第13回 ニチメン出身 凧九 【年賀状雑感】

Post date: 2011/08/25 6:10:02

年賀状雑感

ニチメン出身 凧九

日本の大多数が一斉にポスト(現在の正式名称は「郵便差出箱」)に出し、受け取る年賀状は、国民の年中行事の一つとして定着しています。そして年賀状は、平和の象徴でもあります。というのも、次のように歴史の語るところだからです。明治4年(1971)に前島密(まえじまひそか)によって導入されたイギリスを手本とする郵便制度は、次第に改善されてゆき、明治20年前後には「年賀状を出す」ことが、国民の間に年中行事の一つとして定着します。しかし、昭和12年(1937)日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が成立して、世の中は年賀状どころではない雰囲気に変わってゆきます。昭和16年(1941)に太平洋戦争突入以降、ついに逓信省は、「お互いに年賀状はよしませう」というポスタ-を掲げました。敗戦の年の昭和20年(1945)の正月は、どの家にも年賀状はほとんど届いていませんでした。戦争中に年賀状が消えたのです。

官製の年賀専用ハガキが誕生したのは、昭和24年(1949)です。これは同時に、お年玉くじ付きハガキのはじまりでした。この“お年玉くじ付き”は、民間人の京都在住・林正治さん(42歳)のアイディアで、自ら見本のハガキや宣伝用のポスタ-をつくって郵政省に持ち込み、紆余曲折を経て採用されたものです。世界でも類を見ない制度の実現です。これ以降、年賀状は飛躍的に増え始めます。この第一回のお年玉付き年賀ハガキの賞品は、

特等 ミシン、

1等 純毛洋服地、 2等 学童用グロ-ブ、 3等 学童用こうもり傘

これらが、当時の庶民の夢だったのです。

こうして続いてきた郵政事業は、2007年9月30日に終わり、10月1日から民営化に移行しました。郵便事業については、今までの国民へのサ-ビス重視から利益優先へと、重点が移ってゆくのではないかと、心配しています。加えて、パソコンが一家に一台あるいは、一人に一台となってゆけば、年賀状を出すという国民的行事もいつまで続くでしょうか。ともかく、民営化最初の2008年正月は、今迄どおりの年賀状が行き交い、まずは平和であるといえるでしょう。

さて、年賀状をみていると、年賀状だけの関係の人が、だんだん多くなっていることに、気がつきました。年に一回の年賀状だけ、しかもその多くは、ここ十数年会っていなかった人たちです。年賀状だけでなく、何回か手紙のやり取りをしている人たちとは、よく会っているのです。本当は、これは逆であるはず。会えないから手紙を出す、というように。ところが現実は、その逆でした。よく会うから、また手紙を出している。不思議です。

さらに年賀状だけの関係の人では、名前が書いてあるけれど、顔が浮かんでこない人が数人いました。どういう人だったのか、どこで出会った人だったのか、いくら考えても分からない。年を取ったから? それもあるのかもしれません。だとしたら、年々そういう人が増えてゆくのかと、ちょっと怖い話です。

きっとその人が目の前にいても名前が分からないでしょう。度忘れしてしまった、ということもよくあります。丸谷才一『双六で東海道』によると、ハ-ヴァ-ド大学のダニエル・L・シャクタ-教授が次の調査をしています。20代、40代、70代0の3グル-プに分けた人々に、どんな言葉を思い出せなかったかを、1ケ月のあいだ日記につけてもらった。どのグル-プも、度忘れがひどかったのは固有名詞で、そのなかでも国名や都市名よりも人名だった。そして固有名詞を忘れる回数は、年齢が高いほど多いし、個人的な知合いの名前を度忘れするのも、70代のグル-プにおいて最もはなはだしかった。

これは、アメリカ人でも日本人でも同じでしょう。ということで、人の名前はとても忘れやすいという結果でしたが、ほっとしてよいのか、それとも憂うべきなのでしょうか。

そういえば、昔はよく子供の写真入の年賀状を、頂いたものです。しかも、赤ちゃんにしろ、学齢の姿にしろ、子供だけの写真です。親の顔を知っていれば、問題も無く、眼が母親にそっくりだ、とか、口が・・・などと思いながら眺めるわけです。ところが、親の顔が浮かばないときは、困りました。忘れてしまったのは、私が悪いのではあっても、せめて見比べることの出来るように、親と子が一緒の写真ならいいのに、と思ったものです。

あ、もしかすると、子供の写真から親の顔を思い出せ、という意味合いもあったのでしょうか。しかしこれはなかなか難しい。親は長い年月の苦労などで、様々な変化を顔に刻み付けてしまうものですから。でも最近は、子供の写真入年賀状はきません。孫を持つ年代の人が多くなりました。やれやれ。

いただく年賀状には、版画の力作や、絵や筆の見事なものもあります。そして、近年はワ-プロ印刷のものが多くなりました。宛先も文面も印刷という人。ある人は、「私は宛先だけは、全部書いているのよ」と、自分の拘りを語ってくれました。私は、宛先を手書きしていたとき、けっこう書き間違いをして、ハガキを無駄にしてしまいます。それで宛先を印刷に。でも味気ないかな、と思って、次の年は手書きにしたりと、まだ迷って色々やっています。

