これまでの演奏会のプログラムに掲載された曲目解説(プログラムノート)の翻刻掲載です。
※「ふたことみこと」は創立団員前川のコメントです。
指揮者でソリストのおしゃべり
鎌倉亮太
本日は札幌シンフォニエッタ第67回演奏会にようこそお越しくださいました。
曲目について、コンセプトや私なりの想いなどをご紹介します。本日の3曲は全て短調の曲で構成されております。せっかくの北海道の爽やかな夏の時期なのに、重々しい曲ばかりを集めました。ただ最後にちゃんと救われますのでご安心を。
前半のモーツァルト2曲はどちらもニ短調で作曲されております。モーツァルトにとってニ短調とは「死」を予感させる調と言われております。代表例が『レクイエム』、その名の通り死をテーマにした曲です。最初に演奏するオペラ『ドン・ジョバンニ』序曲も、石像の姿となった亡霊により、主人公ドン・ジョバンニが地獄へ引きずり込まれるという、やはり「死」をテーマにした壮絶なストーリーとなっております。冒頭の重々しい和音から始まるアンダンテの音楽は、まさに物語のクライマックスで石像が登場するシーンの音楽が転用されております。主人公が亡霊と対峙した、荘厳な世界観をお楽しみください。
■ふたことみこと■
2000年ごろのことだったでしょう。ある合唱関係者に、「合唱の世界でオーケストラを振れる人はいませんか」と聞いたことがあります。宍戸悟郎先生に2回目の指揮をお願いしようかと思っていたところへ、先生が倒れられたからでした。返答は「若い人でいますよ。カマタさんって言ったかなぁ…」というもので、誰とも特定できるに至らず、話はそれで終わってしまいました。
今から考えると、“カマタさん”は鎌倉亮太さんだったのですね。私にとって、ご一緒できるまでに23年という時がかかっての共演となりました。
次に演奏するピアノ協奏曲第20番K.466にも重々しいドラマが待っております。この曲は1785年29歳の頃の作品です。モーツァルトは26歳で結婚し6人の子どもを授かりますが、そのうち4人は産まれて間もなく亡くなってしまいます。そんな激動の時期に作曲されたこの曲は、彼の中での初めて短調で書かれたピアノ協奏曲であり、冒頭から激しく訴えかけてくるシンコペーションのリズムから始まります。悪魔に取り憑かれ、そこから逃げるような、ある種の焦りを感じることができます。彼の作品に短調の曲は少なく、だからこそ短調の作品からは、どの曲も私的な深層心理を感じることができます。
曲の完成度は秀逸極まりなく、ちょうど名作オペラ「フィガロの結婚」の完成を翌年に控えた頃の作品であることから、作曲家としての創作力が絶頂に向かう時期の作品であると言えます。事実、全27曲あるピアノ協奏曲の中で現在最も演奏されている曲と言っても過言でありません。
ところで、協奏曲と呼ばれる曲には必ず「カデンツァ」というものが存在します。これは第1楽章や終楽章のそれぞれ終盤に登場するもので、オーケストラを全て休ませ、ソリストの独奏を披露する場面です。一言で言えばソリストの技巧を見せつける場面と言っていいでしょう。モーツァルトの場合、自身で演奏する際はカデンツァを即興で弾いていたため、楽譜として記さなかったケースがしばしばあります(諸説あり)。今回の第20番も彼自身が演奏するために作曲されたためカデンツァは残っておりません。では現在の我々ピアニストはどうすれば良いでしょうか。誰かが作曲したカデンツァを拝借するか、自分で作曲するしか方法がありません。残念ながら私は作曲できる能力がありませんので、今回は誰かに頼ることにします。この曲は後世の作曲家にとっても超名作であったため、様々な作曲家がカデンツァを残しております。代表的な方は、ベートーヴェン、ブラームス、フンメル、ライネッケなどです。昨今の録音や演奏会でこの曲に触れる際、ベートーヴェン作曲のものを演奏することが多いのですが、今回の演奏では少し趣向を変えて、第1楽章はベートーヴェン作曲、第3楽章はフンメル作曲のカデンツァを披露いたします。
