 泉(元伊藤忠商事)

2月末から3月初めにかけてカンボジアとラオスに行ってきた。ともにメコン河に沿って在り、国土の85%以上がメコン河流域に属している国だ。最初の訪問地であるカンボジアでは世界遺産アンコールワットに直行せず、まず首都プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館を訪れた。ポル・ポト政権時代に死の収容所とされた高校の建物である。この国を訪ねる以上、ここを避けて通るわけにはいかないと思ったからだ。目を背けたい虐殺の歴史だが、それが起こった70年代後半、私たちはすでにじゅうぶん大人であり、私たちの多くは「企業戦士」といわれるような人生を送っていたのだ。2003年ようやく「国際基準を持つ国内特別法廷」が国連の管理下で開かれることが決まり大量虐殺が裁かれることになった。200万人から300万人もの人々の大量虐殺や強制労働が行われたというキリングフィールドが裁かれるのだ。30年前に起こったため今の若者の記憶には残っていない。ガイドの青年も伝聞としてポルポトがプノンペンに来たときには市民は大歓迎をしたが、しばらくして集団で大人たちが消えて行き、誰一人帰ってこない現実を理解したときには抵抗ができなかったという。この国は40歳から70歳の労働力、技術・経験、知識が極端に不足している。辛うじて生き残りの人たちにとって、法廷での証言はPTSDによる苦痛を伴なうものだとも聞いた。

プノンペンへ向かう機中で背中にJapan Team of Young Human Powerと染め抜いたオレンジ色のTシャツの若い男女と乗り合わせた。もしかしたら小山内美江子さんの主宰されるNGOですか?と尋ねるとそうだと頷く。「金八先生」や大河ドラマ「徳川家康」ふるくは「加奈子」などの名作テレビドラマを数多く送り出している脚本家小山内さんが20年以上もまえからカンボジアに学校を作る運動をされていることは聞いていたが、今もなお若者たちが継承していたのだ。澄んだ瞳の日本の青年男女、底抜けにあかるいカンボジアの日本語ガイドの青年の言葉に救われながらも20世紀とは何だったのだろうかと考え込んでしまう。

大きな青空のもと亜熱帯特有の椰子の木がつづく平原をプノンペンからバスで6時間、世界遺産が眠るシエムリアップに向った。途中アキラ地雷博物館に寄って、いまも続けている地雷撤去のボランティアの活動を学ぶ。私にとっては2度目のアンコールワット訪問だが、ガジュマルの根が城壁を突き破る自然の爆発的なエネルギーには圧倒される。その一方で壁画には「東洋のモナリザ」と称えられる女神が彫られている。しずかな微笑みと豊満な肢体はメコンの豊かさと大きさをあらわしているのかもしれない。

メコン河の水が注ぎ込むカンボジア・トンレサップ湖で私たちは母子舟の命がけの突撃にあった。私たちの乗っていたクルーズ船は物売りの母子舟を避けるためにエンジンを全開にしてスピードを上げて進んでいたが、母子舟は勇猛に突っ込んでくる。私は思わず目をつぶってしまって、そっと目を開けると、5、6歳にしかみえない小さな男の子が私の前に立っていた。真剣な眼差しでモンキーバナナの入った籠をしっかりと脇に抱えて「ワンダラー」と叫ぶ。頭から顔から服まで水しぶきでびっしょり濡れている。子舟からこちらの船に飛び移るときに頭から浴びたにちがいない。私がモンキーバナナをとって1ドルを渡すと、すこしはにかんだ笑顔をみせて、舳先にたった。母親の繰る舟が近づき男の子はたくみに乗り移っていった。ワンダラーで彼の仕事は終わったのだ。日焼けした母親の横顔には、かすかな微笑みすらなかった。トンレサップ湖をさらにすすんでいくと、もう母子舟は追ってこない。大きな艀のうえに小学校が浮かんでいる。ひとつはヴェトナム人用の小学校で屋根には赤地に金の星を中央に配した国旗がはためいている。他のひとつは、フランスの援助で作られた小・中学校で窓からは勉強している子どもたちの姿が見える。モンキーバナナを売っていたのは就学前の子どもだったようだ。

アンコールワットの夕陽の神秘的な美しさを見てもなお、全身から滴をしたたらせて立っていたモンキーバナナ売りの男の子の姿が私の網膜から消え去らない。

シエムリアップから40分ほど飛ぶとラオスに着く。東京・大阪間より近い。ラオスの山の峰をみると、なぜか心が落ち着いてくる。しずかな緑深い山々の麓を泥色のまま広い河幅で滔々と流れているメコン河を、古都ルアンパバーン(私にはルアンプラバンという表現のほうが懐かしいが)からライフジャケットもない小舟で遡った。この河の源流は世界の屋根チベット高原の東縁(中国チベット自治州)標高5224mのところにある。源流からインドシナ半島を南北に貫流して、6つの国(中国、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ヴェトナム)をめぐり、最後はメコンデルタを成して南シナ海に流れ出ていく壮大な河だ。途中の国々でさまざまに名付けられ、多くの支流を呑みこみすすんでいる。雲南省では暴れ河(ランツァン)、カンボジアでは大きな河(トンレトム)、ヴェトナムでは九頭の竜(ソンクーロン)の棲む河といわれているのに、ラオスとタイでは母なる水(メーナムコン)とやさしい名前だ。

ラオスの子どもたちの表情はおだやかだ。貧しいことは他のインドシナの国々の中でもいちばんかもしれない。なぜ穏やかなのだろう。緑滴る山々に囲まれているからだろうか。町を歩くたくさんのお坊さんの存在のせいだろうか。ワンダラーと叫ぶ子ども達がいない。

私たちの旅の目的はラオスにあった。40年前に同じ学び舎で過ごしたサークル仲間の旅だ。あの頃、ヴェトナム戦争が本格化するまえだったが、ラオスも東西冷戦の代理戦争の場となっていた。連日のように新聞には左派のパテトラオと落下傘部隊のコンレ大尉の動き、中立派のプーマ王子や右派のブンウムの動静が伝えられていた。私たちは連日このことを話していたような気がする。そして40年たって観光からは忘れ去られているラオスをこの目で見たかった。

ラオス・ルアンパバーンの朝市は静かだ。その横をカーキ色の衣をまとったお坊さんの托鉢の列が足早に通り過ぎる。新鮮な野菜を近郊の農民が運んできたと思われるのだが、黙って座っている。ニコニコと微笑を浮かべながら座っている。そしてナイトバザールも穏やかだ。織物や塗り物が沿道に広く長く続いているのだが、誰も呼び入れる声を出さない。ただ座っている。いくら?と尋ねると小さな声で3ドルと言ったり、指3本で示したりする。こんなラオスを好きになった。もっとゆっくりとした旅程でもう一度きてみたい。

IMFによるGDPを計測できる180カ国の中でラオスは148位720ドル(一人当たり、2008年)、カンボジアは151位660ドル(同)という最も貧しい国だ。日本は22位35,650ドル(同)で50倍もあるのだけれど、だから何なのだろう。老親殺しや子殺しのニュースが溢れ、後期高齢者医療制度とかいって政治すら高齢者を切り捨てようとしている。もう一度ラオスへ行きたい。