いただく私からいえば、手書きの一言が入っていると、嬉しい。二言三言だと、とても嬉しい。なんなんでしょうね。自分に来たもの、という感じがするからでしょうか。しかし、なかにはこの手書きの一言に込み入った質問などがあって、困ったことがあります。年賀状は、大方が相互同時性で、お互いが同じ頃出し、同じ頃受け取る。受け取った年賀状に、「○○は、どうなっていますか?」のような質問があると、どうしようか、もう一枚、答えのハガキを出さなくてはならないのかな、とつい溜息です。通常の時なら、そう負担にもなりませんが、賀状という、いつもにない量のハガキづくりからやっと解放されて、ホッとしている時ですからね。せめて質問は、「お元気ですか?」ぐらいで収めてもらいたいもの。これなら、こちらの賀状が届いているでしょうから、元気だということはわかるはずで、二枚目のハガキは不要でしょう。

ところで、年賀状は相互同時性のもの、というのは大方のル-ルです。しかし私は、来年のことを、前年に「今年は・・」と書くのが、どうもしっくりしない。何回か大方のル-ルにのっとって書きました。でもどうも落ち着きが悪い。書いていて抵抗がある。それで近年は、新年を迎えてから、年賀状に取り組んでいます。当然、私の賀状はずいぶん遅く届く。でもこんな人間も一人ぐらいいてもいいでしょう。なので、私の年賀状は、相互同時性ではありません。

手書きの一言、とも関連するのですが、年賀状というと、私にはどうしても忘れられない話があります。それは、保坂清『美術館を歩く-西日本編』のエピロ-グのなかにありました。エピロ-グには、さしたる文章など書かれていないだろう、と思っていた私は、その本を買ってから、かなり後になって読んだのです。保坂氏は、エピロ-グの中で、自分の人となりと心情をさらけだしていて、正直な告白とも取れるその文章に、私は引き込まれました。ここにエピロ-グの全文をのせたいところですが、B6版で20ぺ-ジの文章なので、そのほんの一部を、私なりの要約を入れながら、引用してみます。

戦後の30年代に、保坂氏が、ある雑誌の編集長をしていた頃知り合って、すぐに仲良しになったS氏。二人で西洋美術館に寄ったとき、それは昭和39年の東京オリンピック開幕の日だった。

共通の知人の告別式に谷中の寛永寺に行き、その帰り、二人はどちらが誘うともなく西洋美術館に寄ったのだった。そこで何を観たかは忘れてしまったが、天気がよかったので帰りぎわ二人は前庭の芝生に腰を下ろして休んだ。二人の坐っている斜め右の方に、巨きなロダンの彫刻「カレ-の市民」があった。空は抜けるように蒼かった。「カレ-の市民」はこの秋空を睨みつけるように立っていた。それを眺めながら彼が突然いいだしたのはロダンのことではなく、「桐生悠々」という聞き馴れない人の名前であった。

(信濃毎日新聞の主筆だった「桐生悠々」の話が入りますが、長くなるので、惜しいけれど省略します)

そのあと、S氏と私は寝転びながら美術のありようについて話した。二人がその出会いから妙にウマが合ったのは、今にして思えば、およそ文学や、美術や、工芸や、いうならば芸術についてのスタンスが全く同じであることにあったのかもしれない。私たちの考えはこうであった。

およそ芸術家が「時代の子」であるというとき、彼は単に目の前にある時代を描写する者であっては意味がない。芸術家の写実が写真と違うところは、何よりも対象に対する批判の眼であろう。あるいは対象に対する愛、憎悪、憐憫、その他の情動であろう。それをあくまでも自分の名において表現しうるものでなければ、芸術とは呼ぶまい。私たちはそう思っていた。また芸術家に権力をもつ庇護者がいるあいだ、真の芸術は決してその環境から生まれることはないというのも私たちの持論であった。

だから、庇護者の手厚い保護の下に製作に専念できた有名な芸術家を、私たちは心から憎み、軽蔑することにしていた。

このように、考えを共にしていたS氏は、

何故か社とも折合いが悪くなって段段暮らしが立たなくなり、とうとう東京を引き払って、いまは名古屋の在に住んでいる。以後、何を本業として生活しているのか私には分からない。彼が話さないので私も訊かないのである。彼は私のことも訊いたことがない。だが今でも季節の便りをくれるとき、必ず「どうにかやっています」と一行だけ書いてあるのだった。ほかには何も書いてないので余計にその言葉には含蓄があった。「そうか、どうにかやっているのか」。それを見て私はいつも胸が熱くなるのを抑えることができない。

いうまでもなく、彼のような男にとって「どうにかやっていく」ことがどれほど苦渋に満ちたものであるか、手にとるように分かるからであった。たしか子供が三人ほどはいた筈の彼が、妻子を「どうにか」養うために何をしているのか、しかし私には分かる気がした。私の想像はこうであった。田舎に帰った彼が、たとえばどこかの役所か会社に勤めて、もう齢だから少しは偉くなっているのであれば、彼は決して「どうにかやっている」などとは書かないだろう。彼が「どうにかやっている」と私に書きうるのは、彼があくまでも自分を売らないで、痩我慢に痩我慢を続けて彼なりに生きているからであろう。そしてだからこそその一行の文章は「それでお前もどうにかやっているか」を問い続けてくれているのだろう。

ところでお察しのとおり、「どうにかやっている」とはいい難い私は、この一行のハガキに対していまでも何も書くことができない。私はただ正月ならば「謹賀新年」、夏ならば「暑中お見舞申上げます」と書くだけである。向こうがしつこく「どうにかやっています」と書き続ける限り、私はそれしか書くことができないのだった。

こうして引用してみると、年賀状だけのことではなく、これを含む“季節の便り”のことで、私の記憶違いでした。それはともかく、この話の、互いに心をかよわせる一行の言葉の重さに、私は圧倒されました。

お正月は、年賀状をきっかけに、平和を願うと同時に人との繋がりを静かに省みる、大切な時間なのかも知れません。

以上