話はガラッと変わりますが、「指揮者」と呼ばれる人はいつ頃誕生したのでしょう。少なくともモーツァルトの時代には存在しませんでした。その代わり通奏低音と呼ばれるチェンバロなどの鍵盤奏者や、ヴァイオリン奏者(いわゆるコンサートマスターのポジションの方)が指示を出したり、協奏曲であればソロを弾く方が音楽を先導したりと、方法は様々だったようです。その意味では、今回のピアノ協奏曲の演奏スタイルは当時に準じた形といえます。
■ふたことみこと■
鎌倉さんとは、シンフォニエッタ演奏会2カ月前の5月に、自身が正指揮者を務める新アカデミー合唱団の「コンサート6」にシンフォニエッタが出演して伴奏を務める機会がありました。
この合唱団には前川の大学時代の同級生がメンバーとして加わっています。学生時代は音楽に親しんでいた様子のなかった人なのですが、本州の建設会社勤めを退いて札幌に戻り、合唱を始めていたのでした。
卒業から52年もたっての共演なので、Kitaraの舞台で一緒に写真を撮って同期の連中に送ってやろうと楽しみにしていたのですが、体調の関係で出演見送りとなり、実現しませんでした。
話を戻して、指揮者の役割を確立したのは誰だったのか。実は、その原型を作ったのはメンデルスゾーンと言われております。指揮棒を始めて使ったのも彼でした。メンデルスゾーン家では、銀行家であり熱心な教育家の父親の考案により、自宅で定期的に「日曜音楽会」が開かれておりました。そこで12歳の息子が作曲した作品を発表し、そこで指揮もするようになったのが始まりとされています。
メンデルスゾーンの大きな功績として、バッハの『マタイ受難曲』を発掘して復活上演を行ったことが挙げられますが、それは彼が弱冠20歳のことでした。その1ヶ月後、彼は初めての一人旅でイギリスを訪れます。ロンドンでの演奏会を成功させたのち、スコットランド地方を回ります。首都エディンバラに到着した彼は、歴代の王様が居住していたホリールード宮殿を訪れ、そこで受けた強烈な印象から、手元の紙に16小節のスケッチを書きました。これこそが後半に演奏する交響曲第3番作品56「スコットランド」の始まりとなります。過酷な嵐に見舞われた英仏海峡の航海、ロンドンからの道のりで見た中世が残る町並み、霧に包まれたエディンバラのお城、民族衣装をまといバグパイプを持った人々、その向こうに広がる山々や北海、全てが彼のインスピレーションとなり、この曲の中に散りばめられております。この曲もやはり短調で書かれておりますが、そこには決して悲観的な意味合いだけではなく、霧に包まれた北国の憂いに満ちた景色が重厚感をもって表現されています。
20歳でこのインスピレーションを感じた彼ですが、実は曲が完成されたのは、そこから13年後33歳の時でした。それだけの長い年月をかけて構想を練り、ついに完成させた彼の想いは終楽章の終結部分に表れます。一瞬の静寂の後に、雄大な景色が、なんと「長調」で描かれるのです。若き日に感じた強烈な想いと、時を経て成長した自分が改めて当時を振り返って見た記憶が重なったとき、そこにはどんな景色が見え、どんな想いをもってこのフィナーレを作曲したことでしょう。そんな想いをお客様と共有しながら本日のフィナーレを迎えたいと思います。まさに「短調」ばかりの演奏会のフィナーレを飾るにふさわしい、全てを包んでくれる雄大な「長調」の音楽を存分にお楽しみください。
■ふたことみこと■
新アカデミー合唱団のコンサートでは、合唱団と指揮者、伴奏者に加え、バイオリン独奏者、独唱者4人にシンフォニエッタが出演していましたから、楽屋の部屋数は多くてもオーケストラは男女各1部屋で、密度は高いものでした。シンフォニエッタ演奏会をKitaraで開いた時その部屋は「木管男性」用で、“住人”は前川1人だったのですが…。
サンプラザホールの楽屋は男性用・女性用が1つずつです。女性用にしている部屋の中をじっくり眺めたことはないのですが、今回、男女別人数との対比が気になりました。人数と部屋の大小が逆になって不便をかけたりしていないだろうかと思ったのです。
人数比は男性3:女性5、図面では女性用の部屋の方が大きいことが見て取れました。女性たちには部屋への出入りに靴を着脱しなければならない不便をお掛けしてはいますが、人数割としてご理解を願い上げます。