第12回 ボクの好きなシャンソン―②・③ Tristan・k(元岡谷鋼機)

Post date: 2011/08/25 6:03:34

『ポーレット』-イヴ・モンタン-

何年前のことだったか、はっきりとは憶えていないのですが、現役時代のある日、いつもの通り帰宅して、いつものように風呂に入ってから、さてビールでも飲むかとコップに手を掛けて、一方の手でテレビのスイッチを押したところ、イヴ・モンタンの2回目来日公演の舞台が目に飛び込んできました。聞こえてきたシャンソンのメロディーや歌詞も、もうほとんど記憶にありません。以後、同じ歌を聴く機会にも巡り逢わずに、今日に到っています。

その曲の題名は、上に掲げた通りの「ポーレット」だったはずです。

モンタンは、ポーレットが友だち4人の少年と、パリの郊外をサイクリングしていく光景を、軽やかなメロディーに乗せて口ずさんでいました。5人は、どこまでもペダルを漕いでいくのですが、4人の少年は夫々がそれぞれともに“あァ、こいつらあとの三人さえいなければ、ボクは今どんなにか幸せだったろうか、あァ、ボクのポーレット”と心の中で繰り返し、緑の風に髪をなびかせながら、ただひたすら自転車を走らせていくといった筋書きでありました。ポーレットからサイクリングへの誘いを受けたとき、少年たちはみな天にも昇る心地であったのに、いざその日になってみると余計な3人が加わっていたという次第。彼らにとっては、なんともやるせない一日となりました。

ボクはこのシャンソンを耳にして、(ビールの杯を傾けながら)なんとも微笑ましく、そしてなんともほろ苦い想いに浸っていたような気がします。少年時代、このボクにもよく似た思い出があって、気がつくとあの日の仄かなかおりまでが、錯覚ではなくてそのままに甦ってきていたのでした。太宰治は「お伽草子・カチカチ山」で例の白ウサギのことを、「この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。そうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である」(ちくま日本文学全集)と書いています。ならば、このポーレットも「十六歳の」少女であったことになります。

以下は、ボク自身の勝手な想像にすぎないのですが、やがて、“サイクリングの日々”から十年の歳月が流れて、4人の嘗ての少年が、何かの折に再会を果たします。ひとしきり会話が弾んだところで、誰かが「それで、あのポーレットは、どうなったんかなァ」と切り出すと、別の誰かが「俺たちよか二つ上の、ジャンとかいうヤツと一緒になったらしいぞ」と答えます。あの日のポーレットは、4人の少年たちにとって、間違いなく一匹の兎でありました。

ところで、今や六十も半ばになってしまったボクではありますが、「女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいる」(同上)ことを、これまでイヤというほど感じてきたはずなのに、それでも未だに“ちっ!こいつらあとの三人さえいなければ”と思ってしまうことがあるのですから、人間というのはいくつになっても厄介な生き物なんですね。

③『ぼくは歩いてここへやってきた・・・』-イヴ・モンタン-

1980年の10月、パリ・ミュージックホールにイヴ・モンタンが還ってきました。13年ぶりの舞台です。この間、彼は芝居や映画に出演してみたり、気が向くとペンを執ったり、時には政治の世界にまで出掛けていきました。寄り道は少し永すぎたけれども、白シャツに黒チョッキのいでたちで唄うモンタンのシャンソンは、やはりパリっ子が待ちに待っていたものです。

ぼくは歩いてここへやってきた

ゆっくりと、急がずに

歩いてやってきた 歩いて歩いて

あなたに会えると分かっていたから

歩きながら、急ぎはしなかった (ユリイカ 1982・青土社)

ここでいう『あなた』というのは、会場を埋めつくした聴衆であると同時に、「ぼく」のシャンソンを待っててくれた人たちの前で唱う「ぼく自身」の姿のことでもありました。

人はみなこの世に生れ落ちて、ひとたび『とき』と手を繋いでしまうと、その手から振りほどかれるまでは、いつまでも一緒に歩いていくものです。こちらが走れば、『とき』も同じ速度で追いかけてくる。その替わり急ぐ分だけ、見落としや忘れものも多くなる。

それにしても私たちの近代は、ひたすらに速いものを追い求めすぎてきたように思えてなりません。辿り着くまでの道のりが大切なのに、関心は目的地に到着する時間の早さの方に向かってしまった。それによって行き先の数は増えたけれど、いずれも「途中」が抜けてしまっているから、ただ身体を移動させただけで、「物語り」にはなっていかない。

「急ぐこと」というのは、「便利なこと」に置き換えることもできるでしょう。急ぐことが、全てダメだとは言えませんが、「ゆっくりと、急がずに」歩いていくことも、常に忘れてはならない大切な心がまえだと思いませんか。

*「ボクの好きなシャンソン」・了